「先日、81歳になる一人の老婦人を見舞いにいく機会がありました。そして、その年老いた母親の言葉を、私は感銘深く聞きました」
7月14日、東京・小平市の創価学園。「栄光祭」(夏に行われる伝統の学園祭)に出席した池田は、ある老婦人の人生を学園生に紹介した。
たくさんの子どもを育て、貧乏の連続だったこと。親戚や近所からも子馬鹿にされたこと。しかし、病床で一言、「私は勝った」と口にしたこと・・・・・。
なぜ「勝った」のか。老いた母はこう言った。
「いかなる中傷、批判を受けてもいい。男性として何か社会に貢献するような、そういう息子が欲しかった。そして、自分の息子の中にはそういう人間が出た。だから私はうれしいんだ。お見舞いもうれしいけれど来られなくてもいい。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」
当時、高校3年生で「栄光祭」メーンフェスティバルの責任者だった須田裕。
「あの日、池田先生が話された老婦人が、まさにあの時、危篤状態になられていた先生のお母様だったとは誰も気づきませんでした」。
池田はこの前日と前々日、母の一(いち)のもとを訪れていた。
4日後の18日、民音(民主音楽協会)の職員だった松原眞美と岩渕真理子が池田のもとに呼ばれた。二人とも音楽大学の出身の女子部員だった。
「池田先生は『母の詩に二人で曲をつけてほしい』とおっしゃったのです」(岩渕)。「『婦人部の皆が歌いやすい曲にしてほしい』とも要望されました」(松原)。
具体的な曲調として、池田は自身の青春時代を謳った「森ケ崎海岸」(本田隆美作曲)のメロディーを例に挙げた。そして、歌詞の案とともに『青年の譜』(読売新聞社)を二人に手渡した。「母」の原詩や「生命の尊厳を護る者へ」が収められた池田の詩集である。
「曲にしにくいところは自由に直してかまわない、とまで言われました。二人とも作曲など一度もしたことがありません。なんとかご希望に沿える曲をつくろうと、必死で考え始めました」(岩渕)
終業後、東京・新宿の民音会館(当時)のピアノ室やリハーサル室で、また岩渕の自宅で、二人は連日連夜、池田の詩と格闘した。『青年の譜』を何度も読み返した松原は、ある一節に「目が釘付けになった」と語る。「これはもしかしたら、お母様のことを詩にされたのではないかと感じました」。
母よ
わが母よ
風雪に耐え抜いた可哀想な母
悲しみの合掌を繰り返してきた
いじらしい母
あなたの願いが翼となって
天空に舞くる日まで
いついつまでも達者に と
私は祈らずにはいられない
「我が母」と呼びかける唯一の箇所であり、現在歌われている「母」の、二番の原型になった部分である。「いつまでも達者に、との祈り──この一節を基調に、メロディーをつくりました」(松原)
池田が二人に作曲を頼む2週間ほど前、民音会館で戸田城聖を偲ぶ集いが行われた。(7月2日)。その式典のBGMを、松原と岩渕が担当していた。松原がピアノを、岩渕がマリンバを演奏した。参加者からは見えない位置である。
式典が終わった後、池田は二人を見つけた。「やあ、ここで弾いていたのか。ご苦労様。二次会をしようよ」。即興の演奏会となった。「『戸田先生のお好きだった歌を中心にお願いしたい』と言われました」(松原)。
「花が一夜に」「同志の歌」「人生の並木道」・・・・・予定にない9曲を次々とリクエストされた。二人はなんとか無事に演奏し終えた。
「先生は『戸田先生が心から喜んでくださっていると思います。本当にありがとう』とおっしゃり、深々と頭を下げられました」(岩渕)
代表から池田に花束が贈られた。「先生は『きれいな花だなあ』と言われた後、ぽつりと漏らされたのです」(松原)。
「母親の具合が悪いんだ。これから大田の実家にお見舞いに行くから、この花を母に渡してくるよ」
「その直後の『母』の作曲依頼です。私たちはとにかく『お母様に長生きしていただこう。間に合わせよう』という思い意外ありませんでした」(岩渕)。思考錯誤が続いた。