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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「絵」が語る沖縄戦 ①


 沖縄県とNHK沖縄放送局は2005年(平成17年)、沖縄戦の体験者の絵を募集し、約280人、500点を超える絵が集まった。

 沖縄創価学会が「沖縄の絵」展に総力をあげて取り組んだのは、その24年前のことである。『沖縄戦記録画集 打ち砕かれしうるま島』を発刊した時点で、署名も含め約400人の戦争体験者から』660枚の絵が寄せられた。絵の数はその後も増え続け、800枚を超えた。

 沖縄青年部長として同展に取り組んだ池間俊彦。「最初はまったく集まらなかった」と振り返る。「戦争を思い出すだけでも大変な苦痛です。ましてや絵に描いていただくのですから断られるのが当然でした。まず壮年で一人、婦人部で一人、描いてくださった。その絵を持って沖縄全土の会合を回りました」。

 今年の三月、沖縄創価学会青年部は三万人規模の平和意識調査を行った。沖縄国際大学名誉教授の石原昌家が監修を務めた。「創価学会の平和運動を知ったきっかけは、浦添市で行われた『沖縄戦の絵』の巡回展でした。末吉稲雄くんという二部学生が誘ってくれました。今でも感謝しています」と語る。

 

 石原はこれまで社会学者として『沖縄縣史』『那覇市史』『浦添市史』をはじめ、数多くの沖縄戦の聞き書きに携わってきた。また「平和の礎」の刻銘検討委員会座長や、沖縄県平和祈念資料館の監修委員も務めた。

 「浦添で『沖縄戦の絵』展を初めて見た時、ある絵の説明文に”祖父の話を孫が聞いて描いた”とあり、心打たれたことを覚えています。戦争体験を継承する生きたお手本です。これほどの運動を広げられるグループは、創価学会青年部しかないのではないでしょうか」

 石原は戦争体験の継承にはタイミングがあると語る。「『那覇市史』の戦時・戦後体験記は、沖縄戦の三十三忌を機に三年がかりで取り組んだ平和祈念特別事業でした。あの後、沖縄戦の体験を語る人が増えました。人は感情が風化しなければ、悲惨な体験を話せません。沖縄戦の場合は三十三回忌と『平和の礎』の歓声が大きな節目だったと思います」。

 「これからはさまざまな知恵を出す必要を感じています。『沖縄戦の絵』は創価学会のみならず沖縄全体の財産です。今後、『紙芝居』化に取り組んで、いつでも誰でも語り伝えていけるよう工夫されるとうかがっています。心から期待しています」

 沖縄創価学会が手がけた「沖縄戦の絵」展は、これまで県内の40を超える市町村で巡回されている。学校の教材として活用され、日本各地の都市でも展示されてきた。寄せられた絵の一枚一枚に、70年が過ぎても消えない苦しみと、それぞれの人生を支えてきた祈りが込められている。

  民間交流が一番大事 ②


 日本の敗戦後、沖縄はアメリカの軍政下にあり、日本国憲法が適用されなかった。「ひめゆり学徒隊の引率教師だった仲宗根政善先生から、密貿易の船で那覇に運び込まれた日本国憲法のコピーを見せていただいた時の感動は忘れられません」と大田は語る。「戦争の放棄、基本的人権、国民主権、・・・・・それまで聞いたこともない言葉を、沖縄戦を生き残った学友たちと奪い合うように書き写しました」。

 沖縄創価学会が取り組んできた反戦出版や「沖縄戦の絵」「沖縄戦と住民」「女たちの太平洋戦争」などの展示運動に全面的に協力してきた。最も印象に残っている行事は1983年(昭和58年)、沖縄市陸上競技場で行われた「雨の文化祭」だという。「文化祭が終わった後、池田先生は『平和だからこそ、こうした文化祭もできます』と言われました。まったくその通りです」。


 他分野にわたって活躍し続けてきた大田だが「鉄血勤皇隊の生き残りとして、常に『今、生きている意味』を考えざるを得なかった」と語る。「その意味でも池田先生の行動はたえずフォローしてきました。私は周恩来を中国の抜きん出たリーダーとして尊敬しています。池田先生は昭和49年、その周恩来と話し合うことによって中国と非常に深い友好関係を結ばれた。あの素晴らしい民間外交は、若いころの僕に相当大きな影響を与えました」。

