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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 昨日は息子の成人式でした。


その前日の7日には、小学校卒業時に埋めたタイムカプセルを掘り出す作業のた


め、朝9時に全学年の卒業生が小学校に集まりました。


 無事にタイムカプセルは見つかったようで、そのまま担任だった先生2名を含む全


学年で昼食を食べ、そのままカラオケに突入したようです。


 お酒を飲んだのかと思いきや、早生まれの子はまだ19歳なので、お酒は飲まなか


ったそうです。


 息子曰く、皆変わり過ぎて誰が誰だかわからなかったようですが、皆からは「お前


は全然変わってないからすぐわかった」と言われたようです。


 中々帰ってこないので心配していたら、19時半頃になって歩いて帰ってきました。


生二人も「楽しい、楽しい」と言って最後までいたそうです。


 成人式でも、前日に会えなかった同級生と会えて楽しかったようです。



「私の家は、4人の兄と弟2人、妹1人、それに養子がほかに2人いたので、計12人の大家族であった・・・・・家業のノリ製造業が不振になったときも、戦災で2度も家を焼かれたときも、泣き言一つ言わず黙って子共の世話をし、家事を切りまわしていた」(『池田大作全集』第20巻)

 池田が母の一(いち)について記した文章である。

「10人の子供に平等に愛情を注ぐことのできた立派な女性であったと、今も誇りに思っている」(同)。

「母の姿に、子の私は、どんな苦労も、耐え忍ぶことができるのだという人生の教訓を、学びとることができました」(『少年に語る』ポプラ社)。

 その一が晩年、ことに愛した地が関西だった。大坂・西成に住む小林節子(総大坂婦人部主事)が一と出会ったのは1973年(昭和48年)。

「支部同士の交流があり、西成から東京の大田にうかがったことがきっかけでした。常々、池田先生のつくられた『常勝関西』を見てみたい、と願っておられたようです」。


 西成はまさに関西創価学会の”誕生の地”である。関西初の座談会が行われたのも西成。戸田や池田が滞在して弘教の指揮を執った花園旅館も西成にあった。

 同年12月、一は大坂で行われた本部総会に参加した。会場となった中之島の中央公会堂は、かつて「大坂事件」の際、出獄した池田を関西の同志が迎え、豪雨のなか「大坂大会」が開かれた場所である。

 その後も一は、74年に名古屋、75年に広島での本部総会に参加している。会う機会の少なくなった息子の姿を見る、貴重な機会だった。

 74年5月には西成の聖教新聞販売店などへ、あいさつに回った。翌年3月には関西記念館へ。池田と同志が綴った常勝関西の歴史を辿る展示を熱心に見学した。これらのほとんどを西成の婦人部が案内した。

「広島の本部総会のことです」。木下文子(西成総区婦人部主事)は一の言葉を忘れられないという。

「なんて世間は学会のことになると悪く騒ぐのかね。世の中のため、平和のために一生懸命やっているのにね」。

 ある時は「私によく似て、なんでも人にあげちゃうのよ」と、青年時代の池田の様子を楽しそうに話した。

「靴下を履いて男子部の会合に行ったのに、素足で帰ってきたり、ズボンのベルトがただの紐になって帰ってきて、香峰子さんがびっくりしたんですよ」。

 自分の掌の皺ををみつめ、「よく働いてくれたねえ」と語りかけたこともある。周りの婦人部員に「我が家は貧乏の横綱だったでしょう。今は息子たちがよくしてくれます」と笑った。

「昭和51年の7月、体調を崩されたと聞き、お見舞いに行きました。数日前に池田先生が来られた時、お母様は先生に『皆が待っているでしょう。早く行きなさい』とおっしゃったそうです」(木下)

