「すごい人が座談会に来るから、信心させたい人を呼べるだけ呼ぶのよ」
鈴子が地区の人たちに言ったのは1953年(昭和28年)。
担当者として訪れたのは白い開襟シャツ姿の池田だった。10数人の新来者全員が入会した。
「こんな人がいるのか」。かほるは目を見張った。
鈴子が脊椎カリウスと結核に苦しむなか、方雄が高利貸しに借金をつくり、家を飛び出したこともあった。借金取りが自宅の床に短刀を突き刺した。
「母はその借金取りにまで仏法を語りました」。
苦労して借金を返し終えた頃、方雄が戻ってきた。晩年、家族と並んで題目を唱えた。
「貧しくても、いつしか不思議と母が祈った通りの家族になっていました」。
「山口闘争」が始まったのは、方雄が亡くなって間もなくだった。
「母は『池田先生のお手伝いに行く』と言って、片道分の汽車賃だけを持って向かいました。帰りの汽車賃は、きょうだいの働き頭だった姉の貞子が工面して、下関に送ったんですよ」とかほるは笑う。
下関、宇部・・・・・池田のリーダーシップのもと、県下を駆けた。400世帯超から4000世帯超へ、3ヶ月で約10倍の拡大を成し遂げた。学会の歴史に残る山口闘争。その一角を堂々と担った。
66年の生涯を終えるまで、鈴子が弘教した数は「200世帯を超えた」とも「数えきれない」とも言われる。
「他人の幸せのために、どこまでも行く母でした。永遠の目標です。今も北海道や山口から『鈴子さんのおかげで今のわが家がある』と手紙が来ます。学会には母のような方がたくさんおられます」。
池田は鈴子の健気な生涯を偲んで、『忘れ得ぬ同志』(聖教新聞社)に綴っている。
「折伏によって立ち、折伏に走り、折伏行に生死をともにしたこの母・・・・・・私は、鈴子さんを『母の曲』で包みながら、永遠の学会婦人の象徴としてたたえたいのである」。
これまで池田は、自らの宿命と闘いながら人々を大きな慈愛で包む、幾多の女性たちを心から讃えてきた。その思いの凝縮した詩がある。
1971年(昭和46年)10月4日、新大阪駅近くの東淀川体育館。関西婦人部幹部会の席上、一篇の詩が朗読された。
「母よ!/おお 母よ/あなたは/あなたは なんと不思議な力を/なんと豊富な力を もっているのか」
「母という慈愛には/言語の桎梏もない/民族の氷壁もない/イデオロギーの相克もない/爽やかな畦道にも似ていようか/人間のただ一つの共通の感情/──それは母のもつ愛だけなのだ」
現在歌われている「母」の歌の原型となった、池田の長編詩「母」である。その壇上には、東京から駆けつけた池田の妻、香峰子の姿があった。
担当幹部だった山崎尚見(最高指導会議員)。「大阪への行き帰りに同行しました。『心に刻まれる母の詩ですね』『発表できてよかったですね』と笑顔で何度もおっしゃいました」。
朗読した平塚貞子(総神奈川婦人部主事)。
「奥様がお持ちになった最終の原稿にまで、先生からの直しが幾つも書き込まれていました」。
池田は強調する。「母よ/そして母よ!/あなたのその慈しむ愛の力を/断じて孤立させてはならない」。
創価学会の歴史は、母を励まし、母に力を与え、母を鼓舞し続けた歴史でもある。その一端を辿りたい。