EIKOの気まぐれ闘病日記 -166ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 松浪利子(大田池田区婦人部主事)。家族の反対のなか、信心に励んでいた。

「白木のおばさんからもらったハガキを、今も大切に保管しています」

 7円の郵便ハガキ。

「御本尊様の功徳は数限りない御座いませんのでしかりとにぎりしめてください」

「一つ一つ願ひをかなえていただけることを信じ、あせらず休まず学会の婦人らしく清らかに・・・・必ず御主人も判る時が来ます」細かな文字がつまっていた。

 あるとき、入会間もない婦人部員が白木宅の座談会に出席した。帰りに静子が蒲田駅までまで見送った。踏み切りを目にしたその婦人部員は、かつて人間関係に悩み、あまりの辛さに自殺しようとした時のことを口にしていた。

「踏み切りに飛び込もうと、何度思ったかしれません・・・・・・」。

 じっくりと耳を傾けた静子。

「ああ、もういいの、もういいの、そんな思いは。この信心を持てば、絶対にそんなことをしなくてもいいの」。力強く優しい声だったという。

「大坂南部の富田林にも通ってくださいました」(奥出三代子、南大坂総県婦人部総合長)。

 1957年(昭和32年)の春、静子は1ヶ月ほど大坂支部の近鉄沿線を担当した。1日中、個人指導に歩き回り、夕方には男女青年部が「白木のおばさんいる?」と訪ねてきて、指導を求めた。


 富田林の女子部だった益田ミチ子(婦人部副本部長)。先天性の股関節脱臼で左足に障害があった。

「よく個人指導にご一緒にしました。私の家族が猛烈に信心反対で、と相談したら『みっちゃんのお家に行こう』と」。

 益田の母は「うちの娘、よう説明せえへんもんやから、何やってるかわからへん」と文句を言った。

「学会活動の意義をこんこんと語ってくださり、母も理解してくれました」。

 また「『うちにも娘がいるのよ』とおっしゃるので、思わず『娘さんのご主人、信心してはるんですか』と尋ねたこともありました」。

 静子は「元気にやっております」とにっこり微笑んだ。

「池田先生の奥様のお母さんやなんて、全然知らんかったんです。今思い出しても、顔から火が出ますわ」。益田は苦笑いする。


「絶対に無理だと言われた子どもを授かり、孫が3人います」。

 役所勤めを終え、3度目の挑戦で税理士資格をとり、五十七歳で開業。その間も、静子からの励ましは続いた。

「なんにもいらん、家庭で信心できたらいい、そう願ってきました。今は子らの一家和楽を祈っています」(益田)


 おそらく今日が今年最後のブログの更新になると思います。


いつも私のブログを読んでくださり、ありがとうございました<m(__)m>


ペタ、コメントありがとうございました <m(__)m>


皆様、どうぞよいお年をお迎えください!


 来年が良い年でありますように!

 おさげ髪の小学生だった香峰子は、「ずいぶんとお年を召していらっしゃる方だなあ」と思った。目蒲線(当時)の矢口の渡駅。羽織袴の牧口常三郎は「よく来た、よく来た」と少女の頭をなでた。南を向くと多摩川の土手まで見渡せたというまばらな家並みを、香峰子は牧口の手をひき、座談会会場の自宅まで案内した。

 母の静子が寄り添っていた。

「白木のおばさんはよく言っておられました」。81歳の平田由美子(東京・大田区。婦人部副本部長)が語る。

「『牧口先生を駅まで迎えに行く時も、私が行きなさい、とか、やりなさい、とか言ったことはないの、うれしそうに自分から迎えに行ったのよ』と」。

 少女時代の香峰子の眼に、自宅での座談会の光景が焼きついた。

「(牧口先生は)座談会に出られると一変されて、背筋をピンののばされ、音声朗々、本当に威厳がございました」

「いつの間にか特高警察が3人来て、庭に面した廊下にいて監視しているのです。牧口先生の話の途中で、『そこまで! 止め!』と声が飛ぶ。今思うと、戦争遂行のための思想統一に神札を強制するのは間違いだ、と言い切っておられた箇所ですね」(1998年3月4日付け「聖教新聞」)

 座談会が終わり、香峰子は特高警察が怖かったと母に告げた。その時、静子は「牧口先生が毅然としておられるので、少しも怖くなかった」と語っている。

 殉教の道を歩んだ牧口との出会いが、香峰子にとって信仰の原風景になった。


「『信心したおかげでこの足が治ったよ』と笑って話す白木のおばさんと、よく折伏に歩きました」。

 91歳の町田セイ(蒲田常勝区婦人部主事)。

「あの頃はお金もなくて、電車の一駅、二駅くらい歩くのは普通でした」。

 静子は1932年(昭和7年)、香峰子を産んだ。産後、静脈炎で足が腫れて歩けなくなり、長年苦しんだ。隣人に勧められ、1941年(昭和16年)7月12日、白木家はそろって信心を始めた。

 戦争で大半の最高幹部が退転し、牧口は獄死。学会は壊滅した。敗戦後、戸田城聖が再建に立ち上がり、静子は蒲田支部の初代婦人部長として戸田を支えた。

「あれは日曜日の朝でした。大森の知人に仏法対話しようと思い、相談したんです」(町田セイ)

