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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  生き延びた者の使命 ①


 「結成式が行われた学校の体育館は満員で、私たちは校庭にいました」(桑江千代)。参加者の数は1万2000人を超えた。校庭にゴザが敷かれ、仮設トイレも作られた。五歳の豊が「おしっこに行きたい」と言い出し、朝昭は人混みをかき分け、トイレに連れて行った。

 席に戻る途中のことだった。白い開襟シャツを着た男性が朝昭の前で立ち止まり、豊の頭をなでた。「ぼうや、お父さんと来たの?」。朝昭は笑顔のその青年──池田大作をまじまじと見つめた。「しっかり勉強して、将来、立派な人になるんだよ」。豊が「はい」と返事すると池田は朝昭の目を見つめ返し、足早に体育館の中へ消えた。「席に戻ってきた夫は呆気にとられた様子で『たーやが』(誰だろう)と首を傾げていました」(千代)。


 支部結成大会が始まった。壇上に立った池田はこう切り出した。──沖縄の国土は今、アメリカの土地になっているようでもあるし、日本であるような気がするし、法律の上ではよくわかりませんが、いずれにしても、住んでいる方々は同じ日本人です──。場内も校庭も、大きな拍手が起こった。「創価学会が大きくなれば他はどうでもいいとか・・・・・そんな小さい考えはございません。日本の民族を、祖先のためにも子どものためにも、繁栄させ、幸福にしていきたい。これが創価学会の使命なのであります」。

 池田は、初代会長の牧口常三郎と二代会長の戸田城聖が軍国主義に抵抗し、牧口は獄死し、戸田は二年投獄されたことにも触れた。朝昭は戸惑った。それまで思い込んでいた宗教とまるで違う。

 「私どもは沖縄といっても、なんら遠くには考えられません」──さらに池田は、宗教について考える基準である「文証・理証・現証」について時間をかけて語った。「会合の生きと帰りで夫の様子は変わっていました」(千代)。ひと月後、朝昭と千代は創価学会に入る。

会長就任からわずか2カ月の1960年7月、沖縄を初訪問した池田は、


支部結成式の翌日、沖縄戦の爪痕が残る南部戦跡へ。


人々が身を潜め命を落とした洞窟に赴いて、片手でクモの巣を払い、題目を唱


えながら歩く───


その姿を間近に見た沖縄の学会員は、


「この人は他のヤマトンチュ(本土の人)とは違う」と直感する。


反戦出版、「沖縄戦の絵」展など、


創価学会が取り組んできた平和運動には、


”沖縄の安穏なくして世界の平和はない”との池田の思いと


心を重ねた人々の生きた証しが刻まれている。


日本に二度と戦争を起こさせない


 桑江朝昭は朝から機嫌が悪かった。「創価学会?なぜヤマトガミ(本土の宗教)の集まりに行かねばならん」。そう思いながら、妻の千代と長男の豊を連れて那覇行きのバスに乗った。

 三男の久が生後19日で、長女のちえみが生後五カ月で亡くなり、妻の千代は家に閉じこもるようになった。朝昭は町議会議員も務めた与那原の名士だが、仕事も行き詰まり、酒に溺れた。

「私たち夫婦を見かねて、夫の後輩の新垣政栄さんが折伏に来てくれました」(千代)。朝昭は何度も追い返したが、話を聞いた千代は試してみたいと思った。そしてこの日、夫に「池田会長と言う人が来るらしい、ぜひ一緒に来てほしい」と頼み込んだ。

 次男の昭がはしかに罹っており、超昭はその看病を口実に断ろうとした。だが、ひょっこり訪ねてきた朝昭の姉が「昭は私が看てあげるから一緒に行ってあげなさい」と言い出し、断れなくなってしまったのだ。同じころ、池田大作は那覇市内の体育館に向かう準備をしていた。1960年(昭和35年)7月17日───創価学会沖縄支部の結成大会である。


