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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「あんたらしか言えんたいね」 ②


 吉岡輝彦は現在、長崎創価学会の平和委員会委員長を務めている。両親ともに被爆者であり、『ナガサキを語り継ぐ』では母の体験を聞き書きした。

「私が創価大学に入学した年、ちょうど大学図書館の起工式があり、池田先生が出席されたのですが、その場に学生代表として招待されてビックリしました。広島出身の学生もいました。先輩から『高校生の時、反戦出版に携わったからだよ』と教えてもらいました」。


 翌年、滝山寮の寮生たちと池田が記念撮影した際、「写真はご両親に送ってあげなさい」と託されたことも忘れがたいと語る。母の加代は内臓障害に苦しみ、幼い輝彦の小児喘息を治したい一心で学会に入った。

夫の泰彦とともに草創期の浦上一帯を弘教に歩いた。

「その写真を送ったころは、ちょうど池田先生の会長辞任に至る『第一次宗門事件』の渦中でした。写真は両親にとって何よりの励ましになりました」(吉岡輝彦)。


 長崎青年部は5年かけて6冊の反戦出版を世に出した。1冊目の『ピース・フロム・ナガサキ』では断ったが

3冊目の『ナガサキを語り継ぐ』で「あんたらしか言えんたいね」と証言した人もいた。「取材者リストは、本に載った方々の三倍ほどの人数でした」と吉岡は振り返る。いったん証言を引き受けたものの、自宅まで来た高校生たちに「やっぱり覚悟がつかん」と頭を下げて断る人もいた。 「家族にも言っていないことを文章で残すわけですから。無理もありませんでした」  反戦出版は何よりも、証言者一人ひとりの「自分との対話」だった。
  「あんたらしか言えんたいね」 ①

 ことしの6月、創価学会の長崎平和委員会は最新の反戦出版を刊行した(『語りつぐナガサキ』)。14人の被爆者が手記を書き下している。その一人、高比良信治は印刷に回す原稿に直しを入れた後、静かに息を引き取った。85歳だった。
 信治は、妻の國枝と合わせて100世帯を超える弘教を重ねてきた。
「私は生涯、一配達員だ」と胸を張り、毎朝、聖教新聞を配り続けた。長男の信也は「小さいころ、夜中に目を覚ますと両親そろって題目を唱えていました」と振り返る。池田から「お子さんを立派な後継者に育てていただきたい」と託された願いは、4人の子に受け継がれた。
 
 被爆の記憶だけは、二人とも長く口にしなかった。次女のひとみは17歳の時、40人の高校生による聞き書き集『ナガサキを語り継ぐ』に両親の体験を綴った。
 「母がふと漏らした一言で、父の被爆を知りました。反戦出版をきっかけに初めて両親から被爆の話を聞いて、ショックを受けました。あまりにも悲惨だったからです。毎年8月9日には学校で行事がありましたが、なにもわかっていなかったと痛感しました」。高比良信治の遺稿は<本当は、いまでもできることなら思い出したくはないのです>と結ばれている。<被爆のことは妻に聞かれても、ずっと話しませんでした>。少しでも体の具合が悪いと「なんか悪か病気ばせんやろうか」と胸騒ぎがした。被爆者の苦しみは当時の怪我よりも、その後の「心の不安」のほうが大きいのではないか。そう問いかける。<不安を抱き続けての70年間でした>。

  「この方々こそ、平和の礎なのだ」 ②


 アメリカが長崎に原爆を落としたのは広島の3日後、8月9日だった。

<父は勤務先の三菱兵器工場の住吉トンネル工場(爆心地より1.8㌔)で、母は夫婦川町(爆心地より3キロ)で、それぞれ被爆しました>。松本初美は自分が原稿を寄せた反戦出版『終わりはいつですか』を見つめ「その時、私は母のお腹の中にいました」と穏やかな口調で語った。

 

 1歳でジフテリア、小学4年で肺結核、6年で腎炎に苦しめられた。母のマサは「この子はもうダメばい」とあきらめかけたこともあった。体育の授業では跳び箱も鉄棒もできない。虫刺されの跡がなかなか消えず、かさぶたになる。包帯が欠かせず、夏も長袖で過ごした。「夏が一番きらいでした」。

 初美の両親は6人の子を抱え、経済苦をきっかけに創価学会に入った。(1957年)。

「私は御書=日蓮の遺文集)を読んで過去、現在、未来をつなげる『三世の生命観』に心動かされました。しかも『宿命はかえられる』という。なぜ貧しいのか、なぜ病弱なのか、自分なりに納得できたし、必ず今の状況を変えて見せると思えるようになったんです」(初美)。


 その年の秋、創価学会「長崎支部」の結成大会が行われた。中学1年生の初美は初めて池田と会う。「きょう集まった皆さんが、この信心でお一人お一人が幸せになってください」「東洋公布の先端を担うのは、歴史を眺めても長崎以外にない」。海に開かれた地理と、被爆の史実を踏まえ、池田はそう言い切った。


 「私はまだ中学生でしたが、先輩の折伏について歩くようになりました」。と初美は笑顔で語る。反戦出版にも親子で取り組んだ。父の政治は『長崎が死んだ日』に寄稿した。

<大橋の川の中は、顔を見ずに突っ込んだ死体で一つの山ができていた。この世の出来事とは思われない・・・・・>。


 長崎の青年部、婦人部は9冊の反戦出版を世に出した。そのうち8冊が原爆をテーマにしている。「『終わりはいつですか』をつくる時、母に被爆のことを聞きました。『思い出したくない』『まだにおいが残っとる』とずいぶん嫌がられましたが、少しずつ話してくれました」。

