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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 入会前は不幸を絵に描いたような家だった。あや子の父が病弱で、先祖の財を切り崩した。母は中風で寝込み、あや子自身も心臓弁膜症で薬が離せない。周囲から”早川病院”と呼ばれた。婿入りした和男との間に生まれた長男も病弱。

「家にはあらゆる宗教のお札や置物が並んでいた。小学生の時、その日の食料を求め、よく近所に行かされました」(長男の元清、東三河旭日県副県長)。哀れんだ隣人が風呂敷に米を包んでくれた。

 知人に誘われ、和男が学会の座談会に参加したのは1954年(昭和29年)8月である。

「創価学会に入ったぞ」と言う和男に最初は反発したあや子だったが、「いろんな宗教をやってきたんだから、一度やってみましょうか」。和男は「その日から暗黒の我が家に一条の光が差し込み、私達の新しい歴史が始まった」と書き残している。

 次女は未熟児だった。「保育器に入れても助かる保証はない」と言われ、自宅に連れ帰った。湯たんぽで温め、涙ながらに題目をあげた。命をつなぎ止めた。信心を命綱にして、一家は少しずつ這い上がった。


 入会8年目の夏、和男の胃がんがわかった。蒲郡の一粒種。夫妻で支部長、支部婦人部長を努め、地域を駆けてきた。だが厳しい病魔は和男を入院に追い込み、その闘志を奪い去っていた。救ったのはあや子だった。

「夫の命は長くない、ならば師匠に会うことが本望だろう。絶対に行こう」。

妻の決意に和男も腹を決めた。外出許可を得て、池田のもとに集った。

「さあ、こっちへいらっしゃい」。池田は二人をじっとみつめた。

「よく来たね。本当によく来た。死んではいけないよ!」。

 その気迫に周りは息をのんだ。

「これからが広宣流布の本舞台だ。その世界を見ずして死んだら、何のために苦労してきたかわからない。死んではいけない!」。池田は和男の手を握りしめ、抱きかかえた。

 仏法では、命を奪い、仏道修行をさせまいとする働きを「死魔」と呼ぶ。真剣勝負の池田の語気は、「死魔」を徹底的に打ち破る強さを含んでいた。

 質問会の最後に、池田は「いいお正月を迎えられる人?」と尋ねた。大勢の手があがる。「よくないお正月の人は?」。あや子がおずおずと手をあげた。「正直な人だね」。池田は「依正不二だよ」と語り始めた。

 依正不二。主体(正報)と客体(依報)は別々にあるのではなく、お互いに影響を与え合う”不可分の関係だと説く、仏法の根本的な考え方である。

「正報は、あなたなんだよ」。池田はあや子に断言した。「正報であるあなたの信心がしっかりすれば、依報であるご主人も、きちっとなる。すべてはあなたの信心できまるんです」。

 あや子は心の底から驚いた。それまでは、先に入会を決意した夫が「主」で、妻の自分はあくまで「従う」ものだと思い込んでいた。「あなたの人生はあなたが主人公なんだ!という先生の指摘に、目の覚めるような感動を覚えました」。

 

「負けてはいけないよ」

「あなたには信仰があるんだ」

苦労を重ねる母たちを励ましてきた池田。

会長を辞任し、身動きが取れなかった時期、

妻の香峰子が信濃町の創価婦人会館で、

各地から訪れた婦人部員と懇談を重ねた。

子育てや家事の工夫から、病魔との闘いまで、

母と母との語らいは607回に及んだ。


 1963年(昭和38年)11月16日、愛知の豊川市。4000人が集った大会の後、35歳の青年会長、池田大作を囲んで代表メンバーとの懇談が始まった。

 最後列で手をあげた早川あや子。思い詰めていた。立ち上がり、すーっと深呼吸した。

「蒲郡の早川です!先生、今日は病院から夫を連れてまいりました」。夫の和男が寄り添っている。

「よく連れてきたね!」「ご主人の病状はどうですか」。事前に報告を受けていた池田。夫妻に温かな眼差しを向けた。

 42歳の和男。3ヶ月前、末期の胃がんで入院した。

「切らなければ、もって数ヶ月の命。切ったとしても数年生きられるか、すぐダメになるか」。主治医もなかばあきらめていた。

 「役場からは何度も務の戸籍を抜くように言われたが、両親は『必ず生きて会う』と言って断りました」

 1981年(昭和56年)、ようやく中国残留孤児の帰還の動きが出てきた時、母ときょうだいで手分けして厚生省、道庁、町役場に足を運んだ。

「無理ですよ。広い中国で、大した手がかりもないのに探すなんて」。

どの窓口も門前払い同然の扱いだった。「これでもか、これでもかと題目をあげる母の姿が忘れられません」。


 思いがけない出会いがあった。1982年(昭和57年)6月10日──学会の「婦人部の日」に、緑は嫁ぎ先の岐阜から上京し、信濃町の創価婦人会館を見学した。ロビーで座っていると、会館スタッフから「もう少しここにおられますか」と声をかけられた。

