堂々と体験を語れ ①
墜落事故の後、ツル子は夜中に何度も大声を出して家族を驚かされた。
「自宅にいる時も、米軍の戦闘機の爆音が聞こえるたびに、恐ろしくて家の外へ飛び出していました」
創価学会には姉のヤス子が先に入った。
「姉は小学校しか出ておらず、『私は時が読めないから代わりに読んで』とよく聖教新聞を渡されました。姉のために体験談などを読んでいるうちに『これはすごいな』と感じたんです」。1967年(昭和42年)、ツル子は20歳で信心を始める。
「姉のハツエが小児まひなのですが、少しずつ状態が良くなっていく妹の姿にも信心を教わりました」。
24歳の時、池田との忘れがたい出会いがあった。
「昭和47年、コザ会館の開館式に参加しました」。コザ(現・那覇市)は基地の街である。池田が訪れる一年ほど前、米軍の人権侵害に対する怒りが爆発し、「コザ騒動」が起こっていた。
池田はこの日、2500人の記念撮影を終えたばかりだった。
「先生は最前列に座った二人のおばあちゃんに『よく来たね。素晴らしい会館ができたね』とおっしゃって、小さな声で題目を唱えながら二人のほほをなでられました。その様子を間近で見ていて、涙が止まらず困りました。本当に『人を大切にする人』だと感じたのです」。
渡久地ツル子と同級生の佐次田和子は「墜落事故の後、食事のたびに人の焼けるにおいを反射的に思い出してしまい、何度ももどしました」と振り返る。ツル子と共に学会婦人部として活動してきた。
「私が地区地区婦人部長をしていた地区に、あの墜落事故で娘さんを奪われたお母さんがおられました。娘さんは私たちと同じ小学六年生で、大の仲良しでした」。
その母親もまた『いくさやならんどー』に手記を寄せた一人である。
<(病院に)次々に運ばれて来る遺体は黒こげで腕なのか足なのかわからず、男女の区別さえつきません。私はあの”戦さ世”を思い出し、呆然と立ちつくしていました><あのジェット機墜落事故さえ起らなかったら・・・・・。忘れようにも忘れられることではありません>。
「私はそのお母さんと『六月三十日には一緒に追善の勤行をしましょう』と約束し、三十三回忌まで続けました。私の子を、自分の孫のようにかわいがってくれました。沖縄には今も悲しみを心に押し込んでいる人がたくさんいます。そういう人の心に届く、しっかり根を張った活動をしなければならないと思っています」と佐次田和子は語る。
「私たちは先生から『堂々と自分の体験を語っていきなさい』と励まされました。これからが次の世代を育てる大切な時代です」(渡久地ツル子)