民衆こそ王者ー池田大作とその時代 幸福の綴──「いくさや ならんどー」(2)1 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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会長就任からわずか2カ月の1960年7月、沖縄を初訪問した池田は、


支部結成式の翌日、沖縄戦の爪痕が残る南部戦跡へ。


人々が身を潜め命を落とした洞窟に赴いて、片手でクモの巣を払い、題目を唱


えながら歩く───


その姿を間近に見た沖縄の学会員は、


「この人は他のヤマトンチュ(本土の人)とは違う」と直感する。


反戦出版、「沖縄戦の絵」展など、


創価学会が取り組んできた平和運動には、


”沖縄の安穏なくして世界の平和はない”との池田の思いと


心を重ねた人々の生きた証しが刻まれている。


日本に二度と戦争を起こさせない


 桑江朝昭は朝から機嫌が悪かった。「創価学会?なぜヤマトガミ(本土の宗教)の集まりに行かねばならん」。そう思いながら、妻の千代と長男の豊を連れて那覇行きのバスに乗った。

 三男の久が生後19日で、長女のちえみが生後五カ月で亡くなり、妻の千代は家に閉じこもるようになった。朝昭は町議会議員も務めた与那原の名士だが、仕事も行き詰まり、酒に溺れた。

「私たち夫婦を見かねて、夫の後輩の新垣政栄さんが折伏に来てくれました」(千代)。朝昭は何度も追い返したが、話を聞いた千代は試してみたいと思った。そしてこの日、夫に「池田会長と言う人が来るらしい、ぜひ一緒に来てほしい」と頼み込んだ。

 次男の昭がはしかに罹っており、超昭はその看病を口実に断ろうとした。だが、ひょっこり訪ねてきた朝昭の姉が「昭は私が看てあげるから一緒に行ってあげなさい」と言い出し、断れなくなってしまったのだ。同じころ、池田大作は那覇市内の体育館に向かう準備をしていた。1960年(昭和35年)7月17日───創価学会沖縄支部の結成大会である。


 第三代会長就任からから二カ月。当時の沖縄はアメリカの占領下にあった。初の「海外」指導である。池田は同行した幹部たちに「三日間で三年分の仕事をするよ」と語っている。