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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

皆さん、いつも拙いブログを読んでくださ

りありがとうございますm(__)m

実はパソコンが壊れてしまいました。

電源が全く入りません。

今日修理に出しましたが、長くて1ヶ月か

ると言われました。

しばらく連載出来ませんが、宜しくお願い

しますm(__)m

インフルエンザの季節となりました。

お身体御自愛くださいませ!

 遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうご


ざいます<(_ _)>


 今年も宜しくお願い致します<(_ _)>


 私の体調の方ですが、クリスマス過ぎから鬱状態


になってしまい、3日ほど寝ておりました。


 そんな折、息子が自転車で出かけたまま夜10時


過ぎても帰らず心配していましたら、救急隊の方か


ら電話がかかってきました。スーパーの警備員さん


から、「うずくまっている人がいる」と通報があったそ


うです。


言われた病院に行ったのですが、深夜11時過ぎな


のもあり、電車が中々来ず2時間以上かかってしま


いました。


翌朝10時30頃帰宅しました。


ちなみに息子は救急車で運ばれるの4回目です。


今回の原因は脱水症状だったそうです。


私の方は最低限の掃除や片付けをして、三が日は


何とか暮らしましたけど、三が日過ぎると体のだる


さや、腰や関節の痛みに悩まされています。


年には勝てませんね。(-_-メ)


昨年はお題目が思うようにあがりませんでしたが、今年は息子の発達障害のこと、住む所にしても今のところに住めないので、横浜に住むのか千葉に帰るのか等、今年は大きな決断をしなければならないことが多々あるのでしっかり唱題に挑戦したいです!


皆さんと一緒に今年も頑張りますので宜しくお願いします<(_ _)>


痛みに

 

   52歳の中学生 ②


 「昭和40年代に池田先生が広島に来られた時、母が一緒に撮っていただいた記念写真があります。母が一番喜んでいたのは『法華経の智慧』で紹介された時でした」(三女の敬子)

 創価学会の世界を知り、張は初めて「希望」を抱いた。子どもの病気が治ったことや、夫の酒癖が鎮まったことだけではない。

<仏法を学ぶことで、生きる意味や目的意識をもてた>(同)。それが人生を変えた。


 自らの半生が紹介された『法華経の智慧』を、張は泣きながら読んだ。そこにはこう書かれていた。

 <・・・・長い間、頭から離れない疑問があったそうです。それは「なぜ私が、韓国人として差別を受け、そのうえ、被爆しなければならなかったのか」ということでした。

 それが、仏法の「願兼於業」(「願、業を兼ぬ」と読む。菩薩が自ら願って、悪世に生まれて、人々を救うこと)という訪問を聞き、心から納得できたのです。「そうか、私には、私にしか果たせない使命があるんだ。願って、このような境遇に生まれてきたんだ」と>(<『池田大作全集』第三〇巻)。


 反戦出版では女子部の熱意に応じ、自ら同胞のもとに足を運んだ。思うように読み書きできず悔しかった。<今の自分は、あまりに力がなさすぎる。戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさ、差別の醜さ、そういうものを人に伝えていくためには・・・・力がないなら力をつけよう!>(『オモニの贈り物』)。張は52歳の夏、夜間中学に入学した。「母は学校に通い始めたころから、日本名の白川栄子ではなく韓国名の張福順を使うようになりました」(長女の順子)。

 夜間高校に進み、卒業式では答辞を読み上げた。さらに広島大学の二部へ進んだ。その年、苦しみも楽しみも分かち合ってきた夫を看取った。<「わしの分まで頑張れよ」というのが、夫の最後の言葉でした>(同)。張は「布団で寝た記憶がない」という5年間を過ごし、三つの教員免許を得て、62歳で大学を卒業する。


 県立の商業高校から、非常勤講師で教えてほしいと請われた。「商業法規」「マーケティング」「流通経済」の三科目を教えた。さらに、母校の高校でも授業を受け持った。

 <私は、62歳という年齢や、国籍条項の壁を越え、「張福順」という本名のままで教育の現場に立つことができたのです・・・・・・それはわたしにとって、思ってもみない、本当に信じられない出来事でした>(同)。

 張は、かつて水道のない小屋に住んでいた時、達川秀子から何度も聞かされた言葉をかみしめた。「願いが必ず叶う信心じゃけぇ」「想像もできないような幸せの境涯になれるよ」。

 活躍の場は県外へ、国外へと広がった。識字教育のボランティアでネパールやフィリピンも訪れた。アメリカのボルティモアで被爆体験を語った。「聖教新聞」の取材を受けた際、こう答えている。「私たちが、なぜ差別を受けたのか。それは日本の国家主義です・・・・・・このことをわかろうとしない官僚や御用学者、マスコミが、日本の社会の民度を下げ、それが政治や教育にも影響しているんです」「無知であってはならない」。

 2007年(平成19年)、張福順は75年の生涯を閉じた。識字教育のNGOは長女の順子が受け継いでいる

   52歳の中学生 ①

 日本の敗戦の三年後、張福順は口減らしのために15歳で結婚した。夏は立ちくらみで何度も動けなくなった。二次被爆の影響だった。夫の白龍基は19歳。朝鮮戦争で父と兄を失い、激しい胃痙攣に苦しんだ。痛み止めのモルヒネに心身を侵され、暴力を振るうようになる。モルヒネ中毒を脱した後は酒に溺れた。
 張は三度流産し、三人の子を産んだ。内臓疾患で手術を繰り返した。睡眠薬で自殺を試みたこともあった。入院仲間の好意で、江波の公園近くにある小屋に住んだ。水道も通らず、立てないほど天井の低い小屋に、毎日のように夫の怒鳴り声が響いた。
<積極的に私たち家族に関わろうとする人はいませんでした。むしろ、馬鹿にし、いじめるのです>(『オモニの贈り物』)。唯一の例外が、隣に住んでいた達川秀子の家族だった。秀子は創価学会員であり、被爆者でもあった。
 「長いホースを買ってきんさい。うちの水道につないでやるけん」「うどんをつくったから、熱いうちに食べんさい」。秀子は少しでも張の家計を助けようと、スカートを縫う内職も勧めた。

 張はある日、秀子から「『冬は必ず春となる』いうて、願いが必ず叶う信心じゃけぇ、あんたもやってみんさい」と座談会に誘われた。「暴力宗教だ」と聞いていたが、実際に行ってみるとまるで違う雰囲気だった。1964年(昭和39年)、三人目の子である敬子の病をきっかけに信心を始める。
 「信心を始めてから、母は次第に体調がよくなり、怒らなくなったことを覚えています」(長女の順子)。その様子を見た夫もやがて学会に入る。やがて張は戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を知る。<まさにこれは私自身の思いだと叫びだしたくなる衝動を感じました>(同)。