 また、池田が訴え続ける「師弟」に学会の強さを見出す。「恩師である戸田城聖のことを非常に大事にしていますね。聖教新聞でも戸田先生のことを常に書き続けておられる。とても大切なことです。今の日本社会には、そうした『人間的な生き方の問題』を大事にしない空気があると感じます」「池田先生が創立された創価大学を卒業した沖縄在住者は600人を超えました。彼らが連帯して活躍すれば、沖縄は必ず明るく、いい方向に変わります」。


 今も朝5時に出勤し、机に向かう大田。「やるべき仕事がたくさんあり、まったく時間が足りない」と笑う。「沖縄と縁の深い福州(福建省)でも、北京大学でも、上海でも、どの都市を訪れても、日中友好に努力された池田先生はありがたい存在だと感じてきました。今、沖縄の我々が必要としているのは『日本と中国の関係をこれ以上悪くしない』ことです。国と国が喧嘩していても、そんな時こそ民間の絆を断ち切ってはいけない。創価学会の皆さんは池田先生が築かれた日中友好の関係をたえず維持してほしい」。そして「民間交流が、一番大事なんです」と念を押した。

   民間交流が一番大事 ①


 「池田先生が小説『人間革命』を書き始められたのは昭和39年、四度目の沖縄訪問の時でした。昨年は執筆開始から50周年でしたね」

 那覇市内の沖縄国際平和研究所。理事長の太田昌秀は89歳とは思えない壮健さで語り始めた。

 「初めて沖縄を訪問された昭和35年、健児の塔やひめゆりの塔をご覧になったとうががっています。その時の思いが『戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである』という一節に結晶したのだと思います。池田先生の著作のなかで私が最も感銘を受けた文章です」

 太田は沖縄を代表する平和学者である。県知事時代、恩納村の沖縄研修道場で池田と会談した(1991年2月8日)。「あの美しい道場は何度も見学しました。池田先生はアメリカ軍の核兵器の基地を壊さず、そのまま平和を学ぶための道場に作りかえられた。画期的です」。

 核ミサイル「メースB]の発射基地は、沖縄に4つあった。<読谷村に加え、恩納村、現在のうるま市、金武町の県内計4カ所に基地が造られ、各8基のメースBが配備。計32の発射台は東シナ海の向こうの中国とソ連をにらんだ>(2015年3月4日付「沖縄タイムス」)。3つは壊され、一つが創価学会の研修道場に生まれ変わった。

 総沖縄長の桃原正義。「8つあった発射台の一つを、当時、道場に来られた方に使っていただける喫茶室にしていました」と述懐する。池田はその喫茶室で太田と語り合った。

 同席した山崎尚見は語る。「池田先生は太田さんに『このような狭い場所ですみません。しかし、長年、平和について研究してこられた方だからこそ、ここでお迎えしたかったのです』と言われました」。

  南部戦跡での出会い


 宮古島出身の伊沢ナツ。沖縄支部が結成されたその日に信心を始めた。

「あの日、宮古からは15人が参加しました」すでに入会していた夫とともに支部結成大会に参加し、校庭で池田の話を聞き、そのまま入会した。

 池田との忘れがたい出会いは南部戦跡でのことだった。南部戦跡に集まった多くの学会員のなかには、沖縄戦で片腕を奪われ、もう片方の手でわが子の手を引いて駆けつけた婦人部員もいた。

 ナツは「沖縄師健児之塔」で池田と間近に接する。「健児の塔には、私の小学校時代の幼なじみ名前も刻まれています。池田先生は健児の塔の壕に入られました。右手に数珠を持ち、左手でクモの巣を払い、題目を唱えながら歩く・・・・それが、私が初めて見た先生の姿です。壕から出てきた先生の左手にはクモの巣がからまっていました。89歳になった今も目に焼きついています」。この人は他のヤマトンチュウ(本土の人)と違う。私たちのことをわかってくれる。ナツはそう感じた。

 池田はのちに語っている。<沖縄の地には、ある意味で、どの地よりも、苦しみぬいて亡くなった方々が多いといえる。生命は永遠である。その方々の死後の生命を断じて救ってあげなければならない><慈悲の回向は、題目による以外に絶対にない。私も祈る。皆さま方も祈ってあげていただきたい。沖縄の地に眠るそうしたすべての方々を「抜苦与楽」していくことによって、この国土の福運をも増していく>(『池田大作全集』第七〇巻)。

