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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  戦争は戦後も続いた ②


 戦争は「最も弱く小さな人々」を直撃する。この構造は「戦後」も変わらなかった。渡久地ツル子が『いくさやならんどー』に寄せた手記は、その一つの象徴である。

「信心していなければ書こうという気にならなかったでしょう」と語る。

 1959年(昭和34年)6月30日。ツル子は石川私立宮森小学校の6年生だった。

「当時はミルク給食という時間があり、私は教室でお手玉をしていました」。この日、米軍の嘉手納基地を飛び立ったジェット機が火を噴き、操縦不能になった。パイロットが脱出した後、ジェット機は民家をなぎ倒し、ガソリンを撒き散らしながら宮森小学校に突っ込んだ。

「あたり一面、夕陽が沈む時のような真っ赤な色に包まれました」。教室の窓ガラスが割れ、爆風が吹き込み、ツル子は「戦争が始まった」と思った。ガラスの破片で埋まった二階の廊下を走り抜け、階段にたどり着いた。

「会談も燃えていて使えないので、踊り場の窓から飛び降りました。花壇の上に落ちたので大けがをせずにすみました」。

 

 花壇から起き上がったツル子は思わず立ちすくんだ。二年生のトタン葺きの教室が火柱を立てて燃えている。全身から煙を出した黒こげの子どもが水道の蛇口にしがみついている。小学校は戦場と化していた。

 家に帰る途中、姉のヤス子に抱きしめられ、初めて声をあげて泣いた。それまで頭にガラスが刺さり、こめかみに血が流れていることにも気づかなかった。<ジェット機は二階の六年生の教室と隣の教室の一角に激突、平和な私たちの学園は一瞬のうちに地獄と変じたのでした。級友三人が亡くなったと知らされた時のショックは、言葉ではいい表すことが出来ませんでした>(『いくさやならんどー』)。

 

 墜落の原因は整備不良だった。児童12人(一人は後遺症)を含む18人が死亡し、210人が負傷した。

 この事故の遺族会代表を務めた喜屋武長盛は小学二年の娘、玲子を奪われた。妻の春子と連名で、学会の反戦出版に寄稿している。

   戦争は戦後も続いた ①


 <こんなに苦しければ戦争で死んだ方がどんなにいいかと思ったこともありました>。今年90歳になる知念ツル子が反戦出版に続いた一文である(『沖縄───6.23平和への出発』)。

 沖縄戦の砲撃で夫の妹を失った。夫は徴兵から帰ってきた後、結核で命を落とした。

<戦争がなければ十分な栄養と治療を受けられたのにと思うと、私は今もって憤りをおさえることができません>(同)。ツル子のもとに6人の子どもが残された。

 「母は縫い子を雇って洋服を仕立て、那覇の新天地市場で売って私たちを育ててくれました」。長男の幸男が述懐する。幸男は17歳で知念高校を中退。家を出てアメリカ海軍のクラブでトランペットを吹き始める。

「母に経済的な負担をかけたくなかったので家を出ましたが、きょうだいの中で一番心配されました」。

 バンドメンバーに学会員がいた。

「田原さんという先輩に、創価学会には音楽隊というグループがあって自由にラッパが吹けるぞと誘われ、素直に入りました」と笑う。1963年(昭和38年)のことだった。幸男はプロのバンドマンとして活躍しながら、沖縄創価学会の文化運動を支えることになる。


 母のツル子は、心配の種だった長男が生き生きと変わる姿を見て創価学会の信仰を選ぶ。親族からは猛反対された。

「母はよく『創価学会に文句を言う人たちは、現実に私たちを救ってくれるのか』と言っていました」(幸男)。知念の自宅は今、個人会館として地域の人々に活用されている。ツル子もまた、反戦出版の多くの執筆者と同じく「池田先生という人生の師と出会えたことが、私の最高の幸せでした」と語る。


 創価学会の反戦出版に手記を寄せたこうした女性たちの勇気を、平和学者の大田昌秀は高く評価する。

「戦後、沖縄は男性の数が激減し、女性に負担がのしかかりました。しかし戦後の沖縄女性の生活記録は少ないのです。だからこそ創価学会婦人部の方々がまとめた『いくさやならんどー』には感動しました」。

