母の三つの遺言 ①
戦争が終わり、シゲは傷痍軍人の秀雄と結婚する。
「夫は酒を飲むと人が変わったように暴れました」。1964年(昭和39年)、創価学会とめぐりあう。
「信心を始めて5年後、宜野湾で6000人の記念撮影会がありました。池田先生から『どんなにつらくとも私についていらっしゃい』『社会の役に立つ人になりなさい』と言われたことが私の原点です」。
いつのまにか夫の酒乱がおとなしくなった。周りから「貧乏な学会員」と蔑まれてきたが、信心を始めて10年が過ぎ、子宮がんを克服したころ、南風原町から母子保健推進員を頼まれるようになり、身体障碍者相談員、赤十字奉仕団をはじめ、地域に信頼の根を張った。
「沖縄戦の絵」展のころ、ある平和団体に請われ、摩文仁での体験を話した。予想を超える反響だった。中学生の男の子から「ボクはもう決して戦争がカッコいいとは思わない」と手紙が届いた。沖縄戦は沖縄の誰もが知っていることだと思っていたが、戦争をまったく知らない世代が生まれている。「伝えなければならない」と思った。
それから四半世紀、語り続けてきた。
「安心して眠れる。安心してご飯がたべられる。今が一番幸せです。私は小学校しか出ていませんが、学会活動の中で池田先生の生命哲学を学ぶことができました。なぜ沖縄で戦争が起きたのか、これからも力の限り問い続けていきます」。
皆さん、いつもブログを読んでくださりありがとうご
ざいます<(_ _)>
暑かったり肌寒かったりと気候が安定しませんが
お元気でお過ごしでしょうか。
私は最近めまいがしてしばらく横になっておりました。
しばらくブログを更新できなくてすみませんでした。
最近ではおとといは北斗晶さんの乳がん、昨日は
川島なお美さんの訃報と驚くことばかりでした。
皆さん共々健康に気を付けていきたいと思いました。
どうぞ風邪など引かれませんように。
座談会に差別はない ②
「私はいまがいちばん美人なんですよ」。85歳の仲程シゲはそう言って破顔一笑した。眉間には、70年前の爆撃で刻まれた傷跡がかすかに残っている。シゲは沖縄戦の語り部として知られ、海外のメディアも取材に訪れる。その体験は反戦出版にも収められた(『沖縄戦・母の祈り─娘が綴る母親の記録』)。「私は絵が苦手なので、『沖縄戦の絵』展の時は漫画家の新里堅進さんにお願いして、一緒に摩文仁の丘まで行き、当時の様子を描いてもらいました」。
1945年(昭和20年)6月下旬。15歳のシゲは母に連れられ、裸足で摩文仁の丘をさまよっていた。
───前年から10万の日本軍が沖縄入りし、シゲは軍の陣地壕を掘らされた。「大里村(現・南城市)の自宅は銃砲隊の宿泊所として提供しました。やさしい日本兵もたくさんおられました」。シゲの家族は「皇軍は必ず勝つ」という言葉を信じ、軍とともに南へ南へと避難していく。
「いま平和祈念資料館の立っている辺りは死体の山でした」。男女が区別できないほど焦げた人がいた。おなかが水牛のように膨れた人もいた。大きな石の上で両手を合わせ「兵隊さん、一発で殺してください」と泣き叫んでいる人もいた。<(死体の)腐敗の臭いは大変だった。ヨモギの葉っぱを鼻の中に入れても収まらない。あの姿はどんなに私が話しても理解できないと思う。本当に地獄絵だった>(『未来に伝える沖縄戦③』琉球新聞社)。
その時、沖縄出身の20代の男性が「犬死にするより投降しよう」と呼びかけた。
「岩陰から二人の日本兵が飛び出してきて、『こんな馬鹿がいるから戦争に負けるんだ』『こいつはスパイだ』と怒鳴り、日本刀で若者の首を切り落としたんです。目の前で血が噴き出して・・・・・恐ろしくて言葉が出ませんでした」。
荷物も捨てて崖を下る途中、砲弾の破片で左膝を痛めた。海沿いのガマ(自然の洞窟)を転々とした。
「きれいな海に赤ちゃんの死体が浮かんでいました」。シゲは「どうせ死ぬ。私はここで一人死ぬ」と言い張った。「母に『ヤナワラバーヒャー(悪い子だね)、生きるも死ぬも親子4人は一緒だ』と一喝されました。母のおかげで、崖をよじ登って生き延びることができました」。
座談会に差別はない ②
娘の敬子は「信仰者として両親から教わったことは多いです」と語る。女子部の活動を始めたころ、両親に連れられて「愛楽園」の座談会に参加した。
「屋我地島にハンセン病療養所の愛楽園があります。家から自転車で20分ほどの場所です。両親は愛楽園での座談会を担当していました」。
敬子は母のアキから「丁寧に挨拶しなさい」「園内で出していただいたものは喜んでご馳走になりなさい」と教わった。
ハンセン病が完治した後も、生涯を終えてもなお、いわれなき差別を受け続けた人々である。入所者の中には、同じ学会員同士であっても相手に気兼ねして、握手を遠慮する人もいた。徳仁とアキは彼らの手を握り、一緒に題目を唱え、一緒にお茶を飲みながら、ふだんと変わらない会合を重ねた。入所者たちを自宅にも招いて座談会を開き、御書を学んだ。
「長い間、屋我地出身だというだけで、ハンセン病と結びつけて差別される風習がありました。両親は一切、差別することなく愛楽園の方々と接し、私たちに人としてのお手本を示してくれました」(比嘉裕典)
比嘉アキは今年2月、101年の生涯を閉じた。「母は池田先生の『百歳まで生きるんだよ』という言葉を励みにしていました。その約束を守ったのだと思います」(敬子)。