EIKOの気まぐれ闘病日記 -167ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 東京の創価婦会館(現・信濃文化会館)に、池田香峰子がかき氷の差し入れをもって来たことがある。

 1978年(昭和53年)6月10日。「その日は婦人会館の開館を記念して、関西婦人部が勤行会を開いていました」(浜田幸美、大阪・布施大蓮圏副婦人部長)。

 その場で香峰子は語った。「我が家ではあの日以来、7月17日には毎年、かき氷を食しているんですよ」。

 ”あの日”──中澤喜代子(豊中牧口圏副婦人部長)にも、似たような出会いがある。

「池田先生が会長を辞任された昭和54年の、7月16日です」。

 池田の名代として関西の会合に出席した香峰子と、婦人部の代表が懇談の機会をもった。「皆で一緒に」と中澤たちが用意した宇治金時を見て、香峰子は微笑んだ。

「かき氷は、主人が出獄した7月17日、関西本部で戸田先生がご馳走してくださったのです」。「静かに話されたあの姿を、生涯忘れることはできません」(中澤)。


 1957年(昭和32年)7月。29歳の池田は、見に覚えのない公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に出頭した。

 なぜ冤罪が謀られたのか。前年夏の参議院選挙の大阪選挙区で、学会推薦の白木義一郎が勝利。

「”まさかが実現”」(「朝日新聞」)、「大番狂わせ」(「読売新聞」)等と大きな注目を集めた。既存のどのような権威、権力にも頼らない民衆勢力の台頭である。

 57年4月、参院の補選で学会推薦の候補が破れ、一部の学会員に選挙違反者が出た。大阪地検は学会の組織的犯行であると決めつけ、すでに実質的な学会の柱となっていた池田を狙い撃ちにした。

「自白しなければ戸田会長に手をかける」と恫喝したのである。

 やってもいない罪を認めるわけにはいかない。だが、すでに衰弱し始めている戸田を、真夏の牢獄に入れさせることなど、絶対にあってはならない・・・・・独房での呻吟の果てに、池田は戸田を守るため一身に責任を負い、真実を法廷で明らかにし、正義を勝ち取る闘いを選んだ。

 「すごい人が座談会に来るから、信心させたい人を呼べるだけ呼ぶのよ」

 鈴子が地区の人たちに言ったのは1953年(昭和28年)。

 担当者として訪れたのは白い開襟シャツ姿の池田だった。10数人の新来者全員が入会した。

「こんな人がいるのか」。かほるは目を見張った。

 鈴子が脊椎カリウスと結核に苦しむなか、方雄が高利貸しに借金をつくり、家を飛び出したこともあった。借金取りが自宅の床に短刀を突き刺した。

 「母はその借金取りにまで仏法を語りました」。

 苦労して借金を返し終えた頃、方雄が戻ってきた。晩年、家族と並んで題目を唱えた。

「貧しくても、いつしか不思議と母が祈った通りの家族になっていました」。


 「山口闘争」が始まったのは、方雄が亡くなって間もなくだった。

「母は『池田先生のお手伝いに行く』と言って、片道分の汽車賃だけを持って向かいました。帰りの汽車賃は、きょうだいの働き頭だった姉の貞子が工面して、下関に送ったんですよ」とかほるは笑う。

 下関、宇部・・・・・池田のリーダーシップのもと、県下を駆けた。400世帯超から4000世帯超へ、3ヶ月で約10倍の拡大を成し遂げた。学会の歴史に残る山口闘争。その一角を堂々と担った。

 66年の生涯を終えるまで、鈴子が弘教した数は「200世帯を超えた」とも「数えきれない」とも言われる。

「他人の幸せのために、どこまでも行く母でした。永遠の目標です。今も北海道や山口から『鈴子さんのおかげで今のわが家がある』と手紙が来ます。学会には母のような方がたくさんおられます」。


 池田は鈴子の健気な生涯を偲んで、『忘れ得ぬ同志』(聖教新聞社)に綴っている。

「折伏によって立ち、折伏に走り、折伏行に生死をともにしたこの母・・・・・・私は、鈴子さんを『母の曲』で包みながら、永遠の学会婦人の象徴としてたたえたいのである」。


 これまで池田は、自らの宿命と闘いながら人々を大きな慈愛で包む、幾多の女性たちを心から讃えてきた。その思いの凝縮した詩がある。

 1971年(昭和46年)10月4日、新大阪駅近くの東淀川体育館。関西婦人部幹部会の席上、一篇の詩が朗読された。


「母よ!/おお 母よ/あなたは/あなたは なんと不思議な力を/なんと豊富な力を もっているのか」

「母という慈愛には/言語の桎梏もない/民族の氷壁もない/イデオロギーの相克もない/爽やかな畦道にも似ていようか/人間のただ一つの共通の感情/──それは母のもつ愛だけなのだ」


 現在歌われている「母」の歌の原型となった、池田の長編詩「母」である。その壇上には、東京から駆けつけた池田の妻、香峰子の姿があった。

 担当幹部だった山崎尚見(最高指導会議員)。「大阪への行き帰りに同行しました。『心に刻まれる母の詩ですね』『発表できてよかったですね』と笑顔で何度もおっしゃいました」。