 同書の編集が始まると、250人を超える人々が寄稿し、その中から34人の手記が収録された。戦争孤児になったため自分の本当の名前がわからない人もいた。家族を養うためにわが身を売らざるをえなかった人もいた。

 「アメリカ世の女たち」という章の冒頭には<彼女らの身の上を誰も責めることは許されない。真に責められねばならないのは戦争である>と記されている。

 編集に携わった照屋繁子は「大田昌秀さんは当時、琉球大学の法文学部長でした。私たちの原稿すべてに目を通し、匿名の手記も含め、一つずつ丁寧な解説を寄せていただきました」と述懐する。

 太田は「こんな本がつくれるのは学会婦人部しかない。執筆者の女性たちは『人生の師』と呼ぶにふさわしい存在です。『よくぞ生き延びてくれた』と申し上げたい」と語る。

  母の三つの遺言 ③


 池田が沖縄を初訪問した翌年、千世子は信心を始めた。

「沖縄本部で、先生と女子部の10人ほどで懇談する機会にも恵まれました」。やがて勝夫は周囲に推され、公明党の那覇市議として6期24年を務めあげる。

 千世子は4人の子を授かった。長い間、戦争体験を話したことはなかった。反戦出版が話すきっかけになった。

「婦人部の反戦出版をお手伝いすることになり、人に原稿を頼む前にまず自分が書こうと思いました」。

 子どもたちが寝静まった深夜、原稿用紙に向かった。しかし翌朝、長女の薫から「お母さん、きのうの夜、とても泣いていたね。なんで泣いていたの?」と心配された。「両親の最期を思い出すと、耐えきれなくて、泣きながら書いていました」。千世子は初めて、島尻をさまよった日々のことを子どもたちに話した。

 後年、琉球新聞ホールで行われた「婦人の主張中央大会」にも、那覇市婦人連合会の代表として登壇した。その最後にこう訴えている。

<たとえ一人の力は弱くとも、母として、女性として、いかなる戦争も反対する強い意志と信念を貫いていくことが平和への第一歩だと、私は思います>。

  母の三つの遺言 ②


 那覇に住む大城千世子も、島尻(沖縄本島の南部)に避難した時の体験を「沖縄戦の絵」に描き、反戦出版(『いくさやならんどー』)に寄稿した一人である。「姉は12歳、私は7歳、弟は3歳でした。父は清仁、母はゴゼイという名前でした」。千世子は目を赤く腫らして、その出来事を語った。

 米軍機の機銃音が聞こえた。と同時に「助けて!」という母の声が聞こえた。一瞬のことだった。母の両足が付け根からもぎ取られていた。

 「母は父たちに『父ちゃんがいるから、なんにも心配はないよ。三人で力を合わせて生きていきなさい。母ちゃんが、これから言うことを、よく聞きなさい』と言いました」

 泣き叫ぶ子どもたちに、母は「意地チリヨー(勇気を持て)、誠シヨー(誠実であれ)、人ヌ手ヤ借インナヨー(チュヌティヤカインナヨー(他人に依頼心を持つな)と言い残し、息を引き取った。

 「私たちは喜屋武部落から摩文仁までさまよい歩きました。爆撃は雨のように激しくなりました」父は艦砲射撃で脇腹をえぐり取られた。「先に行きなさい。後から行くから」。それが父の最後の言葉だった。


 敗戦後、千世子たちは宜野湾市の自宅に残された小さな畑を耕し、大豆や芋を育てた。

「学校に登校する前、家から12㌔先の首里の市場まで歩き、野菜を売りました」。千世子は専門学校を卒業し、アメリカ陸軍のクラークタイピスト(=事務もする英文タイピスト)として働き始める。

 のちに夫となる静夫に出会い、創価学会の話を聞いた。最初は「宗教は新年のない人がやるもの」と相手にしなかった。

「私は戦争孤児として、生きるためなら何でもやって生活してきました。宗教は自分に関係ないと思っていたのです。しかし夫に隠れて池田先生の本を読み、宿命転換という考えに心を打たれました」。