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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   胸にこだました原水爆禁止宣言 ①


 23歳の松田文姑は、爆心地から1.5㌔の自宅(楠木1丁目)にいた。妊娠9カ月を超えていた。家の天井が崩れ、夫婦ともに土砂まみれになったが、幸い無傷だった。家の外に出ると、見慣れた町並みは消え去っていた。

 全身にガラスが刺さった血まみれの人。潰れた家の下から助けを呼ぶ声。

<私も主人も泣きながらね。どうしようもなかった・・・・・かけって(走って)逃げてきた人はみな服が焼けてぶら下がっとるんじゃあと思ったら・・・・皮膚がぶら下がっとる>(『舞え!HIROSHIMAの蝶々』の手記、第三文明社)。「熱い、熱い」と言って太田川に飛び込む人々を呆然と見つめた。


 一人の母親が赤ちゃんの口に乳を含ませていた。

<その子はもう死んどるんよ、でもお母さんは必死よねえ。何とかして飲まそうと思って>(同)。身重の文姑はとても見ていられず反対側を向いた。すると<赤ちゃんがぎゃーぎゃー泣きながらね、お母さんの乳を吸おうとするん。お母さん動かん。もうぼろみたいに皮膚がぶら下がってねえ>(同)。母親はすでに死んでいた。

 「ここにおっちゃあいけん!」夫の武夫は文姑を自転車の荷台に乗せ、40㌔先の実家までペタルを漕いだ。文姑は母と二人の妹が気にかかった。15歳の時、父が心筋梗塞で他界した。大きな借金を背負い、助け合って生きてきた家族だった。武夫は文姑から「様子を見てきて」と頼まれた。「みんな無事だった」とウソをついた。出産を終えてから、すでに母と上の妹は死んでいたことを告げた。下の妹も翌年、原爆症で亡くなった。

 大思想は


   原爆を忘れじ


 本には墨の香りが残っていた。

「広島の通信員に被爆者がいるころを知って、書かれたそうです。この短い言葉の意味を何度も考えました」。

原爆症で亡くなる人を何人も見てきた。私はいつ発症するのか。不安は消えない。「放射能はうつるぞ」「被爆者と結婚するな」「就職しても体が弱いから長続きしない」。陰に陽に差別されてきた。悦子は池田の言葉を受けて「広島で一番、仏法を学ぼう」と決意した。

 いつしか「教学のえっちゃん」と呼ばれるようになった。市民病院に一年間入院した時も、電話取材で記事を書き、支局に送った。

「書くことが希望でした。心に灯りがつくんです」。33歳で結婚。二人の子に恵まれた。68歳で創価大学の通信教育部に入り、教育学部を卒業した。通信員を始めて今年で56年になる。

「平和を語るのは有名人だけではないし、『一対一』でなければ根を張れません。学会活動を通して教わりました。私は生きているかぎり、一人でも二人でも話し続けます。


 大思想は原爆を忘れじ───池田にとって「核兵器の廃絶」は。師の戸田城聖から託された「人類の宿命を変える挑戦」であり、信仰に根づいた「思想の闘い」である。

 核兵器の恐ろしさを世界に知らしめるためには<ドキュメンタリーでもSFでもよい>(『池田大作全集』第一巻)、あらゆる手段を使うべきだと訴え、自ら数えきれない詩を書き、児童文学を手がけ、1978年(昭和53年)の第一回国連軍縮特別総会に対する「核軍縮及び核廃絶への提唱」をはじめ、多くの平和提言を発表し続けている。

 歴代の国連事務総長、アメリカ、ソ連、中国、ヨーロッパ各国のトップリーダーと会談する際、機会があれば必ず核廃絶の信条を語ってきた。創価学会の反核展示はこれまで世界三八カ国・地域で開かれ、来場者数は170万人を超えた。池田はこうも綴っている。