 しばらくすると、池田の妻香峰子が玄関に現れた。「まさかと思いました」。ロビーには数人しかいない。緑が岐阜在住であることを知った香峰子は、「私も戦争中、岐阜に疎開していたんですよ。縁がありますね」と言い、「これから会合なので、よかったらご一緒に」と促した。その会合で香峰子は、子育てと学会活動を両立した自身の体験を紹介。

「どんなことがあっても信心をつづけましょうね。必ず幸福になれる信心です」と語った。「その通りだ、と涙ながらに思いました」。

 緑は北海道から岐阜に嫁いだ時、夫の両親から「家をとるのか、学会をとるのか」と責められた。日々の姿を通して理解を得るしかなかった。少しずつ学会活動ができるようになった。

「『必ず幸福に』との言葉を抱きしめて生きてきました。あの出会いが一生の原点です」。


 緑が香峰子と会った数ヵ月後、中国残留孤児の支援組織の会報に、「息子を捜している」という芳の文章が載った。同じ号に「両親を捜している」というハルピンの男性が紹介されていた。中国名は「薛広仁(せつこうじん)」芳の体に電流が走った。その顔写真が福島に住む弟に似ていたのだ。「務かもしれない」。文通が始まった。

 第一次、第二次、第三次・・・・・・中国残留孤児の肉親探しが続いた。文通を始めてから1年後の、1983年(昭和58年)12月6日。第四次の肉親探しで、薛広仁が来日した。成田空港ロビーに残留孤児60人が到着。無数のフラッシュが光る。

 厚生省からは「対面調査まで会話しないように」と指示されていた。一行が目の前を通る。あのハルピンでの別れから、38年近くが過ぎていた。私と会って喜んでくれるのだろうか。手放した親を恨んではいないだろうか。68歳の芳は、こらえきれず叫んだ。

「つとむ!」「オトサン、オカサン!」

 薛広仁──藤原務は、覚えたての日本語を叫び、走り寄って芳の手を握った。

「務は右足にあざがあった」。芳のわずかな記憶だけが具体的な手がかりだった。三日後の対面調査で、右足のあざを確認した。抱き合って喜んだ。この訪日で、両親そろって再開できたのは務だけだった。国内のすべての全国紙、テレビが連日連夜、大々的に報道した。記者会見で務は「私を養父母にあずけてくれたことを、少しも恨んでいません」と答えた。

 標茶町に戻った。「創価学会の信心のおかげで、再開できたんだよ」と芳が言うと、務は「ぼくも池田先生を知っています」と答えた。芳や正三たちは目を丸くした。

 中国の養父母は、務にできるかぎりの教育を授けてくれた。中学教師として働いていた務は、日中友好の功労者の存在を知っていたのだ。

「みんなの祈ってきた御本尊に、ぼくも祈りたい」と務は言った。始めて、家族そろって、ゆっくりと勤行をした。務と声をそろえて題目をあげながら、芳は泣いた。苦しみの涙ではなく、喜びの涙だった。

 この日、芳の戦争は終わった。


 娘の緑が香峰子と出会った東京・信濃町の創価婦人会館。1978年(昭和53年)6月に開館した。

 この会館を香峰子は、じつに「607回」も訪れている。たとえば池田が第三代会長を辞任した79年は、1年間で60回以上、翌80年は80回の訪問が記録されている。これらの出会いと励ましの日々には、数多くの「母たちの合掌(いのり)」のドラマが秘められていた。さらに辿る。



 1946年(昭和21年)の秋、芳と緑は、郷里の福島県相馬郡に命からがら戻った。柿の実がなっていた。

「子どもを捨てる所はあっても、わが身を捨てる所はなかったのか」。親に責められた。何を言っても納得してもらえないだろうと思い、黙ってこらえた。

 夫の正三はシベリアで捕虜となり、翌年秋に帰国した。職もなく、「開墾の技術が生かせる」と、荒れ地の多かった北海道の標茶町へ鍬一つで渡った。雑木林を切り開き、木の根を掘った。月明かりの下でも働いた。

 芳は北海道で新たに三人の子を産んだ。暗かった長女の緑にも笑顔が戻った。ようやく開墾から酪農に切り替えた頃、夫の正三が腎臓を患った。

「父は近所の知人から仏法の話を聞き、家族に『今日から創価学会の信心を始めるぞ』と宣言しました」。1958年(昭和33年)の8月だった。


 学会に入っただけで、文字通り「村八分」にされた。「じゃがいもやビート、燕麦などを栽培しており、肥料や種は共同で購入するのですが、そのための回覧板が、我が家を飛ばして隣に持っていかれました」。

