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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   髪結いを支えた鏡 ②


 古波蔵夫妻は沖縄随一の繁華街だった桜坂で弘教に歩いた。

「那覇劇場の楽屋裏で座談会をしたこともあります」。佐紀は小学校を卒業していない。創価学会に入ったころは字が読めなかった。

「うちなー芝居の台詞は口伝えで覚えますから困りません。草創期のことですが、教学の任用試験を受けた時は小学生だった娘のひろみに代筆してもらいました」と笑う。「八畳一間の自宅の座談会に、米軍の白人や黒人がたくさんやってきました。ちょうど沖縄の各地に舞踊研究所が発足し始め、父の仕事も忙しくなりました」(長女のひろみ)。


 真境名由康、玉城盛義、島袋光裕、金武良章、親泊興照、宮城能造・・・・・佐紀は琉球舞踊の名だたる先人たちの髪を結い、身分、職業、年齢によって異なる「からじ」に精通していった。役者の経験も生きた。現在、琉球舞踊の世界で常識になっている「かつら結」や「中組カタカシラ」と呼ばれる結髪法は、佐紀が考案したものである。いつの間にか佐紀の右の掌には、横一線に盛り上がった「櫛タコ」ができていた。



    髪結いを支えた鏡 ①


 沖縄戦が終わり、捕虜収容所で真っ先につくられたものは空き缶に糸を張った「カンカラ三線」だといわれる。

<沖縄舞踊も立ち直ることはもう永遠にあるまいと、すべての人が考えた>(矢野輝雄『沖縄舞踊の歴史』築地書館)。しかし<家を失い、親兄弟に別れて、為す術もなく毎日を送る人たちが、生きる喜びを託したのは歌三味線であり、踊りであった>(同)。

 古波蔵佐紀は宮古島で生まれた。

「敗戦の時、15歳でした。宮古にやってきた『うちなー(沖縄)芝居』の一座に入り、下働きを始めました。給料はゼロ。寝床があって食べさせてもらえるだけでありがたかった」。

 前妻とは、佐紀の酒乱がもとで別れた。前妻の姉が創価学会の婦人部員だった。

「昭和33年、那覇劇場の楽屋で御本尊をいただきました。しかし、巡業続きの楽屋暮らしです。座談会にも出られず、まともに祈る時間もありませんでした」(佐紀)。

 離婚した後、二人の子どもを抱え、仕事にも行き詰った。那覇の泊高橋で娘を連れて身投げしかけたこともあった。「その時、たまたま通りかかって親子心中を止めてくれたのも前妻の姉でした」(佐紀)。


 やがて重子と結婚、佐紀とともに信心を始めた重子は、那覇の飲食店で働いて家計を支えた。

「壮年部の嶋袋清英さんに相談しました。夫は手先が器用で、役者業だけでなく劇団員の髪結いも担っていることを話しました」。まだ「からじ」を結うプロがいない時代である。嶋袋は自分の家にある櫛と鏡を持っていくよう促し、「髪結いで再起しなさい」と重子に話した。重子は「申し訳ないから自分で買います」と言い、なけなしの貯金をはたいて大きな鏡と本つげの櫛を買った。そして佐紀に髪結い一本で生きていこうと迫った。

 「私は妻の心に打たれ、『小波流』を名乗りました。池田先生が初めて沖縄に来られる前の年です」(佐紀)。やがて那覇の桜坂に「うちなーからじ(沖縄の髪結)結います」という看板を掲げる。

  堂々と体験を語れ ②


 「いくさやならんどー」篇の最後に、一組の夫婦の物語を紹介したい。

 1997年(平成9年)2月、池田は香港から沖縄入りした。お14回目の訪問である。恩納村の研修道場に設けられた「世界市民民芸センター」で、懐かしい壮年と再会した。結髪師の古波蔵佐紀である。

「長女のひろみ、次女の明美と三人で、琉球の髪結いを披露しました」。庶民の髪型を整えた明美が、古びた一枚の鏡を構えた。佐紀はその鏡を見すえ、ひろみをモデルにしてウミナイビ(琉球の王女)の髪を結い始めた。