 第三代会長就任からから二カ月。当時の沖縄はアメリカの占領下にあった。初の「海外」指導である。池田は同行した幹部たちに「三日間で三年分の仕事をするよ」と語っている。

  「青年よ忘れるな権力の残酷さを」 ②


 「ありったけの地獄を一つに集めた」と言われる沖縄戦。アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し、地上戦に突入したのは1945年(昭和20年)3月26日である。渡嘉敷村で、座間味村で、日本軍の脅しや命令により、住民たち次々と「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた。

 50年後の同じ日──池田は沖縄にいた。記念総会のスピーチで<青年よ忘れるな、権力の残酷さを>と訴えている。

 <ただ一点、将来のために一緒に確認しておきたいことがある。それは、沖縄戦ほど「日本の権力の魔性」を雄弁に証明したものはない、という事実である。

 なぜ、あれほどの犠牲者が出たのか。それは、「日本の本土を防衛するため、なるべく長く、米軍を沖縄に釘付けにしようとした」戦略からであった。初めから、そういう作戦であった沖縄の国土は本土のために”捨て石”にされ、”盾”にされ、”手段”にされたのである。・・・・・・「日本の軍隊は『国民を守る』軍隊ではなく、『権力を守る』ための軍隊であった」──これが根本の事実である。私は、「二度とだまされてはならない」「断じて許してはならない」と叫びきっておきたい。戦後も、「日本を守るため」の名分のもと、日本にある米軍専用施設・区域の75㌫が、日本の国土の0.6㌫しかない沖縄に集中している>(『池田大作全集』第八五巻)

 続けて池田は小説『人間革命』を沖縄で書き始めた理由を語った。

 <討幕を可能にした薩摩藩の経済力も、琉球を支配して得た利益の賜であったことは歴史上の事実である。こうした事例からも”沖縄があったからこそ、明治維新もあり、日本の近代化もあった”と言われている。

 ところが、日本は恩を知るどころか、一貫して沖縄を利用し、踏みつけてきた。この歴史を断じて繰り返させてはならない。

 「権力の魔性」は、残酷である。そのことをいちばん、心の奥底で、肌身で知っておられるのが、沖縄の皆さまである。私が小説『人間革命』をこの地で書き始めた理由も、沖縄がいちばん「権力の魔性」によって苦しめられた国土だからである。小説『人間革命』は、「民衆による『権力の魔性との闘争』」を描く小説だからである>(同)


 「権力の魔性」をどう見抜くか。牧口常三郎、戸田城聖、池田大作と続く師弟の志を、沖縄の地でどう受け継ぐか。反戦出版に続いて沖縄の青年部が取り組み、内外に大きな反響を呼んだ平和運動があった。

 その企画には、ひめゆり学徒隊の引率教師として多くの教え子を奪われ、「ひめゆり平和祈念資料館」の礎をつくった言語学者の仲宗根政善や、沖縄を代表する平和学者である太田昌秀らが全面的に協力した。「沖縄の絵」展である。

 「青年よ忘れるな 権力の残酷さを」 ①


 <元来、戦争でもっとも犠牲を強いられるのは、つねに民衆である。決して国家の中枢にある権力者ではない。権力者は時代をたくみに泳ぎ、必ず保身を図っていく。その構図を、ひときわ鮮烈に感じさせるのが、かの沖縄戦である>(『池田大作全集』第七〇巻)。

<先の大戦でアメリカ軍は沖縄を侵攻した。あまりにも残酷な、あまりにも痛ましい犠牲であった。日本を守ったのは、沖縄の皆さまであられる。そのことを私は、声を大にして叫び、後世に残しておきたい>(同、第八四巻)。

 自分の生まれ育った地で引き起こされた地上戦の一端を、多くの学会員の手助けを得ながら、名護の中高生たちは自らの手で浮き彫りにしていった。池田の提案が一冊の本として完成したのは1976年(昭和51年)6月23日である。

