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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「知らない」ことは「存在しない」こと ①


 「母が私たちきょうだい三人を育ててくれました」(睦子)。登美は日本との貿易業など、さまざまな仕事を手がけたが、知人の保証人を引き受け、夜逃げされてしまう。本土復帰前の計算で二二万㌦もの負債を抱えた。さらに息子が病弱のため、希望する進路に進めず、心を痛めた。

「もうどうしようもないという時に、屋嘉比さんという婦人部の方から『どんなに力があっても、福運がないとだめなんですよ』と言われ、学会に入りました」。1965年(昭和40年)のことである。

 一門の神子が「ヤマトゥガミ」(本土の宗教)を選んだ──言うまでもなく一族からは猛烈に反対された。

「先祖への御願グトゥではジブ自身の悩みを解決できなかった。この悔いを晴らすために、創価学会の信心に駆けようと決めました」。

 登美はやがて名護城跡でコテージを営むようになり、家計もようやく上向くようになった。弘教した人の数は90人に迫る。反戦出版をはじめとする平和運動も、自分が取り組むだけでなく、同世代の知り合いに「私たちがしなければ、誰がするの」と訴えて回った。

 五度の名護訪問に限らず,登美と娘の睦子は池田からの励ましを受け、ともに名護の婦人部長を歴任してきた。池田の妻である香峰子からある年に届いた年賀状。

「・・・・・花の王者、向日葵のような明るさと強さを持ち、わが生命の勝利の太陽を輝かせゆく本年であられますように」と記されている。「毎年、この思いだよ」。登美は朗らかになった。


 「何事にも活発な母ですが、戦争体験のなかで唯一、口にしないことがありました」湖城睦子は語る。

「摩文仁の丘に『平和の礎』を訪れた時のことです。「平和の礎」───国籍や、軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などのすべての犠牲者の名前を刻んだ沖縄県の記念碑である。長い石碑が途切れると、波の音に包まれ、視界いっぱいに摩文仁の海が広がる。左手には崖が見える。しかし登美は、その美しい海を絶対に見ようとしなかった。きびすを返し、一度も振り向かなかった。

「母は一度だけ小さな声で話してくれました。沖縄戦の渦中、追いつめられた若い母親たちが、摩文仁の崖からわが子をあの海に放り投げ、自分も身投げする地獄絵図を見たのです。このことは反戦出版にも書けず、沖縄の絵でも描けませんでした。人一倍、声も大きく、よく話す母ですが、このことだけは人前で話しません・・・・・」睦子は声を詰まらせた後、こう語った。「被害を受けた人々が発信するのは大変なことです。しかし『知らない』ことは『存在しない』ことになります。戦争体験の継承は、沖縄の私たちがやらずに誰がやるのかと思っています」。

 「外の砲弾のほうがまだ耐えられる」


 保健師の宮城幸子は沖縄各地をはじめ、50代からはボリビアやメキシコの公衆衛生看護活動に尽くし、厚生労働大臣表彰や医療功労賞を受けてきた。彼女もまた名護で池田と出会い、信仰を深めた一人である。

「私には父の記憶がありません。私が生まれて50日目に、口永良部島の海で亡くなったんです」。その日、幸子の父は湖南丸という船に乗っていた。戦争中、那覇と大阪を行き来する貴重な交通手段だった。1043年(昭和18年)12月、アメリカの潜水艦に魚雷を撃ち込まれ、577人が命を落とした。わずか数人が生き延びたが、警察や憲兵から「誰にも話すな、手紙も書くな」と口止めされた。1500人近くが犠牲になった対馬丸をはじめ、数多くの「戦時遭難船舶」の悲劇は戦後も長く知られることがなかった。

 幸子は女手ひとつで4人の子を育てる母の背中を見て育ち、奨学金で学べる看護学校に進む。池田が「戦争体験の聞き書きを」を呼びかけた74年(昭和49年)の名護訪問で、初めて池田を間近に見た。

 「名護でお会いした5年後、池田先生は第三代会長を辞任されますが、東京で大きな会合があった時、聖教新聞社のロビーでたまたま先生とお会いしました」。池田は幸子たちに「はるばるようこそ」と声をかけ、記念のカメラに納まった。「沖縄のメンバーと肩を抱き合う先生の姿が、今も目に焼きついています。『やっぱり先生は変わらないね』と皆で喜びました」。