 <私は、ゴルバチョフ元ソ連大統領と何回も平和を語り合ったが、「人類に核兵器はいらない」ことで完全に一致した。氏が「核兵器の廃絶」を提案した動機は何だったのか?それはソ連の頂点に立ったとたん、「指揮管制システムのなんらかのミスで核兵器が使用される」危険性がわかったからだった!(ジョナサン・シェル著『核のボタンに手をかけた男たち』から。川上光訳、大月書店刊)         今まで無事だったのは「幸運の結果」と言わざるをえない>C(2001年8月12日付「聖教新聞」)

 池田がたえまなく続ける核廃絶の運動。その源流をたどった。


原水爆の使用は「絶対悪」である──


恩師・戸田城聖の遺訓を胸に、


池田大作は「人類の宿命を変える挑戦」として


核廃絶を訴え、創価学会の


平和運動の軌道を敷いていく。


広島と長崎の青年部、婦人部は、


17冊610人に及ぶ被爆体験を出版。


原爆症と民族差別に虐げられてきた


在日韓国人被爆者の証言集は、


運動の深さと広がりを象徴する一冊となった。


池田は、原爆に苦しんだ


すべての人々が「生き抜いてよかった」と


言えるようになってこそ、


日本は平和国家であると語る。


 <母から子へ、父から子へ、平和のバトンは落とすな!>(2002年8月3日付「聖教新聞」)───戦争体験を記し、未来に残すことがどれほど重要か。池田大作は何度となく繰り返してきた。「核兵器」に話が及ぶ時、その論調はとりわけ鋭い。

 <今、被爆者も老いた。「だれが、反戦・反核のこの思いを受け継いでくれるのか。私たちが死んだら、戦争の悲惨を知らない政治家に、また、だまされ、戦へと引きずられていくのではないか」。そんな焦燥を、多くの人が感じている>(同)


 1945年(昭和20年)8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を落とした。広島市内に住む35万人のうち、7万人が即死し、年内に14万人が命を奪われたといわれる。

 松浦悦子は7歳だった。実家は爆心地から2㌔の己斐東本町にあったが、たまたま賀茂郡鷹島町(現・東広島市)に縁故疎開していた。原爆投下の3日後、広島市内に戻った。父の新蔵と母のキヨノに連れられて何日も市内を歩き回った。

「父の弟を捜したんです。夜、焼け野原になった町を歩くでしょう。すると地面がぽっぽ、ぽっぽ燃えよる、原爆でやられた遺体から出た油も、緑や橙や紫に燃えよる。母の手を握りしめて、目をつぶって歩きました」。

 悦子は己斐国民学校初等科(現在の己斐小学校)の1年生だった。学校は火葬場と化していた。

「校庭で数え切れん数の遺体が焼かれました。新聞紙で袋を作って、大きな骨は『大人』、小さな骨は『子供』と書いた袋に入れて、下駄箱に並べてありました」。

 しばらくして両足が腫れ、恐怖に襲われた。二次被爆である。当時は知るよしもない。原因不明の膿に蠅がたかり、卵を産み付けた。

<両足全体にできたおできの中にウジがわき、はい出してくるウジをはし(箸)でつかんでは取るのが一日の仕事であった・・・・・包帯をはずす時は痛くて泣いた>(『広島のこころ二十九年』の手記、第三文明者)。傷跡はいつまでも残り、悦子はスカートをはかなくなった。

 創価学会に入るきっかけは、姉の結核だった。「医者から『あと数か月の命』と告げられていた姉が、母といっしょに元気に折伏に歩き回るようになって、うらやましくてね。18歳の時、私も信心を始めました」。


 悦子は20歳で聖教新聞広島支局の準通信員になり、やがて通信員として記事を書き始める。1961年(昭和36年)の8月、支局長が一冊の本を手渡してくれた。「池田先生からあなたにいただいたよ」。それはできあがったばかりの『会長講演集』第一巻だった。表紙を開くと池田の直筆が目に飛び込んできた。「大作」という署名と、自分の名前の間に、勢いのある筆跡が刻まれている。

 


