「役場からは何度も務の戸籍を抜くように言われたが、両親は『必ず生きて会う』と言って断りました」
1981年(昭和56年)、ようやく中国残留孤児の帰還の動きが出てきた時、母ときょうだいで手分けして厚生省、道庁、町役場に足を運んだ。
「無理ですよ。広い中国で、大した手がかりもないのに探すなんて」。
どの窓口も門前払い同然の扱いだった。「これでもか、これでもかと題目をあげる母の姿が忘れられません」。
思いがけない出会いがあった。1982年(昭和57年)6月10日──学会の「婦人部の日」に、緑は嫁ぎ先の岐阜から上京し、信濃町の創価婦人会館を見学した。ロビーで座っていると、会館スタッフから「もう少しここにおられますか」と声をかけられた。
しばらくすると、池田の妻香峰子が玄関に現れた。「まさかと思いました」。ロビーには数人しかいない。緑が岐阜在住であることを知った香峰子は、「私も戦争中、岐阜に疎開していたんですよ。縁がありますね」と言い、「これから会合なので、よかったらご一緒に」と促した。その会合で香峰子は、子育てと学会活動を両立した自身の体験を紹介。
「どんなことがあっても信心をつづけましょうね。必ず幸福になれる信心です」と語った。「その通りだ、と涙ながらに思いました」。
緑は北海道から岐阜に嫁いだ時、夫の両親から「家をとるのか、学会をとるのか」と責められた。日々の姿を通して理解を得るしかなかった。少しずつ学会活動ができるようになった。
「『必ず幸福に』との言葉を抱きしめて生きてきました。あの出会いが一生の原点です」。
緑が香峰子と会った数ヵ月後、中国残留孤児の支援組織の会報に、「息子を捜している」という芳の文章が載った。同じ号に「両親を捜している」というハルピンの男性が紹介されていた。中国名は「薛広仁(せつこうじん)」芳の体に電流が走った。その顔写真が福島に住む弟に似ていたのだ。「務かもしれない」。文通が始まった。
第一次、第二次、第三次・・・・・・中国残留孤児の肉親探しが続いた。文通を始めてから1年後の、1983年(昭和58年)12月6日。第四次の肉親探しで、薛広仁が来日した。成田空港ロビーに残留孤児60人が到着。無数のフラッシュが光る。
厚生省からは「対面調査まで会話しないように」と指示されていた。一行が目の前を通る。あのハルピンでの別れから、38年近くが過ぎていた。私と会って喜んでくれるのだろうか。手放した親を恨んではいないだろうか。68歳の芳は、こらえきれず叫んだ。
「つとむ!」「オトサン、オカサン!」
薛広仁──藤原務は、覚えたての日本語を叫び、走り寄って芳の手を握った。
「務は右足にあざがあった」。芳のわずかな記憶だけが具体的な手がかりだった。三日後の対面調査で、右足のあざを確認した。抱き合って喜んだ。この訪日で、両親そろって再開できたのは務だけだった。国内のすべての全国紙、テレビが連日連夜、大々的に報道した。記者会見で務は「私を養父母にあずけてくれたことを、少しも恨んでいません」と答えた。
標茶町に戻った。「創価学会の信心のおかげで、再開できたんだよ」と芳が言うと、務は「ぼくも池田先生を知っています」と答えた。芳や正三たちは目を丸くした。
中国の養父母は、務にできるかぎりの教育を授けてくれた。中学教師として働いていた務は、日中友好の功労者の存在を知っていたのだ。
「みんなの祈ってきた御本尊に、ぼくも祈りたい」と務は言った。始めて、家族そろって、ゆっくりと勤行をした。務と声をそろえて題目をあげながら、芳は泣いた。苦しみの涙ではなく、喜びの涙だった。
この日、芳の戦争は終わった。
娘の緑が香峰子と出会った東京・信濃町の創価婦人会館。1978年(昭和53年)6月に開館した。
この会館を香峰子は、じつに「607回」も訪れている。たとえば池田が第三代会長を辞任した79年は、1年間で60回以上、翌80年は80回の訪問が記録されている。これらの出会いと励ましの日々には、数多くの「母たちの合掌(いのり)」のドラマが秘められていた。さらに辿る。