 その日、マサはたまたま勤労奉仕で夫婦川町に出かけていた。銀座町の自宅は爆心地から1キロだった。原爆が落とされた後、自宅に戻ったが、どこが自宅だったかすら、わからなくなっていた。

「あたり一面、すべて焼け野原ですから。母は『なーんも無かったとよ』と言っていました。近所で使っていた水道ポンプだけが焼け残っていたそうです」。

 初美は自らの闘病とマサの聞き書きをもとに、「夏がキライ」と題する原稿を書いた。「反戦出版に載っている人は、みんな無名の人でしょう?埋もれたはずの声をこれだけ残したのは、すごいことだと思います」。

  「この方々こそ、平和の礎なのだ」 ①


 <被爆の体験は「どうしても言葉にならない」という。「体験した人でなければわかるものではない」という。その通りであろう。だからこそ、千万分の一でも「わかろう」しなければならないのではないか。とくに青年は>(2002年8月3日付「聖教新聞」)

 広島と長崎の青年部、婦人部が世に問うた原爆関連の反戦出版は合計17冊(第三文明者)。証言者数は匿名も含め610人を超える。

 <腕の中の赤ちゃんを爆風で吹き飛ばされ、探し求めて走り回っていた「狂える母」を忘れてはならない。

 焼けただれて死んだ子を抱いて「このまま私も化石になりたい」と動かなかった母を忘れてはならない。原爆症で働けず、母に苦労させる自分を責めながら、病苦と差別に耐えた青年の無念を忘れてはならない。

 ひきつった皮膚を袖に隠し、娘ざかりに、死ぬことばかり考え、青春という言葉のまばゆささえ憎んで生きねばならなかった乙女を忘れてはならない。忘れさせてはならない。

 この方々こそ、平和の礎なのだ。この方々が「生き抜いてよかった」と言えるようになってこそ、日本は平和国家なのだ>

  胸にこだました原水爆禁止宣言 ②


 胎内被曝した長男の良輔は医師から「小学校に上がるまで生きられない」と言われるほど体が弱かった。なにより文姑自身が七つの病気を抱えていた。信心するまでは<恨み節の人生>だったと語る。1956年(昭和31年)、知り合いの学会員から「必ず幸せになれる」と言われ、ワラにもすがる思いで入会した。

 翌年、神奈川で行われた大きな会合に参加した。文姑は初めて戸田城聖の姿を見た。生涯忘れることのない、その言葉を聞いた。

「・・・・・もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」。

 「原水爆禁止宣言」──戸田が創価学会青年部に残した遺訓である。池田はこの宣言ついて小説『人間革命』に綴っている。

<もし、戸田が、原水爆を使用した者は「魔物」「サタン」「怪物」であると断じただけにとどまったならば、この宣言は極めて抽象的なものとなり、原水爆の使用を「絶対悪」とする彼の思想は、十分に表現されなかったにちがいない。

 彼は「死刑」をあえて名言することによって、原水爆の使用を正当化しようとする人間の心を、打ち砕こうとしたのである。いわば、生命の魔性への「死刑宣告ともいえよう>(『池田大作全集』第一四九巻)


 文姑は核兵器の存在そのものを否定する戸田の叫びに触れ、目の前が開けた。

私の弟子であるならば、私の今日の生命を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」。広島に帰る列車に乗ってからも、戸田の声が胸にこだました。ようやく生きる道を知った。興奮を抑えられなかった。

<もう、身が打ち震えるようでね。そうかそうか私は原爆を受けてこうして苦しんできてね、こういう弱い体になったのを、今度は元気にしていって、そして原爆の悲惨さを訴えてね、平和のために尽くしていくという使命が私にはあったんだということを・・・・気づかせてもらって>(手記)


 試練は続いた。40歳の時、夫の武夫が不慮の事故で亡くなった。高校三年生の良輔と中学三年生の千代を育てながら、文姑は働き、弘教に歩いた。弱かった体は薄紙をはぐように良くなっていった。

 武夫を失った3年後、文姑は東京の学会本部で行われた会合に参加し、池田に質問する。広島には「原爆の街」や「念仏の都」といった暗いイメージがある。皆の希望となる新しい指標がほしい──そう尋ねた。池田は文姑の目を見据えて「まず、あなた自身が必死に闘い抜くことです」と答えた。この時、「あなたが平和の天地を築いていくことです」と言われた一言が文姑の指針になった。

 長男の良輔は25歳の時、原爆症による咽頭腫瘍で入院し、「ここまで生きたのが奇跡です。あとは好きなことをさせてあげてください」と医師に告げられた。しかし良輔はその後も大病を乗り越え、52歳まで生き抜いた。文姑が若い世代に被爆体験を語るようになったのは、良輔を看取ったころからである。

 また、文姑は学会活動で出会った人々の悩みを丹念にメモしてきた。

<一人ひとり励ましてあげて「覚え書」を書いてきたんよ。昭和53年頃からね・・・・訪ねた方には、自分の体験を書いてはよく手紙を出すんです>。今年、93歳になる。ノートに記された「覚え書」の人数は5000人を超えた。