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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「戦争が起こったらその日に死にたい」 ②


 名護より北に住む人々の声を二年かけて集め、34人の証言を活字にした。すべて中高生の聞き書きである。戦争体験を聞いた自分たちの感想も添えた。本のタイトルは『血に染まるかりゆしの海 父母から受け継ぐ平和のたいまつ』。「かりゆし」とは「めでたい」「幸せ」を意味する「うちなーぐち」(沖縄の方言」である。

 その冒頭を飾った証言者は、創価学会員ではない。「私の祖母は学会には入りませんでした。しかし池田先生の提案された反戦出版には協力してくれました」と上原春樹は語る。

 池田との勤行会に居合わせた時、大学受験の浪人中だった。「自分にできることならやってみたいと思いました」。沖縄国際大学に入った後、祖母のシゲに戦争体験を聞かせてほしいと頼んだ。かわいい孫の頼みだが、シゲは何度も断った。「池田先生が私たちに言われた『戦争の風化を防ぎ、先輩たちの体験を受け継いでほしい』という戦争否定の思いを伝えたことで、祖母の心が変わり、話してくれたのだと思います」(上原春樹)。


 上原シゲは糸満に住んでいた。家族で久志村(現・名護市)へ避難した。

「祖父は海人(うみんちゅう)(漁師)でした。地上戦が始まると、日本兵が祖父の首に日本刀を当てて『食料を出せ』と脅したそうです」(上原春樹)。

 <沖縄戦がもっとも悲惨な様相をみせていた昭和20年5月21日、長女が誕生しました>。」シゲは素直に喜べなかった。<味方と信じていた日本軍は、敵に発見されるからといって泣きじゃくる赤ちゃんを殺してしまう>からだ。<アメリカ軍にせよ、ハブにせよ、さらには食料難にせよ、それらは私たちの本当の敵ではなかったのです。沖縄戦の本当の敵、それはこともあろうに日本軍でした>。

 生まれたての赤ん坊はほとんど泣かなかった。<手のひらに包まれるくらい小さな小さな子どもでした。もはや長くは生きられまい、私は内心で思ったものです。が、1週間二週間とすぎるころから元気な泣き声をあげはじめたではありませんか。この泣き声がもとで日本軍に殺される当時でしたけれど、私はうれしくてうれしくて、飛びあがって喜びました>。

 自決か、捕虜か。選ぶ時が来た。<当時、捕虜になるのは死より恥ずかしいことでしたけれども、日本軍に殺されるよりは、と山を降りました>。聞き書きの最後にシゲは声をふりしぼった。<現在、もし戦争が起こったとしたら、その日に死んでしまいたい>。


 春樹は自らまとめた証言を読み返し、「当時の自分には祖母が味わった地獄の一〇分の一も書けませんでした。しかし精一杯取り組みました」と語る。沖縄青年部が取り組んだ「沖縄戦の絵」展に実行委員として参加し、巡回展での司会も務めてきた。

 「人間という生き物には戦争がつきものかもしれません。仏法で『貪瞋癡(とんじんち)』を説くとおりです。しかしこの仏法思想が広がれば、必ず戦争の見方が変わる。私は幸いにしてこの沖縄で池田先生と出会い、被害の歴史をバネに、自分の生命を磨く方法を知りました。どんな立場であろうと沖縄のために何かできるはずだと思っています」

 「戦争が起こったらその日に死にたい」 ①


 名護市の西隣、本部町の渡久地港から30分ほど船に揺られると、伊江島に着く。アメリカ海軍が「血塗られた丘」と呼んだ沖縄戦の激戦地である。里子は高校生8人とともに泊りがけで伊江島にも出かけた。

 那覇市の九割が焼き尽くされた「十・十空襲」。伊江島も甚大な被害を受けた。<朝になって・・・・・あたりを見回すと、方々に血まみれになった人々が倒れていた。手がちぎれ、足がふっとび、首がない。顔のぐしゃぐしゃになった首が、目の前にころがっているし、向こうの松林の木の枝には足がひっかかっていた・・・・・私たちは恐怖にうち震えて身動きひとつできなくなるのであった。海岸も死体の山であった>(山田初子)。