   ここに幸の花を ②


 「恩納村の核ミサイル基地が『世界平和の碑』に生まれ変わる前、池田先生は、発射台跡に作った部屋に入り、『巌窟会館』と名づけられました」(桃原正義)。池田が恩師・戸田城聖とともに読んだ小説の一冊に、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』───巌窟王──がある。戸田は、獄死した師・牧口常三郎との日々を描いた小説『人間革命』で、獄中闘争を貫く主人公を「巌九十翁」と名づけている。

 池田が「巌窟会館」と名づけた部屋には今、「沖縄戦の絵」が展示されている。中国からも見学者が訪れるようになった。

 その一角に、次のような池田の詩が掲げられている。


 <戦争ほど残酷なものはない

  戦争ほど悲惨なものはない・・・・・

  ──それは 沖縄が

  あなたたちの悲願が

  喚起せしめた

  我が生命の叫びなのだ>

 <ああ 沖縄!

  忍従と慟哭の島よ

  誰よりも 誰よりも

  苦しんだあなたたちこそ

  誰よりも 誰よりも

  幸せになる権利がある

  そうなのだ

  ここに安穏なくして

  真実の世界の平和はない

  ここに幸の花 咲かずして

  人の世の幸福はない>


 幸福の綴──「いくさやならんどー」(2) 連載終了

  ここに幸の花を ①


 「沖縄戦の絵」展の時、長女のひろみはスタッフとして数十人の戦争体験を聞いた。

「心残りがありました。私の母の戦争体験をくわしく聞いていなかったのです」。6年後、ひろみは沖縄で行われる「女たちの太平洋戦争」展の実行委員になった。それまで話すことを拒み続けてきた重子は、42年間、誰にも話さなかった「母の最期」を語った。

 重子は父の松、母のツルとともに」糸満のガマ(事前の洞窟)へ逃げ込んだ。胸まである泥水に浸かったまま一週間、米兵から隠れ続けたこともある。

「ガマの入り口にいた母子に米軍の砲弾が当たってね。子どもの背中からお母さんの胸を貫いた。子どもが泣き叫んで、日本兵がその母子を追い出したの。うちのお母さんは、せめてその子にサトウキビをあげようとガマの外に出たの」。

 重子はツルの腕をつかみ「出たら生きてはもどれないよ」と止めた。ツルは重子の手を振り切ってガマの外に出た。ガマの入り口が爆発したのはその直後だった。

「強い光が母を襲い、私の目の前で、母は姿形が残らないほど吹き飛んでしまったのよ。お父さんは、戦争が終わった後、捕虜収容所で死んだの」。戦後、家族を失った重子は琉球舞踊で生計を立てるようになり、やがて佐紀と出会う。

 話すほうも聞くほうも泣いていた。さらに重子は続けた。

[母さんの最期の瞬間は花火に似ていた。だから私は、花火を見るのがつらいんだよ。ひろみは、小さいころからどれだけ「花火を見に行こうよ。きれいだよ」と誘っても、母が絶対に行かなかった理由を知った。


 沖縄女子部の有志は重子たちの証言をもとに、沖縄当時の食べものや、さとうきび畑でつくった隠れ家などを再現した。那覇で行われた「女たちの太平洋戦争」展は内外から高く評価された。

 古波蔵佐紀は池田の前で髪結いを披露した翌年、「ニッセイ・バックステージ賞」を受賞し、4年後には「伝統文化ポーラ賞」に輝いた。そして2008年(平成20年)、国は沖縄の結髪を「国選定保存技術」に選定し、佐紀を「国選定保存技術保持者」に認定した。拍高橋で心中しようと思い詰め、妻の重子に鏡を託された日から半世紀が経っていた。


 「先生に『国の宝だね』と言っていただいた時に使った鏡は、妻が初めて買ってくれた鏡です。今も大切に使っていますよ」。そう言って佐紀は満面の笑みを浮かべた。佐紀が立ち上げた「小波流」の教え子は500人を超え、そのネットワークはブラジルやハワイなどにも広がっている。