五月広場の母たち ②
白いスカーフの女性たちは毎週木曜日の午後、五月広場に集まった。立ち止まれば「集会」とみなされて逮捕される。「行方不明」になった息子の写真を自らの首に提げ、「失踪」した日付のプラカードや抗議の横断幕を掲げ、歩き続けた。エスキベルはこの「五月広場の母たち」とともに、行進の先頭に立った。
「行方不明者」の家族たちは警察に「調べてほしい」と訴えても無視された。政党も労働組合も動けなかった。老若男女を問わず、多くの人々がエスキベルの率いる人権団体「平和と正義のための奉仕」の事務所に殺到した。
池田は怒りを込めて記している。
「私も、この広場を車中から見た(1993年2月)。痛ましかった。軍政下、権力者は彼女たちを”狂った女ども”と、あざ笑った。どちらが狂っていたのか。そして日本のある経済関係者は『軍政のほうが治安がよくなり、軽罪も上向いて、日本は債務を返してもらえる』と放言したという。どこまで『人間』から遠ざかれば気がつくのだろうか」(同全集一二三巻)。
創価学会婦人部は「五月広場の母たち」の闘いを「平和の文化と女性展」で取り上げ続けている。(本年6月までに全国57会場で開催され、113万人が来場している)。
アルゼンチンの国立コマウエ大学が、東洋人として初めて池田に名誉博士号を授与した時のことである。(1999年10月)。会場の最前列に、頭を白いスカーフで覆った3人の女性が座った。「五月広場の母たち」だった。大学側が招待した。
コマウエ大学には「命の森」と名づけられた広場がある。延々と続く記念碑に、「行方不明」にされた学生や教員の名前と命日が刻まれている。命日は推測によるものも多いという。裁判もなく、処刑した事実そのものが隠されたからだ。「民衆のための大学」を標榜するコマウエ大学は、池田への授与式に「五月広場の母たち」を招き、池田を人権の闘士として遇したのである。
彼女たちは池田の謝辞を聞き、口々に語った。
「私たちの存在が日本という遠い国からも深く温かく理解され、守られていると実感しました」「一言一言に慰められ、勇気づけられました。息子たちが生きて戻ったような蘇生の息吹を感じました」。