胸にこだました原水爆禁止宣言 ②
胎内被曝した長男の良輔は医師から「小学校に上がるまで生きられない」と言われるほど体が弱かった。なにより文姑自身が七つの病気を抱えていた。信心するまでは<恨み節の人生>だったと語る。1956年(昭和31年)、知り合いの学会員から「必ず幸せになれる」と言われ、ワラにもすがる思いで入会した。
翌年、神奈川で行われた大きな会合に参加した。文姑は初めて戸田城聖の姿を見た。生涯忘れることのない、その言葉を聞いた。
「・・・・・もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」。
「原水爆禁止宣言」──戸田が創価学会青年部に残した遺訓である。池田はこの宣言ついて小説『人間革命』に綴っている。
<もし、戸田が、原水爆を使用した者は「魔物」「サタン」「怪物」であると断じただけにとどまったならば、この宣言は極めて抽象的なものとなり、原水爆の使用を「絶対悪」とする彼の思想は、十分に表現されなかったにちがいない。
彼は「死刑」をあえて名言することによって、原水爆の使用を正当化しようとする人間の心を、打ち砕こうとしたのである。いわば、生命の魔性への「死刑宣告ともいえよう>(『池田大作全集』第一四九巻)
文姑は核兵器の存在そのものを否定する戸田の叫びに触れ、目の前が開けた。
「私の弟子であるならば、私の今日の生命を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」。広島に帰る列車に乗ってからも、戸田の声が胸にこだました。ようやく生きる道を知った。興奮を抑えられなかった。
<もう、身が打ち震えるようでね。そうかそうか私は原爆を受けてこうして苦しんできてね、こういう弱い体になったのを、今度は元気にしていって、そして原爆の悲惨さを訴えてね、平和のために尽くしていくという使命が私にはあったんだということを・・・・気づかせてもらって>(手記)
試練は続いた。40歳の時、夫の武夫が不慮の事故で亡くなった。高校三年生の良輔と中学三年生の千代を育てながら、文姑は働き、弘教に歩いた。弱かった体は薄紙をはぐように良くなっていった。
武夫を失った3年後、文姑は東京の学会本部で行われた会合に参加し、池田に質問する。広島には「原爆の街」や「念仏の都」といった暗いイメージがある。皆の希望となる新しい指標がほしい──そう尋ねた。池田は文姑の目を見据えて「まず、あなた自身が必死に闘い抜くことです」と答えた。この時、「あなたが平和の天地を築いていくことです」と言われた一言が文姑の指針になった。
長男の良輔は25歳の時、原爆症による咽頭腫瘍で入院し、「ここまで生きたのが奇跡です。あとは好きなことをさせてあげてください」と医師に告げられた。しかし良輔はその後も大病を乗り越え、52歳まで生き抜いた。文姑が若い世代に被爆体験を語るようになったのは、良輔を看取ったころからである。
また、文姑は学会活動で出会った人々の悩みを丹念にメモしてきた。
<一人ひとり励ましてあげて「覚え書」を書いてきたんよ。昭和53年頃からね・・・・訪ねた方には、自分の体験を書いてはよく手紙を出すんです>。今年、93歳になる。ノートに記された「覚え書」の人数は5000人を超えた。