<アメリカ軍、そして味方の日本軍にまで踏みつけられつつ生きねばならなかった>(上間真勇)。

 聞き書きを進めるにつれ、子どもたちは<本当のことを口にしてはならない時代>(岸本泰吉)のことを知っていた。<私はもはや二度と戦争中のことは思いだしたくありませんし、話したくもありません>(辺野古、金城ウト)──断る人も多かった。懸命に下調べをして臨んだが、一緒に暮らしている両親や祖父母がいったん口を開くと、想像も及ばない悲惨を知る知ることになった。池田の提案は、何よりもすぐれた平和教育だった。

 日本軍は「沖縄の言葉を話す人間はスパイとみなせ」という指令を出していた。沖縄の至るところで何の罪もない人々が「友軍」に虐殺された。アメリカ軍だけが敵ではなかった。<(日本軍は)私たち沖縄の人間を、同じ日本人と思っていたのかもしれない>(国頭、金城ウトミ)。<間接的にせよ日本軍が沖縄のたくさんの人びとを死においやったも同じではないでしょうか>(久志、比嘉康則)。捕虜になった後も<昼は米兵の監視のもとに生活し、夜には暴徒と化した日本兵に悩まされる毎日だった>(伊江島、棚原正幸)。軍隊は軍隊自身を守り、決して住民を守らない──反戦出版の沖縄篇は、どの巻にも、この教訓が刻み込まれている。

  「いくさや、ならんどー」 ②


 「創価学会に入ったのは母が先です。私の姉の春子が産後の高熱が続き、精神を病んでしまったのがきっかけでした」(宮城里子)。公設市場の近くに住む知り合いが学会員だった。

 ウトが御本尊の前に座ったのは1961年(昭和36年)である。

「私は最初、反対しました。『信心で病気が治るものか』って」。ある時、里子は座談会に参加し、思い切って尋ねた。「赤の他人である戦争の犠牲者も、私が祈れば救われるのですか?」その座談会を担当していた友利栄吉は「必ず救われる。それはとてもいいことだ」と言い、御書(=日蓮の遺文集)を通して仏法の生命観を語った。友利は那覇支部に初代支部長である。

「わからないことは何でも聞いてください。私がわからなければ東京の学会本部に問い合わせて、必ずあなたに答えます」とつけ加えた。

「友利さんの誠実さに惹かれてこの信心を始めました」(宮城里子)。

 初めて池田と会ったのは東京である。「旧学会本部の二階で、先生と沖縄女子部の懇談会がありました」池田は「女性が幸せになる勝負は四十代からだよ」と強調した。

 「娘の時に『蝶よ花よ』と大切にされても、人生の最終章がみじめだったら幸福とは言えない。力をつけなさい」「結婚する人もしない人もいるだろう。他人と比べてうらやましがってはいけないよ」「創価学会は人間革命の団体なんだから、最初から立派な人が集まっているわけではない。なかには嫌な人がいるかもしれない。人は日々変わっていく。一面的に見てはいけないよ」「人の悪いところは見ようとしなくても目につく。いいところを見つけ出していきなさい」

 20分ほどの懇談だった。「私の原点です。悩んだらいつもあの日に返ります」と里子は述懐する。それからしばらくして、聖教新聞で池田の次の一文を目にした。

 ────私の反戦運動/平和運動は/美名の国のためでもなく/一団体のためでもなく/今自分自身が/安穏無事であるという/償いのためといってよい──。この言葉を知り、「初めて罪悪感から解き放たれた」という。

 名護会館で池田から「戦争体験の聞き書きを」と言われた時、里子は女子部の本部長として沖縄中北部の一帯を担当していた。「全力で中高生たちを応援しました」。


   「いくさや、ならんどー」 ①


 摩文仁の丘は見渡すかぎり戦争の跡がむき出しになっていた。

「かんぷう(=沖縄の髪型)を結ったおばあたちが、ガマのふちにひれ伏していつまでも号泣していました。私は、頭骸骨の二つの穴が天空をにらみつけているようで、見てはならないものを見てしまったような罪の意識を感じたのです」(宮城里子)。

 なぜ、おばあたちがあんなに苦しまなくてはならないのか。無性に悲しくなり、泣きじゃくった。その日から母の浴衣の袖をつかんでいないと眠れなくなった。おびえる里子が寝息を立てるまで、ウトは「大丈夫だよ。もう心配ないよ」とあやし続けた。中学校の修学旅行のコースにも摩文仁の丘が入っていた。里子はとても行く気になれず、バスの中で皆の帰りを待った。