 私は勝った──この喜びを胸に、一は今世の旅を終えようとしていた。


 8月4日の夜、松原と岩渕は「母」のメロディーを完成させた。池田と相談し、歌いやすいよう歌詞にふりがなもつけた。


1、母よ あなたは

 なんと不思議な 豊富(ゆたか)な力を

 もっているのか

 もしも この世に

 あなたがいなければ

 還るべき大地を失い

 かれらは永遠(とわ)に 放浪(さすら)う


2、母よ わが母

 風雪に耐え 悲しみの合掌(いのり)を

 繰り返した 母よ

 あなたの願いが翼となって

 天空(おおぞら)に舞くる日まで

 達者にと 祈る


3、母よ あなたの

 思想と聡明(かしこ)さで 春を願う

 地球の上に

 平安の楽符(しらべ)を 奏でてほしい

 その時 あなたは

 人間世紀の母として 生きる


 「母」の歌の誕生からひと月後の9月6日早朝。池田大作を産み、育てあげた一は、家族の唱題に包まれ、息をひきとった。一人の「人間世紀の母」の安らかな最期だった。


 「先日、81歳になる一人の老婦人を見舞いにいく機会がありました。そして、その年老いた母親の言葉を、私は感銘深く聞きました」

 7月14日、東京・小平市の創価学園。「栄光祭」(夏に行われる伝統の学園祭)に出席した池田は、ある老婦人の人生を学園生に紹介した。

 たくさんの子どもを育て、貧乏の連続だったこと。親戚や近所からも子馬鹿にされたこと。しかし、病床で一言、「私は勝った」と口にしたこと・・・・・。

 なぜ「勝った」のか。老いた母はこう言った。

 「いかなる中傷、批判を受けてもいい。男性として何か社会に貢献するような、そういう息子が欲しかった。そして、自分の息子の中にはそういう人間が出た。だから私はうれしいんだ。お見舞いもうれしいけれど来られなくてもいい。社会のためにどれだけ活躍したか、挑戦したか、それを見たかったんだ」


 当時、高校3年生で「栄光祭」メーンフェスティバルの責任者だった須田裕。

「あの日、池田先生が話された老婦人が、まさにあの時、危篤状態になられていた先生のお母様だったとは誰も気づきませんでした」。

 池田はこの前日と前々日、母の一(いち)のもとを訪れていた。


 4日後の18日、民音(民主音楽協会)の職員だった松原眞美と岩渕真理子が池田のもとに呼ばれた。二人とも音楽大学の出身の女子部員だった。

「池田先生は『母の詩に二人で曲をつけてほしい』とおっしゃったのです」(岩渕)。「『婦人部の皆が歌いやすい曲にしてほしい』とも要望されました」(松原)。

 具体的な曲調として、池田は自身の青春時代を謳った「森ケ崎海岸」(本田隆美作曲)のメロディーを例に挙げた。そして、歌詞の案とともに『青年の譜』(読売新聞社)を二人に手渡した。「母」の原詩や「生命の尊厳を護る者へ」が収められた池田の詩集である。

「曲にしにくいところは自由に直してかまわない、とまで言われました。二人とも作曲など一度もしたことがありません。なんとかご希望に沿える曲をつくろうと、必死で考え始めました」(岩渕)

 終業後、東京・新宿の民音会館(当時)のピアノ室やリハーサル室で、また岩渕の自宅で、二人は連日連夜、池田の詩と格闘した。『青年の譜』を何度も読み返した松原は、ある一節に「目が釘付けになった」と語る。「これはもしかしたら、お母様のことを詩にされたのではないかと感じました」。


 母よ

 わが母よ

 風雪に耐え抜いた可哀想な母

 悲しみの合掌を繰り返してきた

 いじらしい母

 あなたの願いが翼となって

 天空に舞くる日まで

 いついつまでも達者に と

 私は祈らずにはいられない


 「我が母」と呼びかける唯一の箇所であり、現在歌われている「母」の、二番の原型になった部分である。「いつまでも達者に、との祈り──この一節を基調に、メロディーをつくりました」(松原)


 池田が二人に作曲を頼む2週間ほど前、民音会館で戸田城聖を偲ぶ集いが行われた。(7月2日)。その式典のBGMを、松原と岩渕が担当していた。松原がピアノを、岩渕がマリンバを演奏した。参加者からは見えない位置である。