 <ユニークな沖縄戦記録集がでた>──当時の「琉球新報」には継ぎのような書評が載った。

 <(本書のすぐれた点は)①従来、空白にひとしかった国頭地方に取材地域をしぼっていること、②時期を十・十空襲から戦後の二十年末までひろげたこと、③庶民生活レベルでの戦争体験に焦点をあてていること、などで、従来の記録の空白を埋めるばかりでなく、一歩深く戦争の実相に踏みこむことに成功している。意欲的な企画・編集部のゆきとどいた配慮によるものであろう>

 <”戦争を知らない子どもたち”に県民体験をどう語り継いでいくか緊要な課題となっている。本書にはその新しい可能性の芽ばえがある>(1976年7月11日付)

 高校生が編纂した創価学会の反戦出版には、他にも『平和への誓い 高校生が記録する岡山空襲』『広島の願い 高校生と被爆三十一年』『私が聞いたヒロシマ 高校生が訴える平和への叫び』『ナガサキを語り継ぐ高校生による平和の叫び』『平和への礎 関西高校生120人の聞き書き』などがある。

  「知らない」ことは「存在しない」こと ②


 1969年(昭和44年)2月──名護の浜で3000人の思いがけない歓迎を受けた後、池田は隣のコザ市(現・沖縄市)にも向かった。予定になかったにもかかわらず、池田が視察したコザ会館(現・中頭文化会館)の建設予定地には500人が集まり、即席の指導会になった。その中に花城康明とシゲの夫婦がいた。57年(同32年)から信心を始めたコザの草分けの一人である。

「かつて沖縄には闘牛が盛んでした。負け知らずの『ゆかり号』という牛がいて、学会員になった後、父についたあだ名が『ゆかり号』でした」と娘の伊志嶺美恵子が語る。

 沖縄戦の時、康明は16歳の少年兵だった。戦後、得意な英語を生かして通訳や学校の教師をしたが、酒癖が悪かった。

「見かねた父の学校の同僚が折伏してくれました。母は最初、信心に反対していましたが、父の酒飲みがみるみる直り、母も始めました」(美恵子)。

 康明は「山ほどあった借金も、全額返済することができました」「もし、先生にお会いしていなかったら、いま思うだけでも身の毛のよだつ」と手記に綴っている。

 池田が沖縄を初訪問した2年後、(1962年)、康明は公明政治連盟の初の候補としてコザ市議選に出馬し、トップ当選を果たす。議員時代に反戦出版の呼びかけがあった。康明は「黒こげになった学友」と題し、」妻のシゲは「雨のように降る銃弾の中を」と題し、それぞれ証言を寄せた。康明は議員を終えた後も聖教新聞沖縄版の「孫に語り継ぐ沖縄戦」に登場し、少年兵時代の体験を語っている。

 ──摩文仁に追い詰められ、食料も底をつき、上等兵から「貯蔵所から米を取ってこい」と命令された。深夜、十数人で貯蔵所に向かった。戻る時、アメリカ軍に見つかり、一斉射撃の標的になった。気がつくと康明は死体の山の中にいた。親友の腹が裂けていた。

 <夢中で内臓を腹の中へ押し戻し、足に巻いていた脚絆をはずし腹に巻き応急処置をしました。重たい米を捨て、負傷した友人を抱えながら必死に歩きました・・・・・その後、どうにか摩文仁に戻り上等兵に報告すると、「肝心の食料を捨て、食料を食いつぶす負傷兵を連れてくるとは何ごとだ」と、スコップで何度も体中を殴られました。この時の怒りは、今でも忘れられません。それから、間もなくして友人は苦しみながら息を引き取りました>(2009年6月19日付)

 「『じいちゃんの話を聞いて戦争をしてはいけないことがわかった。ぼくは人の命を救う仕事に就きたい』と言っていた息子は、いま東京で介護福祉士をしています」(美恵子)