EIKOの気まぐれ闘病日記 -10ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

皆さんご心配おかけしてすみませんでしたm(__)m
温かいコメントも沢山頂きありがとうございますm(__)m
指を切ったとき、たまたま買っておいた水に強い厚いカットバンをしていたのですが、それが幸いして止血が早かったとのことで守られたと実感しました。
 抗生物質は飲んだ方がいいそうで、抗生物質と痛み止め、傷薬をもらって帰ってきました。
皆さん本当にありがとうございました。
久々にやっちゃいました

左手の中指を思い切り深く切ってしまいました。
 昨日は横浜に大雨警報が出ていて外にも

出られず......。

出血もひどくて何とか料理は作ったものの

痛みで片付けが困りました。

今回は深く切ってしまって心配なので、病

院にかかかろうと思います。

  座談会に差別はない ①


 妻のアキも戦前は尋常小学校の教師だった。戦後は幼稚園で教えたこともある。米軍のために働く「軍作業」のほうが給料ははるかに高かった。しかし二人は早朝から畑仕事に汗を流し、学校教育に携わり続けた。対馬丸で奇跡的に命の助かった吉弘もその後、両親と同じく教育者となり、中学校長として定年まで教育に尽力する。

 1961年(昭和36年)のある日、アキの女学校時代の同級生が、創価学会の話をしにやってきた。アキは徳仁に、同級生が置いていった池田の本や聖教新聞を見せた。「父はすぐ『この信心をしよう』と決めました。かえって母のほうが戸惑いました」と息子の祐典は語る。

「殉教された牧口先生が小学校教師だったことも、父の心を動かしたようです」。

 敬子はアキの生きる姿勢が変わっていったことを覚えている。

「戦前、母は『尽くして及ばざるは天明なり』という一言を人生訓にしていたそうです。『でも池田先生は違った。先生はこの題目に不可能はないことを教えてくれた』と語っていました。本土で行われた夏季講習会から帰ってくるなり『池田先生と握手できましたよ』と満面の笑みで話してくれたこともありました」。徳仁とアキは、のちに東京の創価大学や地元の名護で池田との出会いを重ねていく。

 息子の祐典は20代のころ、両親の信仰に反発していたが、30代の時、東京で創価学会に入る。

「私の下宿に泊まった父が『きっと読む時がきます』と言って牧口先生の『創価教育学体系』を置いていったこともありました」祐典は東洋大学文学部の教授として定年を迎えた後、名桜大学の理事長などを歴任し、沖縄北部の振興に力を注いでいる。

   「絵」が語る沖縄戦 ②


 「この絵を描いた後、母は『何日も眠れなかったよ』と言っていました」。名護に住む比嘉敬子は、母アキの描いた海の絵を前に語った。

 かつて「対馬丸」という大きな船があった。サイパン陥落からひと月後の1944年(昭和19年)8月、学童疎開の児童を含む約1800人を乗せて、那覇港から長崎へ向かった。しかし鹿児島県の悪石島近くで撃沈され、1500人近くが命を奪われた。犠牲者のじつに半数以上──780人が小学生だった。(2014年8月現在。対馬丸記念館の資料から)。対馬丸を沈めたアメリカ軍の潜水艦ボーフィン号は「真珠湾の復讐者」と呼ばれている。


 対馬丸に乗った時、比嘉アキは31歳だった。6歳の貞子と1歳の吉弘を連れて、宮崎に疎開するつもりだった。人々と肩を寄せ合い、甲板にゴザを敷いて眠った。

 8月22日午後10時過ぎ、魚雷が直撃。対馬丸は10分足らずで轟音を立てて沈んだ。

 阿鼻叫喚の真夜中の海で、アキは寝返った竹の筏を見つけた。ささくれ立った筏にしがみつき、傷だらけになりながら二人の子を乗せた。

「5日間、一睡もせずに漂流したそうです」(敬子)。後年、アキは学会の女性平和委員会の取材に応じ、「食べない、飲まない、眠らないという状態でした」「みんな眠気に負けて流されてしまった」と語っている。「沖縄戦の絵」展では、「屋根のように高い波」に揉まれる母と子の絵を描いた。

 海に漂って5日目、ついに奄美大島の島影が見えた。6歳の貞子は「お家に帰ろう」とつぶやいた。アキはなんとか岸に這い上がったが、一歩の動けない。通りがかりの島民に救われ、子どもたちに水を飲ませようとした。吉弘は飲んだ。貞子はいくら体を揺すっても飲まなかった。すでに息絶えていた。集まった島民たちは呆然とするアキをいたわり、遺体を火葬してくれた。

 対馬丸の遭難について、アキは警察から「絶対にしゃべるな」と命じられた。9月30日、故郷の屋我地に戻ったが、その10日後、「十・十空襲」に遭う。自宅が爆撃されたものの、かろうじて助かった。

 アキの夫、徳仁は国民学校の教師だった。敗戦直後、久志村(現・名護市)の捕虜収容所で「青空教室」を開いた。解放後はドラム缶のフタを黒板がわりに、木炭を鉛筆がわりに学校を再建した。その苦闘を反戦出版に記している。


 <ひとつだけは、はっきりしていた。それは、もう二度とあのような戦争へ駆りたてる教育をしてはならない!」ということだった。国家の意思を徹底するために行われた教育。「もう御免だ!」との思いだった。しかし、かつて行なった教育にたいする責任は決して免れるはずはない。償っても償いきれることではない>

(『沖縄──6・23平和への出発』)。

徳仁は<皇民化教育の片棒を担がされてきた悔恨>を背負い、悩みながら、小学校長として働き始める。