民衆こそ王者ー池田大作とその時代 幸福の綴──「いくさやならんどー」(2) 11 | EIKOの気まぐれ闘病日記

EIKOの気まぐれ闘病日記

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  座談会に差別はない ②


 「私はいまがいちばん美人なんですよ」。85歳の仲程シゲはそう言って破顔一笑した。眉間には、70年前の爆撃で刻まれた傷跡がかすかに残っている。シゲは沖縄戦の語り部として知られ、海外のメディアも取材に訪れる。その体験は反戦出版にも収められた(『沖縄戦・母の祈り─娘が綴る母親の記録』)。「私は絵が苦手なので、『沖縄戦の絵』展の時は漫画家の新里堅進さんにお願いして、一緒に摩文仁の丘まで行き、当時の様子を描いてもらいました」。

 1945年(昭和20年)6月下旬。15歳のシゲは母に連れられ、裸足で摩文仁の丘をさまよっていた。

 ───前年から10万の日本軍が沖縄入りし、シゲは軍の陣地壕を掘らされた。「大里村(現・南城市)の自宅は銃砲隊の宿泊所として提供しました。やさしい日本兵もたくさんおられました」。シゲの家族は「皇軍は必ず勝つ」という言葉を信じ、軍とともに南へ南へと避難していく。

「いま平和祈念資料館の立っている辺りは死体の山でした」。男女が区別できないほど焦げた人がいた。おなかが水牛のように膨れた人もいた。大きな石の上で両手を合わせ「兵隊さん、一発で殺してください」と泣き叫んでいる人もいた。<(死体の)腐敗の臭いは大変だった。ヨモギの葉っぱを鼻の中に入れても収まらない。あの姿はどんなに私が話しても理解できないと思う。本当に地獄絵だった>(『未来に伝える沖縄戦③』琉球新聞社)。

 その時、沖縄出身の20代の男性が「犬死にするより投降しよう」と呼びかけた。

「岩陰から二人の日本兵が飛び出してきて、『こんな馬鹿がいるから戦争に負けるんだ』『こいつはスパイだ』と怒鳴り、日本刀で若者の首を切り落としたんです。目の前で血が噴き出して・・・・・恐ろしくて言葉が出ませんでした」。


 荷物も捨てて崖を下る途中、砲弾の破片で左膝を痛めた。海沿いのガマ(自然の洞窟)を転々とした。

「きれいな海に赤ちゃんの死体が浮かんでいました」。シゲは「どうせ死ぬ。私はここで一人死ぬ」と言い張った。「母に『ヤナワラバーヒャー(悪い子だね)、生きるも死ぬも親子4人は一緒だ』と一喝されました。母のおかげで、崖をよじ登って生き延びることができました」。