母たちの合掌(いのり)        「よく働いてくれたねえ」 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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「私の家は、4人の兄と弟2人、妹1人、それに養子がほかに2人いたので、計12人の大家族であった・・・・・家業のノリ製造業が不振になったときも、戦災で2度も家を焼かれたときも、泣き言一つ言わず黙って子共の世話をし、家事を切りまわしていた」(『池田大作全集』第20巻)

 池田が母の一(いち)について記した文章である。

「10人の子供に平等に愛情を注ぐことのできた立派な女性であったと、今も誇りに思っている」(同)。

「母の姿に、子の私は、どんな苦労も、耐え忍ぶことができるのだという人生の教訓を、学びとることができました」(『少年に語る』ポプラ社)。

 その一が晩年、ことに愛した地が関西だった。大坂・西成に住む小林節子(総大坂婦人部主事)が一と出会ったのは1973年(昭和48年)。

「支部同士の交流があり、西成から東京の大田にうかがったことがきっかけでした。常々、池田先生のつくられた『常勝関西』を見てみたい、と願っておられたようです」。


 西成はまさに関西創価学会の”誕生の地”である。関西初の座談会が行われたのも西成。戸田や池田が滞在して弘教の指揮を執った花園旅館も西成にあった。

 同年12月、一は大坂で行われた本部総会に参加した。会場となった中之島の中央公会堂は、かつて「大坂事件」の際、出獄した池田を関西の同志が迎え、豪雨のなか「大坂大会」が開かれた場所である。

 その後も一は、74年に名古屋、75年に広島での本部総会に参加している。会う機会の少なくなった息子の姿を見る、貴重な機会だった。

 74年5月には西成の聖教新聞販売店などへ、あいさつに回った。翌年3月には関西記念館へ。池田と同志が綴った常勝関西の歴史を辿る展示を熱心に見学した。これらのほとんどを西成の婦人部が案内した。

「広島の本部総会のことです」。木下文子(西成総区婦人部主事)は一の言葉を忘れられないという。

「なんて世間は学会のことになると悪く騒ぐのかね。世の中のため、平和のために一生懸命やっているのにね」。

 ある時は「私によく似て、なんでも人にあげちゃうのよ」と、青年時代の池田の様子を楽しそうに話した。

「靴下を履いて男子部の会合に行ったのに、素足で帰ってきたり、ズボンのベルトがただの紐になって帰ってきて、香峰子さんがびっくりしたんですよ」。

 自分の掌の皺ををみつめ、「よく働いてくれたねえ」と語りかけたこともある。周りの婦人部員に「我が家は貧乏の横綱だったでしょう。今は息子たちがよくしてくれます」と笑った。

「昭和51年の7月、体調を崩されたと聞き、お見舞いに行きました。数日前に池田先生が来られた時、お母様は先生に『皆が待っているでしょう。早く行きなさい』とおっしゃったそうです」(木下)

 私は勝った──この喜びを胸に、一は今世の旅を終えようとしていた。


 8月4日の夜、松原と岩渕は「母」のメロディーを完成させた。池田と相談し、歌いやすいよう歌詞にふりがなもつけた。


1、母よ あなたは

 なんと不思議な 豊富(ゆたか)な力を

 もっているのか

 もしも この世に

 あなたがいなければ

 還るべき大地を失い

 かれらは永遠(とわ)に 放浪(さすら)う


2、母よ わが母

 風雪に耐え 悲しみの合掌(いのり)を

 繰り返した 母よ

 あなたの願いが翼となって

 天空(おおぞら)に舞くる日まで

 達者にと 祈る


3、母よ あなたの

 思想と聡明(かしこ)さで 春を願う

 地球の上に

 平安の楽符(しらべ)を 奏でてほしい

 その時 あなたは

 人間世紀の母として 生きる


 「母」の歌の誕生からひと月後の9月6日早朝。池田大作を産み、育てあげた一は、家族の唱題に包まれ、息をひきとった。一人の「人間世紀の母」の安らかな最期だった。