「家は平屋で、国鉄の小岩駅近く。最初に学会に入ったのは長兄の哲夫でした」(原島かほる)
哲夫は17歳で敗戦を迎えた。特攻隊の生き残りだった。「復員して、明治大学の学生時代、ずいぶん荒れた生活を送り、結核で亡くなる直前、信心に巡りあったのです」。
哲夫は母の鈴子に「この御本尊を守りぬいてくれ」「永遠の生命を説き明かした仏法だから」と言い残して逝った。
小岩支部の初代支部長を務めた泉覚は、通夜の席で「御書(日蓮の遺文集)の通りの、見事な成仏の相だ」と感嘆している。その日、鈴子は亡き息子の遺志を継いだ。
1948年(昭和23年)6月。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」が大ヒットし、美空ひばりがデビューした頃だった。
鈴子の夫・方雄は戦中、近衛師団に所属し、憲兵を務めた。獄死した創価学会初代会長の牧口常三郎も、共に入獄した第二代会長の戸田城聖も知っていた。
「不敬罪の輩が始めた信心などできるか」。強烈に反対し、しばしば鈴子を殴った。「母は『軍国主義の化石になった主人に、必ず題目を唱えさせてみせる』と言っていました。
二男二女を育てながら、鈴子は九州へも弘教へ赴いた。青函連絡線の3等室で揺られ、北海道の旭川にも行った。自宅は小岩支部の座談会会場として賑わった。
「山谷のドヤ街から通う男子部員もいました。高校生の私は、よく玄関で皆の履物を揃えました」。娘のかほるは「まともな靴が本当に少なかった」と振り返る。「左右の違う下駄や草履が余って困りました」
ある日、鈴子は夢を見た。長男の哲夫が現れ「ぼくは生まれ変わるからね」と笑った。ちょうどその日、戸田城聖を囲む会合があった。
あの子の生命は、新しく生まれたのだろうか──。 「その日、戸田先生に質問したやりとりを、母はくり返し語ってくれました」(かほる)
「息子に会えるでしょうか」。すがるように鈴子は尋ねた。
「鈴さん」。度の強い眼鏡をかけた戸田は、にっこり微笑みながら語った。
「この戸田には、会えるとも、会えないとも言えない。それは、己の信心で感得するものだよ」。
戸田は別の質問会でも、自身の体験を通して語っている。
「私は、年23で『ヤスヨ』という子供をなくしました。女の子であります」。3歳で逝った娘を一晩中、抱いて寝たこと。その時はまだ信心をしていなかったこと・・・・・・。
「今世で会ったといえるか、いえないか・・・・・・。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております」(『戸田城聖全集』第二巻)
鈴子は終世、この戸田の言葉を抱きしめて生きた。「『会える』そう母は確信し、楽しみにしていました。下町の青年部を、わが子と同じように面倒を見ました」。