「大森には素晴らしい青年がいるのよ。行っておいで」と静子から紹介され、「青葉荘」というアパートを訪ねた。白木宅の座談会で見かけたことのある青年が出てきた。池田だった。

「突然のお願いなのに嫌な顔一つせず『いいですよ、行きましょう』とおっしゃり、すぐ一緒に向かいました。相手はまったく耳を貸さない年配の婦人だったのですが、先生は誠実に、丁寧に仏法の意味を話してくださった。今も忘れられません」


 入信前は足が悪く、「一生涯、汽車の旅はできないと思っていた」という静子。活動範囲は埼玉の大宮、千葉の船橋、山梨、静岡の浜松、愛知の名古屋などに広がり、どの地でも「白木のおばさん」と呼ばれ、親しまれた。

「秋田には毎月、夜行列車で12時間かけて通ってくださった。『是非おらほの所にも来てけれ』と頼まれ、男鹿地域にも来られました」。92歳の伊藤哲子は回想する。

「バスは朝夕に1往復ずつしかないという、片田舎で行われた座談会でした。そんな場所まで白木のおばさんは足を運んでくださった」。

 静子の姿を手本に、伊藤は秋田支部の初代婦人部長として、東北の草創期を奔走した。

「池田先生が大阪の東警察署におられると聞いたのです。京都から一目散に飛んでいきました」(徳野京子、総京都婦人部主事)

 母の広谷キヌ、宮下芳郎(初代京都支部長)、親友の斉藤悦子と一緒に、大阪地検の前で一日中、待った。

 池田に差し入れを届けていた矢追久子(後に関西婦人部指導委員)とともに、拘置所の中にも入った。

「そうした様子を詳しく書き、東京に手紙を送りました」。池田の妻、香峰子宛てである。

 この時、香峰子は25歳、長男の博正は4歳、次男の城久は2歳半だった。池田が勾留された7月3日から17日の期間に、香峰子が関西の友へ送った手紙が残っている。

「主人も前々より覚悟の上の事 私も常々、結婚当初より言われて居りました事ですし・・・・心配もせずに居ります・・・・・最後の最後迄、戸田先生の御遺志そえる事のみ願って居ります」(7月12日、大阪市の奥谷チエ宛て)


 徳野への返信には、池田の投獄について、こう綴られている。

「仕組まれたワナと今更分かって見ましても 出来てしまった事 この無実の罪も きっときっと変毒為薬できますものと信じて居ります」

「一日中待って下さって目的を達しなかったり、その待って下さいますお気持ちに 何と御礼申し上げて良いやら言葉もございません・・・・・・主人もそれを知りましたなら、どんなに感激致します事でせう」

 日付は7月9日、入獄から6日後である、手紙はこう続いていた。

「子供たちは、何も知らない年令ですし、主人の留守には慣れて居りますので 至って天下泰平です。私も毎日 戸田先生にお目にかかって居りますので、安心した毎日を過ごして居ります。すべて 御本尊様におまかせ申し上げて居ります」

 25歳とは思えない堂々たる確信と、同志へのこまやかな気遣い満ちた文面である。


 当時、家事をこなし子育てをしながら、一婦人部員として奮闘していた香峰子。

「あれは、大阪事件のあった昭和32年夏です」。

 東京・大田区に住む古川のぶ子(婦人部副本部長)は回想する。

「新蒲田の座談会場に婦人部が集まっていたら、酔った男が会場に上がり込んだのです。近所でお祭りのあった日でした」。

 その酔漢は下駄を投げたり障子を破ったりして、会場の参加者たちは怖がり、逃げ出そうとした。その時、香峰子が皆に呼びかけた。

「泰然として一言、『皆でお題目をあげましょう』とおっしゃり、くるりと振り返って御本尊に向かわれたのです」(古川)。

「その毅然とした態度に従い、皆で朗々と唱題を始めました。男は物を投げられなくなり、間もなく立ち去りました」(中村泰子、神奈川・中区婦人部主事)。

 題目を終えた後、香峰子は「皆さん、ご苦労さまです」と言い、何事もなかったかのように会合を続けた。

「なんと一年の定まった人かと驚きました」(中村)

 今も忘れることはできないと語る古川。

「その勇気ある姿と御本尊の力に感動しました」。


「これまで、どんな状況になっても、母の態度は変わらなかった」。

 長男の博正は振り返る。

「幼い頃に起こった大坂事件も裁判闘争も一切、嫌な思い出が残っていません。父や学会に対する非難中傷は数えきれないが、家庭の中では波風一つ感じたことはなかった。これはひとえに母の力だったと、今にして思います」。

 香峰子について池田は「何より第一の戦友ですから」と語る。「私の真実をいちばん知っているのは妻ですし、妻の誠実とけなげさをいちばんわかっているのは、私だと思っています。妻との結婚は、私の人生にとってかけがえのない幸せでした」(『主婦の友』1990年1月号)。

 本年7月、香峰子は入信70年を迎えた。明年5月は池田との結婚から60年である。夫の入獄にも、微動だにしなかった強さ。その原点を辿ると、一人の母の存在が浮かび上がる。

 太平洋戦争下、思想弾圧の時代に、初代会長の牧口常三郎を自宅に招いて座談会を敢行した、香峰子の母──白木静子である。