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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  二人の大統領と結んだ友情 ②


 1994年(平成6年)9月、東京都内のホテル──オスカル・アリアスは池田と初めて会談した。強い口調で伝えた。「SGIは『核の脅威』展を世界各国に巡回されています。しかしラテンアメリカではまだ開催されておりません。非武装中立を宣言した、わが国コスタリカでの開催を強く念願します」。池田は「大賛成です」と即答した。


 コスタリカは「中米の奇跡」と言われる。なにしろ「常備軍を廃止した国」である。歴史に残るアリアスの外交戦も、「軍を持たない国家」という土台の上に切り開かれた。

 冷戦時代、アメリカとソ連は互いの勢力争いを繰り広げた。「ベトナム戦争」も、チェコの「プラハの春」も、冷戦下、「他国を守る」という大義名分で引き起こされた惨劇だった。中米は「アメリカの裏庭」と呼ばれ、チリの軍事クーデターやダレナダ侵攻がよく知られる。アリアスが大統領になったのは、ニカラグア侵攻の渦中である。

 1980年代、コスタリカの隣国ニカラグアが内戦に陥った。アメリカはニカラグア政府と戦わせるために「コントラ」(=反政府のゲリラ集団)を支援した。メキシコ、パナマ、ベネズエラ、コロンビアが和平調停を試みたが、実を結ぶことはなかった。1986年(昭和61年)、コスタリカ大統領に就任したアリアスは、軍事干渉を繰り返すアメリカに異議を唱え、女性と学生の大きな支持を集めた。


 オランダ・ハーグの「国際司法裁判所」もこの年、アメリカの主張を退け、侵略の即時停止と賠償金120億ドルの支払いを命じている。

 アリアスは「アリアス・プラン」と呼ばれる外交策を掲げ、文字通り世界中を奔走した。受け入れたニカラグア難民の数は25万人にのぼる。交渉に次ぐ交渉の末、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルの大統領と合意。アメリカの圧力に屈せず、とうとう和平にこぎつけたのである。翌1987年(昭和62年)、ラテンアメリカの国家元首として初めてノーベル平和賞を受賞した。

 この停戦を記念して、ニカラグアの街の一角に大きな石の銘板がつくられた。そこには「中米とニカラグアの平和のため、休みなき戦いを貫いたオスカル・アリアスサンチェス博士へ。ニカラグア政府並びに国民より捧ぐ」とアリアスへの感謝が刻まれている。


 もう一人の大統領フィゲレスとは、池田がコスタリカを訪問するひと月前、東京の創価大学で会った(1996年5月)。フィゲレスの父もまた大統領だった。1948年(昭和23年)に「軍の廃止」を宣言した。ホセ・フィゲレス・フェレールである。「コスタリカの近代民主主義の父」であり、「ドン・ぺぺ」の愛称で国民に親しまれた。

  二人の大統領と結んだ友情 ①


 ドミニカから南西に2000㌔ほど進むと、四国と九州を合わせたほどの大きさの国がある。コスタリカ共和国である。コスタリカSGI理事長を務めるキイチ・アユカワと妻のエミコは、かつてドミニカ移民として苦労していた時代にクラト・キムラから仏法の話を聞き、その後、コスタリカに渡った。


 キイチ・アユカワは1941年(昭和16年)、千葉の君津で生まれた。敗戦を告げる玉音放送を、祖父に抱かれながら聞いた記憶がある。

 17歳の時、家族でドミニカのアグアネグラという町に入植した。

「石ころだらけで、耕地と呼べる土地ではありませんでした。周囲のバナナ園では囚人が働かされていました」。入植地で農業を続けるのは難しく、5年後に首都のサントドミンゴに出て、野菜の栽培や養鶏で生計を立てた。

 しかし1965年から始まった内戦で、電気も水道も使えなくなった。

「野菜も養鶏もダメになりました。キムラさんから仏法の話を聞いたのはそのころです。妻の家族が先に始めました。私もキムラさんから小説『人間革命』をはじめ先生の本を借りて、片っ端から読みました」。 キイチは日本企業のスペイン語通訳や大使館の現地補助員として働いた。その関係で仕事を紹介され、1974年(昭和49年)、コスタリカの首都サンホセに移り住む。

 エミコ・アユカワは前田美和子とともに弘教に歩いた。美和子の夫勲は教員としてサンホセに赴任していた。前田夫妻はコスタリカの初代地区部長、地区婦人部長を務めている。「片言のスペイン語でがんばりました」と前田美和子は振り返る。「私たちがコスタリカに来た1980年代には、SGIメンバーはまだ数人でした。台湾やニューヨークで入会した方もいました」。


 小さな国の、小さな組織である。しかし彼らの連帯は十数年後、ラテンアメリカ初の「核の脅威」展(『核兵器─人類への脅威」展)をコスタリカで開くまでに広がっていく(1996年6月)。ニューヨークの国連本部(1982年)から始まった、創価学会の平和運動を代表する展示である。

 しかもコスタリカでの除幕式にはフィゲレス大統領、ノーベル平和賞受賞者であるアリアス元大統領が列席し、一国をあげての催しとなった。

 直接のきっかけは、この二人の大統領と池田の出会いにさかのぼる。

   本当の勲章 ③


 もう一つ、吉田たちに強烈な印象を残した場面があった。

 この日、バラゲール大統領との会見後、池田はドミニカ共和国最高の勲章である「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章した。宿舎に戻った池田は、ロビーで出迎えたクラト・キムラたちに声をかけた。「お受けしてきたよ! 皆さんのために戴いてきたよ!」。その場に集まった人たちは勲章など見たことがなかった。「本当はこれ(勲章)を、紐のところから細かく分けて、メダルも細かく分けて、一人ひとりにあげたいんだ。皆さんは本当に苦労してきた。だから勲章をあげたいんだ」。

 ドミニカ人メンバーのために、吉田は賢明に通訳した。「皆さんが幸せになることが大事なんだよ。勲章を戴いたら、皆さんがこの国で学会活動しやすくなる。だから戴くんだよ。学会員が幸せになることが私の勲章だ」。

 

 後年、池田はキムラ夫妻に「三世まで 夫婦のことは 忘れまじ 仏になりて 


ドミニカ守れや」という一首を詠んでいる。

 一連の行事を終えた後、タカシ・ニシオは池田に手紙を届けた。ドミニカ訪問の感謝を綴った。まもなくタカシのもとに「はるばると 命あふれる 手紙をば 見つめうれしや ドミニカ健児の」という池田の和歌が届いた。その脇には「兄弟家族の君に ドミニカの友を くれぐれもよろしく」と添え書きされていた。


 クラト・キムラは日本人移住者たちから推され、日系人協会の会長を務めた。2000年(平成12年)、移民たちは沈黙を破り、ついに国家賠償訴訟に踏み切る。原告団長はキムラだった。決起大会で「自分の不始末を他人に推しつけ、過去の失敗をごまかそうとする」国家の理不尽を糾弾し、「話し合いで納得できるような解決はもはや不可能と、今回、断腸の思いで訴訟に踏み切ったのであります」と語った。

 一審は「時効」を理由に棄却され、控訴も断念せざるをえなくなったが、かわりに総理大臣の謝罪と生活支援の協力を引き出した。「朝日新聞」の取材にキムラは答えている。

「日本政府には約束を果たしてもらいたい。土地の問題は残っている。その条件で私たちは移住してきたのだから」(2014年4月1日付デジタル版)。