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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   平和主義者の孤独 ②


 アリアスの祝辞は、池田の思想と強く共鳴する内容だった。

 ──二十世紀は「かつてない野蛮を生み出した世紀」になってしまった。なぜ大学は、人間の精神を衰えさせてしまったのか。アリアスは「教育が十分ではなかったからだ」と訴える。私たちの世界は「平和」という「必須の講座」を忘れたのだ、と。

 「一つの命の価値を理解しない学者を育てても意味がない。戦争を正当化する教授を育てても意味がない。『戦争の死傷者のほとんどは何の罪もない民間人である』という事実を、知らないままでいるべきではない」

 アリアスは、池田が創立した大学を卒業したあなたたちには、断じてそうなってほしくないと語った。

 「平和のための教育を実施している、類いまれな大学を卒業される皆さんは、『非現実的だ』『純粋すぎる』などと周りから見なされるでしょう」

 「私は先ほど、創価大学は人類の天空に輝く星であると申し上げました。つまり、ここを巣立った時、皆さんは時には、光から闇へと向かうこともあるということです。学生仲間との輝く親交から、今でも戦争を評価する世界で平和推進者の孤独へと進まれるでありましょう」

 「しかし恐れる理由は全くありません。決して怯まずに、挫けずに、断じて成し遂げてください。今この時に感じている決意を、これからの人生の中で日々、思い起こし、必要な強さをそこからまた引き出して、前に進んでいかれることを私は熱望します」

 池田はアリアスの政治哲学に自分の半生を重ね合わせ、こう述べている。

「私が中国、ソ連との友好のために動き始めた時も、そうであった。道が開けた後は、何とでも言える。要は、逆風の中で、だれが『第一歩』を踏み出すかだ。(アリアス)大統領を支えたのも『貧しい庶民の信頼を、絶対に裏切ってはならない』という思いであった」(『池田大作全集』第一二三巻)。


 中南米で池田は、もう一人のノーベル平和賞受賞者と交流を深め、対談集を出版した。

 その半生を人権闘争に捧げたアルゼンチンの不屈の闘士、アドルフォ・ペレス・エスキベルである。


 先駆者たち──中南米篇(4)連載終了

     平和推進者の孤独 ①


 「私は武器のない国から来ました」。今年(2014年)の3月19日、73歳のアリアスは東京の創価学園を訪れた。自らの大統領時代を振り返り、「『アメリカとソ連が兵器を提供し、中米が死人を提供する』と言われる中、なんとかみんなで勇気を出して、アメリカとソ連を孤立させることができました。最も心強い協力国が日本でした」と語った。

 学園生からの質問は多岐にわたった。「対話で一番大切なことは?」という問いには「違いを乗り越える意志です。暴力を使わないための方法を、なんとしても探し出す意思です」と答えた。

 「私は芸術で平和に貢献したい。何を実現することが世界平和につながるのか」という質問にはこう答えた。

 「幸運にも皆さんは、創立者が理想として掲げる『平和のための闘争』を学んでおられます。日本には世界に誇る平和憲法があります。いたずらに違う国の真似をしては絶対にいけません。私の経験に照らして、皆さんが学んでいる平和の価値観こそ守るべき宝です」。そして池田の平和思想に触れながら、「皆さんの価値観に誇りを持ってください」と語った。

 アリアスは学園の蛍雪図書館も見学し、池田との三度にわたる会見映像を観て、懐かしそうに顔をほころばせた。そしてインターネット上の交流サイト「フェイスブック」に、池田と会見した写真や箏曲部の演奏の動画を載せ、4万6000人を超える読者に向けて「創立者池田大作氏とは長きにわたる友情を通して、共に平和の道を歩んでまいりました」と記した。

 翌3月20日、アリアスは創価大学・創価女子短期大学の卒業式に出席した。

 「・・・・・友情が、東京のノリ養殖の地で育った一人の青年と、コスタリカのコーヒー農園で育ったもう一人の青年を結びつけてくれました」。

アリアスは卒業生への祝辞を池田との出会いから切り出した。そして5000人の参加者を前に「平和を進める者の孤独」を語った。その内容は「聖教新聞」で大きく報道された。

 兵士の数だけ教師をつくった ②


 首都サンホセで開かれた「核の脅威」展は、騒々しい子どもたちの笑い声とともに始まった。

「ちょっとしたハプニングでした。会場になった『科学文化センター』のすぐとなりが『子ども博物館』という建物なんです。子どもたちが友だちを呼んだり、大声で走り回ったりで、うるさいほどでした」(キイチ・アユカワ)。困ったなと顔をしかめる人もいた。

 池田はスピーチの冒頭、「未来からの使者である少年、少女の皆さん」と呼びかけた。そして「にぎやかな、活気に満ちた、この声こそ、姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ原爆を抑える力があります。希望があります」と切り出した。用意してきた原稿にはない、機転の一言だった。