 平凡に暮らしているだけで、いやでも戦の傷跡を目にした。

「中学校にはまだ焼却炉がなくて、大掃除のゴミは裏庭に穴を掘って燃やしたのですが、穴を掘ると必ず人骨が出ました」。

家の畑仕事を手伝うと、振り下ろした鍬がコツンと音を立てた。拾った骨を持って駆け寄る里子に、母のウトは「馬の骨よ」「牛の骨よ」と言いきかせた。「いくら母がウソをついても人の骨だということはわかりました」。

 十五歳の頃、名護の自宅近くに一人の老婆が住んでいた。彼女との出会いを反戦出版に綴った。(『沖縄戦・母の祈り 娘が綴る母親の記録』)。無口な老婆だった。いつもすりきれた下駄を履いていた。

<四人の息子を戦地に贈り、帰ってきたのは 戦死の通知が四回。一人娘も戦争で死にました>

 子どもが大好きな老婆だった。よく近所の子たちに「わーんまが」(私の孫)と声をかけた。配給の粉ミルクを与え、頭をなでて、


 「わーんまが、


   いくさや、ならんどー」


     (戦争は、もうこりごりだ)


 と飽きることなく繰り返した。

<十年ほどして 老婆は死にました。看取られる人もない 孤独のなかで・・・・・・小さな小さな身体でした。髪の毛も 櫛の歯から スーッと抜けるほどに 少なくなっていました>

 沖縄県民の25㌫が命を奪われた沖縄戦。その苦しみは、戦争が終わった後も延々と続いた。


 「中学生、高校生が戦争の聞き書きを」 ②


 どの地域を取材すべきか。証言者は何人いるか。一冊でまとまるか。ページ数は。戦争当時の資料を集められるか。誰が面倒をみるか。「今までにないものをつくろう」。池田はその場で細かいアドバイスを続けた。「海岸博覧会(=1975年に開催)が行われる場所は(戦争で)蹂躙されて、めちゃくちゃになった。私は今の高校生、中学生が鋭い目で(沖縄戦の聞き書きを)つくることに意義があると思う」「立派な本として残すことを私は提案しておきたいのです」『三年、四年、五年かかってもいい」。

 池田は一枚ずつメモを配り、それぞれの名前と決意を書いてもらった。「みんなもう大人だから。戦争の聞き書きを『やってみます』という人も、『私はできません』という人がいてもいい。当然です。全部、正直でいいです」と念を押した。

 最後に、恩師である戸田城聖の伝記小説『人間革命』を書き始めた九年前の思いを話した。

「いずこの地で一枚目を書こうかと考えた。そうだ、もっとも日本列島のなかで、悲惨と苦汁をなめた沖縄の地でしたためたいと思った。その一枚目が昭和40年1月1日の原稿なのです。この意味をどうか分かっていただきたい」(1974年3月5日付「大学新報」)。

 創価学会の反戦出版が世に出るのは、この懇談の4カ月後である。池田は名護の子どもたちに「何でもないようなことが50年先に『ああ、あの時の意味はこれだったのか』と思うものです」とも言った。

 宮城里子は「本当に先生の言われた通りでした。後になればなるほど、この聞き書きは価値を増しています」と語る。里子自身、反戦出版の第一巻『打ち砕かれしうるま島』に寄稿し、編集も手伝った。そこに書ききれない原風景があった。

 父の桃栄は沖縄戦の終わった翌年、病死した。母のウトは名護の公設市場で働き、子どもたちを育てた。敗戦から3年目の冬のことだった。8歳の里子はウトに連れられ、共同トラックで摩文仁の丘──南部戦跡に向かった。ウトの従姉妹が「ひめゆり部隊」の犠牲者だった。

 今は「健児之塔」が立っているあたりに大きなガマ(自然の洞窟)があった。

<すすきにおおわれた細い坂道が海岸へ続き、ものさびた潮騒の音と、ぽっかりと口をあけた壕・・・・・壕の中には白骨と化した頭がい骨が、山のように積まれていた。飯ごうや軍靴は、木の根っこのどこにもころがっていた>(宮城里子の手記)。