「学校の行き帰りもよくいじめられました」(藤原正、副支部長。緑の弟)

「それでも不思議なことに、私の心はよろこびにみちていました」と芳は書いている。家族全員で手をつなぎ、5キロの山道を歩いて座談会に通った。

「座談会に、活動にと励みました。山をいくつも越え、歌をくちずさみながら歩いたものでした」。

 法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず──日蓮の言葉を常に自分に言い聞かせた。中国に残してきた務のことが「誰にもいえない苦しみ」になっていた。夜中、よくうなされた。緑が起こすと「よかった。ソ連兵から逃げている夢を見た」とつぶやいた。もう一度、務と会いたい。その燃えるような思いが、芳の祈りとなった。


 信心を始めて、11年目の9月だった。芳は聖教新聞を食い入るように見つめた。池田が日中国交正常化を提言した(1968年9月9日付け)。それは芳にとって「手の届かない高尚な議論」ではなかった。

「たった今、私に必要な言葉」だった。「『日中戦争のあのみじめさを、永久にくり返してはならない』という池田会長のお話に、私は胸おどらせ、夢中で読みました」(芳の手記)。

「『池田先生のおかげで務と会える』母はそう言っていました」。務と生き別れて22年。芳の苦しみに、初めて細い光が差し込んだ。

 4年後、国交が正常化。その2年後、池田の第一次訪中。さらに第二次訪中で周恩来総理と会見・・・・・・無理解の中傷をものともせず、池田が切り開く日中友好の記事は、ことごとく芳の希望となり、生きる力となった。

 「風雪に耐え 悲しみの合掌を 繰り返した 母よ」。

 この二番の歌詞のままの人生を歩み、苦労を重ねた母たち。その一人に光を当てたい。

 釧路空港から車で約2時間。北海道標茶(しべちゃ)町── 一帯に緑の牧草地が広がり、ぽつぽつと民家が立つ。

 「母は朝晩の勤行を始める前、必ず涙を流しました。そして毅然と祈り始めるのです。毎日がその繰り返しでした」。70歳の藤原緑(地区婦人部長)はゆっくり語り始めた。


 1940年(昭和15年)、母の藤原芳は夫の正三と満州に移住した。ソ連国境に近い、中国東北部の拉林という町に入植。30ヘクタールほどの土地にアワ、ヒエ、大豆、トウモロコシを育てた。使用人もいた。

 翌年の春、長女が生まれた。目の前に広がる大自然に合うように、緑と名付けた。さらに翌年、長男の務が生まれた。仕事にも力が入った。

 次女の次子が生まれた1944年(昭和19年)には、すでに物が不足していた。45年7月、正三が召集された。翌月、日本は敗戦。残された芳たちの生活は地獄と化した。

 それまで日本軍に抑圧され続けた中国の人々の怒りが爆発した。芳たちは衣服を奪われ、家を奪われた。

 火も使えず、生の芋やトウキビ、道に生えた草を食べた。栄養失調と零下30度の寒さ。ある朝、1歳の次子が冷たくなっていた。

「くやしくて、涙も出ませんでした」(芳の手記)。道ばたの草を摘み、小さな墓をつくった。

 高老という駅から、屋根もない、石炭を積む貨車に乗せられた。ハルピンの花園収容所に着いた。難民となった本人3000人であふれていた。食糧はなかった。

「やがて母が発疹チフスにかかりました」。10日間隔離された芳が戻ると、4歳の緑は「母ちゃん」と泣いて抱きついたが、3歳の務は立つこともできなくなっていた。わずかな菜っ葉の入った汁物が配給されたが、それすら大人が奪い取っていたのだ。

「母が深い井戸の底をじっと覗き込んだことを覚えています。ただならぬ雰囲気を感じ、大声で泣きました。母は正気に返ったように、はっと振り向きました」。


 衰弱した芳のもとに「男の子を養子にくれないか」という話が来た。跡取りのいない製粉工場の中国人経営者が望んでいるという。

 31歳の芳は悩みに悩んだ。絶対にいやだ。しかし帰国できる見通しなどない。夫の行方も不明。このままでは子どもより先に、自分が死んでしまうかもしれない。

 務を手放す。そう決心した時の気持ちを、芳は「『生木を裂く』とはこのことだ」と書き残している。自分が着ていた服を縫い直し、小さなシャツをつくった。泣きながら務に着せた。母として最後の贈り物だった。務は芳の首にしがみついた。芳は務の痩せ細った手を、自分の首からはがした。

「『おいしいものが食べられるからね』と母が務に言い聞かせた言葉、それに、務が着ていたシャツの水色が記憶に残っています」。

 芳の手記。「水色の服の、小さな小さな後ろ姿がまぶたに残り、気がくるいそうになり、泣いてばかりいました。この時ほど戦争の残酷さが身にしみたことはありませんでした」。