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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   母は大地を叩いた ②


 張福順の両親──張在寛と金三秀が日本に渡ったのは1931年(昭和6年)だった。<一家は韓国で手広く農業を営んでおられたのですが、軍国・日本に侵略され、植民地政策によって土地を奪われてしまったのです。やむなく日本に来ざるを得ませんでした。「日本に行けばすばらしい生活が待っている」との宣伝文句が頼りでした>(『池田大作全集』第三十巻)。

 張は<(父は)日本人よりも安い賃金で、炭鉱とか地下鉄・道路工事現場のような所で危険な仕事ばかりしてました>(『もうひとつの被爆碑』)と語り残している。

 職場でも徹底的に差別された。たとえば炭鉱では、日本人の60%が安全な坑外で働いたが、朝鮮人のじつに85%が危険な坑内で働かされたる『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店)。怪我をしてもなんの保証もない。夫婦は下関、広島、神戸、大阪、四日市、名古屋、津と渡り歩いた。張が生まれたのは大阪・淀川の河川敷だった。<まともに御飯なんて食べたことはなかったですよ>(『もうひとつの被爆碑』)。


 戦争が始まり、強制疎開で広島に移り住んだ。劣悪な田んぼを割り当てられ、家族は木の実を拾い、草を抜いて飢えをしのいだ。

 張は妹や弟の子守でなかなか小学校に通えなかった。大きくなったら学校の先生になるのが夢だった。足の速さが自慢だったが、徒競走で一番になったことはない。勝つといじめられるからだ。<お嬢さん───当時、私達は日本人の娘さんのことをこう呼んでいたんじゃけど、そのお嬢さんより、前へ出ちゃいけん、立ててあげんといけんのです>(同)。

 

 原爆が投下された数日後、母と一緒に広島市内に入り、叔母を探し回った。見渡す限り<この世の地獄>だった。何度も気が遠くなった。舟入病院で見つけた叔母は、全身が焼けただれた息子に膝枕をしていた。息子の体にたかるたくさんの蠅を追い払いながら、叔母は泣いて訴えた。「医者や薬が足らんけえ、朝鮮人までは手がまわらんげな。このまま死ぬのを待つだけじゃ」。

 その時、張は生まれて初めて母の悲鳴を聞いた。

 「アイゴー(哀号)!アイゴー!」

 座り込んだ母は、大地をこぶしで何度も叩きつけ、ふるさとの言葉で絶叫した。<国を盗られ、日本まで連れてこられ、牛馬のようにこき使い、ひと思いに殺さず、何の罪があってこうやって、半焼にして苦しめるのか!生きるも死ぬも差別するのか!」>(「法華経の智慧」、『池田大作全集』第三〇巻に収録)。

    母は大地を叩いた ①


 <池田大作SGI(創価学会インターナショナル)会長との出会いは、私の人生を大きく開くものとなりました>(『オモニの贈り物』小社刊)。張福順は自叙伝にこう記している。

 池田は張の半生を『新・人間革命』や『法華経の智慧』で繰り返し紹介し、励まし続けた。<日本と韓国のはざまで、運命に翻弄されながらも、懸命に行きぬいた在日の方々の代表として、書き留めておきたかった>(『母の曲』)。


 ───1983年(昭和58年)の初夏、張のもとに婦人部の先輩から相談があった。「女子部の人たちが、反戦出版のことで白川さん(張の日本名)にお願いしたいことがあるそうなんよ」。

 張は求められるままに自分の半生を話した。メモをとりながら目を赤くする彼女たちの姿を見ては「ああ、ここまでは話すんじゃなかった」と胸を痛めた。

 「白川さんは、原爆は受けていないんですよね」と聞かれた。張は「ええ、山奥におったから」と答えた。

 女子部の一人が意を決して張に伝えた。「じつは私たちは、原爆にあわれた在日韓国・朝鮮の人たちを探しているんです。白川さんなら、そういう方をご存じじゃないかと思って・・・・・」。

 張は平静を装い、しばらく話を続けた。「いつでも話を聞きにきてくださいね」と彼女たちを送り出した。そして御本尊の前に座った。

  ───これまで私は、二次被爆したことを隠してきた。長男も次女もまだ結婚していない。”被爆者の子”だと知られたら結婚できないかもしれない。だから私はこれまで原爆手帳も申請しなかった。

 しかし、彼女たちは真剣に話してくれた。「私たちは話し合いました。在日の被爆者からみれば、私たち日本人は原爆の被害者であると同時に、加害者の立場なのではないか。最も苦しんだ人の声を残さねばならないのではないか」と。


 妻は悩み、祈り続けた。<矛盾するかもしれませんが、私には在日韓国・朝鮮人被爆者たちの存在があまりに知られていなさすぎるという気持ちもあったのです・・・・・原爆を受けた韓国・朝鮮人は、総被爆者の一割を超えると言われています。広島では約5万人、長崎では2万人の同胞たちが、あの業火の中で苦しんだのです。広島では、2万人の同胞が、一瞬にして命を奪われました>(『オモニの贈り物』)。

 二度目の取材の日が来た。張は彼女たちに「私も被爆しているよ」と告げた。


  正しい歴史を残してちょうだい ②


 彼らは日本人と同じ被害を受けた。しかし同じ待遇を受けることはなかった。

<戦争の時は、区別なしに勤労奉仕とか使われて、戦争が終わったら区別されてね>(朴永愛)。

 何人もの証言者が「失対」(失業対策事業)という言葉を口にした。辛鳳先は聞き書きに来た女子部員に<この辺の道路、みな、わしが作ったよ>と言った。三人の子をたべさせるため、幼い子を背負ったまま石や砂を積んだモッコ(縄で編んだ運搬道具)を肩にめりこませ、土木作業で何年も稼いだ。ヘトヘトになって家に帰ると長男がよく泣いていた。

