民衆こそ王者ー池田大作とその時代 幸福の綴──「いくさやならんどー」(2)9 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  座談会に差別はない ①


 妻のアキも戦前は尋常小学校の教師だった。戦後は幼稚園で教えたこともある。米軍のために働く「軍作業」のほうが給料ははるかに高かった。しかし二人は早朝から畑仕事に汗を流し、学校教育に携わり続けた。対馬丸で奇跡的に命の助かった吉弘もその後、両親と同じく教育者となり、中学校長として定年まで教育に尽力する。

 1961年(昭和36年)のある日、アキの女学校時代の同級生が、創価学会の話をしにやってきた。アキは徳仁に、同級生が置いていった池田の本や聖教新聞を見せた。「父はすぐ『この信心をしよう』と決めました。かえって母のほうが戸惑いました」と息子の祐典は語る。

「殉教された牧口先生が小学校教師だったことも、父の心を動かしたようです」。

 敬子はアキの生きる姿勢が変わっていったことを覚えている。

「戦前、母は『尽くして及ばざるは天明なり』という一言を人生訓にしていたそうです。『でも池田先生は違った。先生はこの題目に不可能はないことを教えてくれた』と語っていました。本土で行われた夏季講習会から帰ってくるなり『池田先生と握手できましたよ』と満面の笑みで話してくれたこともありました」。徳仁とアキは、のちに東京の創価大学や地元の名護で池田との出会いを重ねていく。

 息子の祐典は20代のころ、両親の信仰に反発していたが、30代の時、東京で創価学会に入る。

「私の下宿に泊まった父が『きっと読む時がきます』と言って牧口先生の『創価教育学体系』を置いていったこともありました」祐典は東洋大学文学部の教授として定年を迎えた後、名桜大学の理事長などを歴任し、沖縄北部の振興に力を注いでいる。