 この開幕式にはコスタリカ最大の日刊紙「ラ・ナシオン」の論説委員長フーリオ・ロドリゲスも出席していた。

「何よりも深い感銘を受けた。あの一言に池田会長の知性とセンスと人間性が、あますところなく表れている」と語っている。


 池田の振る舞いは宿泊先でも話題になっていた。当時、池田が滞在したホテルの社長だった朝田夏雄は「ものすごく気を遣われる方でした」と振り返る。「毎朝毎晩、池田先生はホテルの清掃スタッフに至るまで声をかけてくださるので、スタッフたちも『あんな人はこれまで見たことがない』と驚いていました」。

 ホテルでSGIの交歓会が行われた時、朝田はスタッフの一人として会場の隅に控えていた。

「先生はわざわざ私のところまで歩いてこられて『どうぞこちらへ』と真ん中に席を用意されたのです。たまたま日本からきていた私の両親にまで丁寧にあいさつしてくださり、本当に恐縮しました。私たち家族は学会員ではありませんが、父は日本に帰った後『私は池田会長の友人なんだ』と胸を張って知り合いに話していたそうです」。

 SGIメンバーと記念のカメラに納まった際、池田はその場にいたホテルの従業員にも「よかったら一緒に」と声をかけている。できあがった写真はすぐ全員に配った。

 その写真に、コスタリカ初代地区婦人部長の前田美和子も写っている。池田の妻の香峰子から「前田さんですね。会いたかったです」と声をかけられ、驚いたという。

「10年以上前、先生と奥様のご心労を思い、コスタリカから電報を打ったことがありました。まさか覚えておられるとは思いませんでした」。


 「核の脅威」展でアリアスとフィゲレスは、それぞれ「兵器産業、死の商人は活発に活動し、軍国主義は横行しています」(アリアス)、「武器売買にかかわる者は、まかり間違えば自分の子どもも命を失うという矛盾に、どうして気づかなのでしょうか」(フィゲレス)と訴えた。

 それから10日後の7月8日。国際司法裁判所は「核兵器の使用と威嚇は国際法の原則に一般的に反する」という勧告的意見を発表した。口頭陳述した国は22にのぼる。15カ国の政府が「核兵器の使用は絶対的に違法だ」と主張した。その中にはコスタリカも含まれている。

  兵士の数だけ教師をつくった ①


 「わが国は地理的には小さな国ですが、私どもの掲げる価値は大きなものです」。フィゲレスは池田に切り出した。池田は「貴国こそ二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀を先取りした尊き先進国です」と応じた。

 二人が語り合う傍らには、フィゲレスの母──つまり軍の廃止を宣言した「ドン・ペペ」の妻、カレン・オルセンも座っていた。ノーベル平和賞を受賞したアリアスと並ぶ、中米和平の「もう一人の立役者」である。

 アリアスは大統領に就任した際、すぐさまカレン・オルセンを「中米特命大使」に任命した。カレンは中米諸国のファースト・レディーをコスタリカに招き、対話を重ね、平和を訴えた。自国に帰ったファースト・レディたちは国家元首である夫と中米和平について語り合った。こうした女性たちの連帯もまた、停戦を促す力となった。

 フィゲレスとの会見で池田は、フィゲレスの父であり、カレンの夫である「ドン・ペペ」の言葉を紹介した。

 「私は、民衆を愛することを、書物を通して学んだのではありません。すでに何年も前、生き生きした自分の体験から多くを学んだのです・・・・・」

 通訳が始まると、カレンは小声で何かつぶやき始めた。池田の言葉に合わせて、亡き夫の言葉をそらんじていた。

 「たとえば、牛車が倒れたとしても、コスタリカの農民は、決して泣き崩れたりしません。コスタリカの農民は、牛車を立て直します。彼らは『知恵にまさる知恵』をもっているのです。『言葉に先立つ賢明な行動』で、前進を開始するのです・・・・・」

 なつかしい夫の言葉を口にしながら、カレンは涙を流していた。会見に同席していた現会長の原田稔は、「これまで多くの指導者との会見に同席してきたが、あれほど胸に迫る場面はありませんでした」と語る。


 常備軍を廃止した「ドン・ペペ」は「頭がおかしくなったのではないか」と罵られた。コスタリカは「ドン・ペペ」の敷いた政策に沿って軍事費を教育費に変えた。「兵士の数だけ教師をつくった」といわれる。妻のカレンは国連大使、イスラエル大使などを歴任し、夫の理想を支えてきた。池田は会見でそうした経緯にも触れた。フィゲレスは池田に「ここまで私どもの歴史を学んでおあれる、その振る舞いそのものが人間主義です」と感謝を伝えた。

 そのひと月後、池田はコスタリカを初訪問した。海外訪問の54カ国目である。ファン・サンタマリア国際空港で池田を真っ先に出迎えたのは、胸に創価大学のバッジをつけたフィゲレス大統領自身だった。池田は4日間コスタリカに滞在したが、フィゲレスが池田と会わない日はなかった。