 池田の妻、香峰子の「勝たなくてもいいから、負けないこと。どんな事態、状況になっても負けない一生を」という言葉が、ボリビアやメキシコで文化の壁を超える力になったと語る。「私の人生で一番良かったことは、この信心とめぐりあったことです」。


 「わんが さんねー たーがすが」(私がやらなければ誰がするのか)。今年95歳になる湖城登美の口癖である。これまで池田は名護を5回訪れた。登美は」地元の中心者の一人として、多くの行事を陰で支えてきた。娘の睦子から戦争体験の執筆を頼まれた時は、何度も原稿を書き直した。登美の手記は『沖縄戦・母の祈り 娘が綴る母親の記録』に収められた59組の証言の中で最も長く、一二頁に及ぶ。

 登美は1920年(大正9年)、那覇の大地主の家に生まれた。14世紀末、中国の福建省から那覇の久米村に移住した。「久米三十六請姓」の末裔で、祖父の代まで唐名もあったという。さらに登美は創価学会に入る45歳まで、一族の「神子」を務めていた。「神子は、商売のユタとは違います。母は『シヂ高さん』(霊力が強い)と言われ、4歳から御願グトゥ(先祖供養などの行事)のちーく(お稽古)をさせられていたそうです」(湖城睦子)。

 登美の家族は「十・十空襲」の後、県庁に勤める親戚から「軍についていったほうが安心だ」ゎ、南の島尻へ向かう。

 「糸満の南山城跡を通り過ぎる時、母の祖母は『私たちの先祖の城だね』と言い、城に向かって『先祖がマササミセーラー(力があるなら)、クヮーンマガ(子孫)をマムリミソーリヨー(守ってください)』と大きな声で言ったそうです」(睦子)


 避難生活では親切な日本兵に助けられたこともあった。『子どもがいるんだから決して死んではいけない」といたわってくれた。その中尉は右足だけが遺体として戻ってきた。

 24歳の登美は、糸満の自然壕で信じがたい光景を目にする。壕の底のほうに日本兵がいた。

 <(日本兵の)食料は豊富らしく、無煙燃料で盛んに料理をしておりました。避難民のなかには、母親の乳が出ないため泣き叫ぶ赤子や、食を求めて泣く幼児がおりました。その声を聞きつけた兵隊が、下から上ってきて母親から子どもを奪い取り、泥水の中に投げ捨て、子供を殺してしまうのでした。             母親は悲しみのあまり発狂してしまいました。すると、兵隊はその母親まで壕の外に放り出してしまったのです・・・・・あまりの」恐ろしさにどうにも我慢ができず、3日ほどして頼みとしていた壕を捨てたのでした。私たちには、外の爆弾のほうがまだ耐えられると思ったのです>

 登美は逃避行の渦中、祖母を失った。米須でアメリカ軍の捕虜になり、糸満国民学校に収容された。

<その晩は雨になり、沖縄中の人びとの涙がすべて雨になって降るのではと思うほどの大雨でした。長いあいだ戦火に追われてきた人びとのなかには、安ど感に精根尽き果てたのか、雨に打たれながら、そのまま死んでいくひともたくさんいました>

  名護の浜で待っていた三〇〇人の友 ②


 「先生は必ず来られると思っていました。2月17日はちょうど旧正月で、大きな会合もなく『今日しかない』と。事前にそんな連絡は一つもなかったんですが」。荻堂美枝子は、知らせを聞いて母の仲程久子と一緒に名護港まで走った。

 たしかに池田先生が訪れる予定はなかった。恩納村の「いんぶビーチ」から乗った船の舵が利かなくなり、名護港に着いたのだ。それにもかかわらず、浜辺には三〇〇人ほどが集まっていた。池田は「みんなの一念はすごいな。題目に引き寄せられたな」と笑い、子どもたちの晴れ着姿に目を細めた。

 美枝子は東京にある保育士の専門学校に合格したばかりだった。思いきって池田に声をかけ、そのことを告げた。

「なぜ持っていたのか覚えていないのですが、小説『人間革命』の第四巻をもっていました」。池田は美枝子が小脇に抱えていた『人間革命』を手にとり、見返しに「生涯 名護を忘れずに信心を」と揮毫した。

 その様子を眺めていた母の久子。反戦出版に「子を背負い弾雨の中を逃げる」という一文を寄せている(『打ち砕かれしうるま島』)。

 沖縄戦の当時、本部半島の先にある瀬底島に住んでいた。夫と離婚していた久子は、空襲が相次ぐようになると二人の子を連れて本島に渡った。呉我山に隠れて暮らしたが<どうせ死ぬのなら他の部落より島の方が良い>と思い直し、海沿いの渡久地まで戻った時、アメリカ軍に銃撃された。