<「どうしたん?」言うて聞いたらね、「(学校で)『朝鮮、朝鮮』言うて、友達から苛められたんじゃ」言うて。ほんと、なんでわしら親子が、こんな目に遭わにゃいけんのか思うて、情けないやら、悔しいやらで、夜も寝られん日があったよ>


 聞き書きを担当した29人は、つらい言葉も突きつけられた。<当時のことは口に出して言えんよ>〈卞順得)。<もう、あんたに話すのもいやなんよ。原爆原爆言うても、あんたらは、おうた(遭った)ことないんじゃから・・・・・>(曹斗順)。

 朴貞善は育てた男の子を全員、大学まで進ませた。<けど大学出ても人並みの就職ができん。国籍ではねられてしまう。なんで、同じ人間なのに差別されんといかんのか>。<ああ、腹も立つよ。寝ず、食わずで働いて、おまけに、バカにまでされて>。


 賢明にノートをとる女子部員を前に、思いの丈を吐き出した。

 <うちは、心の底から思うんよ。うちが字がわかったらね、小学校に、たとえ3年まででも行っとったら、平がなでも片かなでも書けたらね。そしたら、天井に届くほどのほどの書きものを残したい。原稿に遭うたその日から今日までの、主人の苦労、うちの苦労、差別されたこと、ひもじい目に会うたこと、全部、ありったけ書き残して死にたい>

 <正しい歴史を残してちょうだい。皆んなに知ってもらいたい。世界中に、原爆の辛さを知らせたい・・・・・そしたら、死んでも悔いが残らん>


 日本社会は、日本で生まれ、日本で育ち、日本で被爆した人をも、「国籍が違う」ことを理由に差別してきた。日本は戦争の被害者であり、同時に加害者でもある。『もうひとつの被爆碑』には、この誰も否定できない史実が記されている。

 同書を歓声に導いたのは、一人の在日女性の「自分自身との対話」だった。

編集に携わったスタッフは口々に「張福かたが順さんがおられたから『もうひとつの被爆碑』をつくることができました」(佐藤由紀子)、「張さんから紹介していただいた方々を訪ね歩き、2年くらいかけて取材しました。池田先生の提案で『創価学会の日』である『五月三日』に出版され、携わった皆でとても喜んだことを覚えています」(柏森絹枝)と語る。

   正しい歴史を残してちょうだい ①


 同書の証言者は17人。差別を一身に受けてきた人ばかりである。

 郭福順は17歳だった。大手町五丁目の親戚の家にいた。爆心地からわずか数百㍍である。<一ペンに目の前が真っ黒になって>家の下敷きになった。裸足のまま逃げようと思ったが<アスファルトが熱うて歩けん>。花柄のワンピースの切れ端を引き裂き、足の裏に板切れを巻きつけた。<逃げる道々を、黒い雨が降ってきたんよね。人の顔が、みるみるうちに黒う濡れていくけえ分かったよね>。

 郭は敗戦後、体調不良に苦しみながら工事現場を転々とした。「原爆スラム」と呼ばれた基町に住んだ。<本当の意味の苦しさを語るいうたら、百分の一も語れんと思うよ>。28歳の時、創価学会とめぐりあった。先輩から「100人中、99人が救われても、100人全員が救われなければ正法じゃない」と言われ、自分も救われるのだろうかという不安や、卑屈な思いが消えていったという。戦争体験の語り部として、多い時は年に80回、子どもたちの前に立ってきた。息子の丁基和は「指紋押捺拒否」で国と闘った一人である。


 李寳拜は31歳で<原爆に遭うまでは幸せ>だったと語る。長男は肺病で苦しみ、21歳で自ら命を絶った。次女は歯ぐきからの出血が止まらず10歳で亡くなった。三女も33歳の若さで病死した。

<、どうして髪が抜けるのか、体が悪くなるのか、当時は、全然わからないですよね>。方季子は「在韓被爆者」として苦しみ抜いた姉の思い出を語った。姉は家計を支えるため、一人で釜山に住み、ゴム工場で働いた。髪が抜けても白いタオルをかぶって働き続け、原因不明の病で亡くなった。44歳だった。


 ある匿名女性の訴えに、女子部員は言葉を失った。<私しゃあ、今までこうして生きてきたことが運がわるいんじゃあ、思うとります・・・・・あの時、原爆におうて(遭って)死んどった人の方が、よっぽど、運がええ>。

   「あんたらしか言えんたいね」 ③


 「原爆手帳(被爆者健康手帳)」を持つ約20万人のうち、原爆症と認定され、医療費を給付されている人はわずか100人に一人である。そのなかでも、とりわけひどい仕打ちを受けてきた人々に焦点を当てた反戦出版がある。池田は『母の曲』というエッセー集で、その一冊に言及している。

<『もうひとつの被爆碑』──それは在日韓国人被爆体験に記録である・・・・広島の若い女性たちが聞き書きしてまとめあげた。広島で被爆したのは日本人ばかりではなかった・・・・・このまま歴史のなかに埋もれさせてはならない。そんな思いから、聞き取りを始めたという。娘のような世代の熱意に動かされて、”在日”の年配の婦人たちは、重い口を開いて語ってくださった>。