 沖縄女性の髪型は「からじ」と呼ばれる。左右のハイ(ふくらみ)を出し、イリガン(入髪)を使い、髷を整えていく。「速いね」。池田と妻の香峰子は椅子に座り、佐紀の櫛さばきを一心に見つめた。かつて沖縄の文化祭で、池田は参加者と一緒にカチャーシーを踊った。その時、佐紀が池田の鉢巻きを結んだ。別の文化祭では、仲間たちと日本語、英語、ウチナーグチの”三カ国語”を分担して司会を務め、「沖縄は国際的だね」と池田を感心させたこともあった。


 ムーティ^(紐)を口にくわえ、ゴー(輪)をつくり、仕上げにジーファー(かんざし)を挿す。結い上げるまでに10分だった。池田は「国の宝だね」と感心し、香峰子も大きな拍手を送った。王女の姿になったひろみが、琉球と朝鮮やビルマは髪型がよく似ていることを説明した。聞き終えた池田は「アジアと交流していたんだね。大事な歴史だ。ご好意、一生忘れません」と言い、三人に深々と頭を下げた。

「先生から国の宝だと言われたことが何より嬉しく、驚きました。あのころは髪結いの認知度が低かったですから」と佐紀は語る。

 佐紀の芸名は小波則夫という。

「沖縄の女優、舞踏家すべての髪を結った」「二人とない魔法の手」といわれる伝説の髪結師である。妻の重子と二人三脚で、戦後の琉球舞踊を支えてきた。二人とも、沖縄戦の戦災孤児だった。



   堂々と体験を語れ ①



 墜落事故の後、ツル子は夜中に何度も大声を出して家族を驚かされた。

「自宅にいる時も、米軍の戦闘機の爆音が聞こえるたびに、恐ろしくて家の外へ飛び出していました」

 創価学会には姉のヤス子が先に入った。

「姉は小学校しか出ておらず、『私は時が読めないから代わりに読んで』とよく聖教新聞を渡されました。姉のために体験談などを読んでいるうちに『これはすごいな』と感じたんです」。1967年(昭和42年)、ツル子は20歳で信心を始める。

「姉のハツエが小児まひなのですが、少しずつ状態が良くなっていく妹の姿にも信心を教わりました」。

 24歳の時、池田との忘れがたい出会いがあった。

「昭和47年、コザ会館の開館式に参加しました」。コザ(現・那覇市)は基地の街である。池田が訪れる一年ほど前、米軍の人権侵害に対する怒りが爆発し、「コザ騒動」が起こっていた。

 池田はこの日、2500人の記念撮影を終えたばかりだった。

「先生は最前列に座った二人のおばあちゃんに『よく来たね。素晴らしい会館ができたね』とおっしゃって、小さな声で題目を唱えながら二人のほほをなでられました。その様子を間近で見ていて、涙が止まらず困りました。本当に『人を大切にする人』だと感じたのです」。


 渡久地ツル子と同級生の佐次田和子は「墜落事故の後、食事のたびに人の焼けるにおいを反射的に思い出してしまい、何度ももどしました」と振り返る。ツル子と共に学会婦人部として活動してきた。

 「私が地区地区婦人部長をしていた地区に、あの墜落事故で娘さんを奪われたお母さんがおられました。娘さんは私たちと同じ小学六年生で、大の仲良しでした」。

 その母親もまた『いくさやならんどー』に手記を寄せた一人である。

<(病院に)次々に運ばれて来る遺体は黒こげで腕なのか足なのかわからず、男女の区別さえつきません。私はあの”戦さ世”を思い出し、呆然と立ちつくしていました><あのジェット機墜落事故さえ起らなかったら・・・・・。忘れようにも忘れられることではありません>。

 「私はそのお母さんと『六月三十日には一緒に追善の勤行をしましょう』と約束し、三十三回忌まで続けました。私の子を、自分の孫のようにかわいがってくれました。沖縄には今も悲しみを心に押し込んでいる人がたくさんいます。そういう人の心に届く、しっかり根を張った活動をしなければならないと思っています」と佐次田和子は語る。

 「私たちは先生から『堂々と自分の体験を語っていきなさい』と励まされました。これからが次の世代を育てる大切な時代です」(渡久地ツル子)