 「回向」とは、自らの行動による功徳を回(めぐらし)向けて、死者を成仏に導くことをいう。「抜苦与楽」は「苦しみを抜き、楽しみを与える」仏や菩薩の働きである。

 「沖縄戦の絵」展でナツは、那覇から台湾に向かう船を描いた。台湾に疎開した人々は、日本が負けた後、「琉球難民」と呼ばれるほど困窮を極めた。

「食べるものがなくて、バナナの皮まで煮て食べました。まともな医療設備がなく、何人も病死しました。疎開のことを思い出すと、今でも胸がつまってしまって・・・・・」。八十九歳のナツはそう言って、しばらく目をつむった。

 宮古島の草創の一人として、157世帯の弘教を重ねてきた。「私の折伏の原動力は、池田先生の励ましと、苦しい疎開の体験でした。なんとしても相手を救わねばならない場合がある。その時を逃さず、祈り、対話してきたつもりです」。


 おきな

沖縄女子部の草分けである久保田淑子も、南部戦跡に同行した一人である。1965年(昭和40年)1月、聖教新聞に小説『人間革命』の連載が始まった。第一回を読んだ久保田は思わず「あっ」と叫んだ。  「そこには、沖縄戦で私が痛感したことがそのまま書かれていたのです。『人間革命』が沖縄で書き始められたことはまだ知りませんでした。しかし、先生はひめゆりの塔や健児の塔で題目三唱された時、きっとこの冒頭に書かれたとおりのことを祈られていたのだと確信しました」

   生き延びた者の使命 ②


 桑江朝昭は戦争中、沖縄県立第二中学校(現在の那覇高校)に通っていた。鉄血勤皇隊に志願し、地獄を見た。<与那原から(司令部のある)首里に向かう道には、一㌔にわたって兵士が折り重なって死んでいました。私たちはその屍を越えて戦いに行ったのです>(朝昭の手記)。”同期の桜”は143人。生き延びたのはわずか16人だった。朝昭に弘教し、ともに島尻(沖縄本島の南部)の草創期を担った新垣政栄も一中(現在の首里高校)の鉄血勤皇隊だった。戦争で母、姉、妹を失っている。

 沖縄にあった12の男子校、10の女子校から、合わせて2400人を超える生徒が動員され、過半数の約1300人が戦死した。当時の日本が十代の子どもまで動員できる「義勇兵役法」を公布したのは、1945年(昭和20年)の6月23日──沖縄戦が終わったとされる日──だった。つまり日本軍は法的な根拠もないまま、沖縄の子どもたちに武器を持たせ、戦場に送り出していたのである。

 朝昭の右腕と背には大きな傷が三つ残った。親友を奪われ、青春を奪われ、学問を奪われた。「夫が創価学会を『ヤマトの宗教だから』と嫌ったのは、無理もなかったと思います」。そう語る千代もまた、沖縄戦で母と弟を奪われている。

 敗戦後、朝昭は米軍基地の通訳官として、千代は米軍将校宅のハウスメイドとして働いた。創価学会に入ってからは、新しく二人の子に恵まれ、自宅を島尻の中心拠点にして賑やかな日々が始まった。

 千代はある日、朝昭が御書(=日蓮の遺文集)を手に泣いているところを目にする。<若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり>。法論に挑む弥三郎という門下に日蓮が送った手紙である。───ああ、あの戦争で生き残ったのは使命があったからだ。私たちには、日本に二度と戦争を起こさせない使命がある───夫婦で確かめ合った。

 二人は長年、子どもたちに戦争体験を話すことはなかった。きっかけは青年部が取り組んだ「沖縄戦の絵」展だった。朝昭が描いた三枚の絵が『沖縄戦記録画集打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)に収録されている。「爆風で木の枝にぶらさがた女性、死んだお母さんの横でお乳を探す赤ちゃん・・・・・とても悲惨な絵でした。あの絵をきっかけに、私たちは初めて父や母に戦争体験をくわしく聞きました」(娘の美奈子)。

 千代は「4人の子は全員、池田先生が『平和を守るフォートレス(要塞)』といわれた創価大学を卒業しました。夫と私の誇りです。ちばたんどー(がんばったよ)と笑顔で語る。

 夫の朝昭は生前、池田への思いを手記に綴っている。「戦後、どこのだれが、これほどまでに”沖縄の心”を歓喜に満たしてくれたであろう。私は、この一点だけは鋭く歴史に刻印していかねばと思っている」。

 反戦出版。「沖縄の絵」展。数々の平和運動を通して浮き彫りになった池田と弟子たちの物語をひもとく。