 朗読した平塚貞子(総神奈川婦人部主事)。

「奥様がお持ちになった最終の原稿にまで、先生からの直しが幾つも書き込まれていました」。

 池田は強調する。「母よ/そして母よ!/あなたのその慈しむ愛の力を/断じて孤立させてはならない」。

 創価学会の歴史は、母を励まし、母に力を与え、母を鼓舞し続けた歴史でもある。その一端を辿りたい。


 

 今日は天皇誕生日でしたが、私の母の誕生日でもありました音譜


 アルバイトに行っていた息子が、帰りにケーキを買ってきてくれましたドキドキ


 皆にケーキを買ってきてくれるなんて、初めてだったので嬉しかったでスラブラブ


 皆で美味しくいただきましたニコニコ


 明日は、クリスマスイブですね音譜


 皆さん、良いクリスマスイブをお過ごしくださいねドキドキ



 「家は平屋で、国鉄の小岩駅近く。最初に学会に入ったのは長兄の哲夫でした」(原島かほる)

 哲夫は17歳で敗戦を迎えた。特攻隊の生き残りだった。「復員して、明治大学の学生時代、ずいぶん荒れた生活を送り、結核で亡くなる直前、信心に巡りあったのです」。

 哲夫は母の鈴子に「この御本尊を守りぬいてくれ」「永遠の生命を説き明かした仏法だから」と言い残して逝った。

 小岩支部の初代支部長を務めた泉覚は、通夜の席で「御書(日蓮の遺文集)の通りの、見事な成仏の相だ」と感嘆している。その日、鈴子は亡き息子の遺志を継いだ。

 1948年(昭和23年)6月。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」が大ヒットし、美空ひばりがデビューした頃だった。

 鈴子の夫・方雄は戦中、近衛師団に所属し、憲兵を務めた。獄死した創価学会初代会長の牧口常三郎も、共に入獄した第二代会長の戸田城聖も知っていた。

「不敬罪の輩が始めた信心などできるか」。強烈に反対し、しばしば鈴子を殴った。「母は『軍国主義の化石になった主人に、必ず題目を唱えさせてみせる』と言っていました。


 二男二女を育てながら、鈴子は九州へも弘教へ赴いた。青函連絡線の3等室で揺られ、北海道の旭川にも行った。自宅は小岩支部の座談会会場として賑わった。

「山谷のドヤ街から通う男子部員もいました。高校生の私は、よく玄関で皆の履物を揃えました」。娘のかほるは「まともな靴が本当に少なかった」と振り返る。「左右の違う下駄や草履が余って困りました」

 ある日、鈴子は夢を見た。長男の哲夫が現れ「ぼくは生まれ変わるからね」と笑った。ちょうどその日、戸田城聖を囲む会合があった。

 あの子の生命は、新しく生まれたのだろうか──。 「その日、戸田先生に質問したやりとりを、母はくり返し語ってくれました」(かほる)

 「息子に会えるでしょうか」。すがるように鈴子は尋ねた。

 「鈴さん」。度の強い眼鏡をかけた戸田は、にっこり微笑みながら語った。

 「この戸田には、会えるとも、会えないとも言えない。それは、己の信心で感得するものだよ」。

 戸田は別の質問会でも、自身の体験を通して語っている。

「私は、年23で『ヤスヨ』という子供をなくしました。女の子であります」。3歳で逝った娘を一晩中、抱いて寝たこと。その時はまだ信心をしていなかったこと・・・・・・。

「今世で会ったといえるか、いえないか・・・・・・。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております」(『戸田城聖全集』第二巻)

 鈴子は終世、この戸田の言葉を抱きしめて生きた。「『会える』そう母は確信し、楽しみにしていました。下町の青年部を、わが子と同じように面倒を見ました」。

「もしも この世に あなたがいなければ

還るべき大地を失い かれらは永遠に(とわに) 放浪(さすら)う」


世代も国籍も超えて愛される歌がある。

池田の長編詩「母」が発表され

本年10月で40周年を迎えた。

病気、離別、貧困──試練に立ち向かい

一途な祈りを捧げてきた母たちの姿と

無上の敬愛をもって母性を讃え励まし

その労苦に報いようとする詩人の闘いにせまる。


 1986年(昭和61年)10月、東京・新宿文化会館。創価学会の新宿区長だった松岡資(おさむ)は、池田大作から託された一冊の本を、一人の婦人に手渡した。

 『栄光の山口』と題された、山口県創価学会の歴史を綴った写真集である(聖教新聞社山口支局編)。発行日は10月9日。完成したばかりだった。

「なぜ新宿の婦人に贈られるのか、不思議に思いました」。

 表紙を開いた。「10月8日」の日付とともに、池田の直筆で大きく、


  偉大なる


   母に捧ぐ

 

 と記されていた。その言葉を目にした原島かほる(新宿常勝区婦人部主事)は、写真集を手にしたまま「あぁ」と一言発し、ぽろぽろと落涙した。

「大丈夫ですか」と尋ねられ、「私の母は・・・・・」。かろうじて、かほるは答えた。

「母の鈴子はあの時、池田先生が指揮を執った山口での弘教に駆けつけたんです。もう30年も昔です。その母が亡くなってから16年も経っています。まさか、覚えていらっしゃったなんて」。

 その写真集には、1956年(昭和31年)秋から約3ヶ月にわたった。「山口闘争」呼ばれる弘教の日々が記録されていた。鈴子の小さな顔写真も載っていた。