 式典が終わった後、池田は二人を見つけた。「やあ、ここで弾いていたのか。ご苦労様。二次会をしようよ」。即興の演奏会となった。「『戸田先生のお好きだった歌を中心にお願いしたい』と言われました」(松原)。

 「花が一夜に」「同志の歌」「人生の並木道」・・・・・予定にない9曲を次々とリクエストされた。二人はなんとか無事に演奏し終えた。

「先生は『戸田先生が心から喜んでくださっていると思います。本当にありがとう』とおっしゃり、深々と頭を下げられました」(岩渕)

 代表から池田に花束が贈られた。「先生は『きれいな花だなあ』と言われた後、ぽつりと漏らされたのです」(松原)。

「母親の具合が悪いんだ。これから大田の実家にお見舞いに行くから、この花を母に渡してくるよ」

「その直後の『母』の作曲依頼です。私たちはとにかく『お母様に長生きしていただこう。間に合わせよう』という思い意外ありませんでした」(岩渕)。思考錯誤が続いた。

 「母」の長編詩発表の3年前(1968年1月)、池田は学会婦人部に「生命の尊厳を護る者へ」と題する詩を贈っている。

 「太古のその昔から/生命を無上のものとして/こよなく慈しみ/心くだきつつ 育てつつ/一すじに生きぬいた 貴い性──/それを 私は女性と呼ぼう」

 「最も地道に もっとも迅速に/生命の尊厳を 身をもって護るものよ/永遠の平和と繁栄は/いずこにあるものでもない/あなたたちの──/純粋な 力ある胸中にこそあるのだ」


 「あの詩は衝撃でした」秋山栄子(婦人部総主事)は語る。

「皆、生活の悩みで右往左往していました。悩みは尽きないけれども、私たちには、はるかに目指すべき目標があることを示していただいた」。峰山益子(関西婦人部主事)は「それまでの人生で、これほど女性の存在を讃える詩を贈られたことなどなかった。1日1日をどう生きるかで精一杯の私たちに、こんな素晴らしい使命があるのかとびっくりしました」。

 

 生命の守り手に対する池田の敬意は、「母」の詩にも脈々と流れている。その思いに旋律が伴い、19行の歌詞に結晶したのは、1976年(昭和51年)夏のことだった。

「かくしゃくとして飾らない義祖母から、信心を学びました」。白木喜美代(大田総区婦人部長)が語る。

「晩年まで全国から多くの人が訪ねてきました。学会活動に励む人の話を聞くのが、一番うれしかったようです」。

 望月教子(大田総区婦人部主事)。

「白木宅で座談会が終わった後、『若い時には何でもやっておくものよ』とおっしゃったことがあります」。

静子は「今は足も弱って遠くに行けなくなった。それでも最近、秋田の男鹿から手紙をいただいたの」と、うれしそうに語った。そこには”折伏してくれたことが懐かしい””あのとき来ていただいた地域にも学会の開館ができました”等々、信心を貫いた喜びが綴られていた。


「あの時は緊張しました」。小林久美子(蒲田広宣区婦人部主事)。白木宅の会合で、御書講義の担当になった。

「最前列に座る白木のおばさんにごあいさつすると『私は若い人から教わりたいの』と目を輝かせておられた」。終了後、「拙い講義でしたが」と頭を下げると「そんなことないよ。よかったよ、よくわかったよ」。二回り以上も年下の小林の肩を叩いた。

「真剣そのもので聞いてくださり、幾つになっても『共に学ぶ』姿勢を示しておられました」。

 2000年(平成12年)8月24日、静子は95歳で永眠。その日は池田の53回目の入信記念日だった。


 「私の形見だよ」。町田セイは、最晩年の静子から杖を二本、譲り受けている。

「90歳を越えた今、使うようになりました。この杖に毎朝、『今日は誰の所へ対話に行きましょうか』と話しかけます。今も白木のおばさんと一緒に、弘教に、家庭訪問にと歩いているんですよ」。誇らしげに語った。