移住地に届いた手紙
「池田先生からパラグアイに届く激励は『ひっきりなし』だったという印象が心に残っています」(ケンジ・ヤマモト)。ケンジの母の春子は、日本で行われた研修で池田と懇談する機会があった。「堂々と生きなさい。愉快に生きなさい」。帰ってきた母は、池田から聞いたこの一言を子どもたちに言い聞かせた。
1969年(昭和44年)、パラグアイの代表十数人が日本を訪れた時には、池田は南米の同志のために木を植え、「たくさん福運を積むんだよ。パラグアイの皆さんに福運をあげたいんだ」と声をかけながら、全員と握手を交わした。そうした出会いが文字通り「一期一会」だったメンバーも多い。さらに、池田と一度も会わずに生涯を終えた先駆者たちは、もっと多い。パラグアイに戻った人々は一期一会の出会いを座談会で話し、共有していった。
パラグアイ初代支部長の宮城勘七は、移住前、香川の木田郡で大工をしていた。息子の勝は、父が信心を始めたきっかけは戦争だったと語る。
「私のおじさん───母の妹の夫が赤紙一枚で徴兵され、足を不自由にして帰ってきました。幸せになりたい一心で、家族でいくつかの宗教を遍歴して、最後に出会ったのが創価学会でした」。
宮城は妻のヨシコと子どもを連れてチャペスに移住した。弘教が実るたびに自分で木を切って仏壇をつくり、新入会者に譲った。
「木だけは家の周りにたくさんありましたから」と勝は笑う。
まだ子どもだった勝は、父の勘七が数枚の便箋を手に、自宅の座談会で熱心に話していた光景を覚えている。その便箋は、東京から届いた手紙で、差出人は池田大作だった。
「父は集まった人たちに『遠い遠いこのパラグアイまで、池田会長から直筆の手紙が届いた』『これが先生の字だよ』と言って座談会で読みあげ、皆で回し読みしました」。
カオル・クリタの両親は、この宮城勘七の紹介で学会に入った。元陸軍将校が、元大工の言葉に心を動かされたのである。
クリタは「じつは私自身は、何年も両親に反発していたんです」と振り返る。苦学の末に夜学を卒業し、アスンシオンで雑貨屋を始めたが、人にだまされ、一万㌦の借金を背負わされた。行き詰まり、SGIの座談会にしぶしぶ参加したのは22歳の時だった。その座談会で、国際機関の職員としてアスンシオンに赴任していた榎本善剛の人柄に触れ、信心を始める。ふだんは口数の少なかった父の実は「SGIには素晴らしい青年が大勢いる。お前もその中に飛び込め」と励ました。
クリタはその後、貿易会社に採用され、3年かけて借金を完済した。15年後、37歳でパラグアイ理事長に抜擢される。