 <6歳の男の子をおぶって夢中でかけていた私は、突然体の均衡を失い倒れてしまいました。「ここで死ぬのだろうか」一瞬うすれゆく意識の中で私は背中の子供を確かめました。子供が無事だとわかると、すーと血の気の引くような感覚と鋭い痛みが全身を走ります>

 太ももを撃ち抜かれていた。着物の袖をちぎって傷口をしばり、乳飲み子を背負った。足を引きずり、這うように逃げ続けた。辺名地の山道をさまよっていた時、とうとうアメリカ兵に見つかってしまう。久子の血だらけの足を見て<兵隊たちは傷口を消毒し包帯をまいてくれました・・・・・瀬底島にたどりついた人たちは私が死んだものと思い、位牌を作って二周忌(三回忌)まですませていたそうです>。

 戦後、久子は名護で小料理屋を開いた。池田が初めて沖縄を訪れた2カ月後、創価学会にめぐりあう(1960年9月)。娘の美枝子は、信心を始めた母が明るく変わっていく様子をよく覚えている。「母に連れられて行った座談会には、畑仕事からそのままやって来たひとたちがたくさんいました。帰りにバスがなくなると、よく通りがかりのトラックにヒッチハイクを頼んで帰りました」。

 本土復帰の直後、池田は沖縄の学会員たちを日本武道館で行われた本部幹部会に招待した(1972年5月30日)。久子はその時に参加した代表25人の一人である。

 しばらくして青年部から反戦出版の呼びかけがあった。悩んだ末にペンをとった。末尾に<(沖縄戦を生き延びた)この身を何か世のために役立たせたい>と綴っている。その言葉どおり、94歳の今も名護の地で、娘夫婦とともに朗々と題目を唱える。

 名護の浜で待っていた三〇〇人の友 ①


 反戦出版の証言の多くは、それぞれの地で池田と出会い、祈り、生きぬいてきた人々の物語でもある。

 <すべてが私たちには秘密にされ、たえずどこかしらに憲兵の鋭い眼が光っている名護の町。それは、沖縄のよその町でも同様であったことでしょう>。『血に染まるかりゆしの海』でこう語ったのは、86歳の具志堅芳子である。夫の雍英とともに、草創期の名護のリーダーとして山原の町々を走った。

 芳子は沖縄戦の時、16歳だった。非難した豪に赤ん坊がいた。反戦出版の聞き書きに応じた時、その壕で起きた出来事だけはどうしても話したくなかった。ある親が、泣きじゃくる我が子を殺す瞬間を、芳子は目の前で見ていたのだ。『血に染まるかりゆしの海』には短く<隠れ場を敵に感づかれないため、泣き叫ぶ我が子の命を断つ父親・・・・・「泣くと殺されるヨー」と祈るように言いきかせる母親>と証言している。


 敗戦の6年後、芳子は雍英と結婚した。雍英もまた沖縄戦で傷を負った無数の若者の一人だった。銃撃戦で両足を撃ち抜かれたが、陸軍の壕に逃げ込み、ひと月ほどで歩けるようになった。戦線に戻った直後、手榴弾の破片が右手首を貫いた。

 敗戦後、歯科技工士の見習いとして病院で働き始め、芳子と出会った。4人の子に恵まれた。信心を始めたきっかけは長女の知的障がいだった。

 近所づきあいのあった学会員の誠意に打たれ、1961年(昭和36年)3月、家族で創価学会に入った。「一人で歩けるようになった」「小学校で話ができた」「歌が歌えるようになった」────長女が成長を刻むたび、皆で喜び合った。

 池田を初めて名護に迎えたのは、ちょうどそのころだった。信心を始めてから8年が経とうとしていた。1969年(昭和44年)2月17日。沖縄はまだアメリカの統治下である。雍英は妻の芳子と並んで名護港に立った。急ごしらえで「先生ようこそ」と書かれた横断幕が海風にはためいていた。

 「9歳だった私は小学校の帰りに駆けつけました。小さな船から砂浜に降り立った先生は、出迎えた両親たちに『名護に会館を作ろう』と言われたそうです。父は何歳になっても『あの声の響きは忘れられない』と話していました」(娘の桑江恵美)

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