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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   人間扱いされず ①


 後に初代の都島支部長を務めた長谷川元一。

「(池田の逮捕を知らせる)電話に『なんでや?』と我が耳を疑った・・・・・すぐに缶詰や牛乳を買い入れ、スクーターで突っ走っていた」(長谷川の手記)。運転免許を取ったばかりだった。

 1年前の「大阪の戦い」で、池田の指揮をつぶさに見てきた。

「先生は身体が悪うて、ウチで休まれたことも・・・・・その命懸けの姿を見て、ワテらは鉄砲玉みたいに飛んで、大阪じゅうを駆け回った」とも語り残している。長谷川は大阪府警察本部の正門受付で、池田への差し入れを申し込んだ。

「何となく変な雰囲気のなかで『ここにはいないよ。天満署だ』と言われ、すぐ天満署に走った。

 

 風呂敷には、缶詰と氷を入れてたので、氷水がポタポタと流れていく。『はよ、せな』と焦る気持ちを抑え・・・・・(天満署で)差し入れを申し入れると『そんな人はいない。本部の方』と言われ、再び府警本部へ向かった。が、結局、差し入れは受け入れてもらえず、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。その時の悔しさといったら、今でも忘れられない・・・・・人をバカにしたというか、庶民をあしらう横暴さに心から憤りを感じた」

  宝物のシャツ ②


 「12時30分発の特急にて、大阪へ講義に。『法華初心成仏抄』を終わる。自分の勉強不足を、つくづくと嫌う」(1955年5月21日の池田の日記)

 

 「来阪の度に思う。関西の成長発展を」(同22日)。「(戸田)先生の、指導訓練、日増しに厳し。耐えるのに、精一杯の1日1日」(同31日)。

 

 池田の20代後半は、関西の思い出が強烈な光を放っている。池田が逮捕・勾留された7月3日から7月17日の約2週間、その関西の地で、学会員の心は千々に乱れた。


 「大阪大会」は、彼らの怒りと誓いの結晶だったといえよう。今号と次号では、池田の獄中闘争も含めた「大阪大会」前後の証言記録を追う。

   宝物のシャツ ①


 「大阪大会」──池田大作が大阪拘置所から釈放された1957年(昭和32年)7月17日。中之島の大阪市中央公会堂とその周辺は、大阪地方検察庁に抗議するために詰めかけた、およそ2万の学会員で埋まった。

 

 信心を始めてまだ1年ほどだった紀代子の父・一男も、土砂降りの雨に打たれながら場外で参加した一人である。

「ちょうどわが家が経済的にも一番苦しかった時期です。父の開襟シャツは当時のまま、宝物のように大切に折り畳まれていました」(松下紀代子)。


 一男が亡くなった68年(同43年)、紀代子はすでに地域の学会婦人部のリーダーとして活躍していた。

「でも『大阪大会』の意義はくわしく知りませんでした。なにしろ『大阪大会』の頃は信心に猛反対している最中だったから」と苦笑いを浮かべる。

「父の形見のシャツに、あらためて教わりました」。

お前が罪を認めなければ


戸田会長を逮捕する──。


1957年(昭和32年)7月、


池田は「虚偽の調書」に基づいて逮捕され、


検察から非道な取り調べを受ける。


同志は不当な拘留に怒り、その無事を祈った。


釈放された池田は法廷闘争での勝利を誓い、


民衆を見下す権力に決然と対峙していく。


「虚偽の調書」は、どのように作られ、


なぜ不当逮捕が起きたのか。


冤罪事件の信実に迫る。


 松下紀代子(東京、新立川総区婦人部主事)は中国の長春で生まれた。太平洋戦争の敗戦後、一家で祖母の住む福岡に引き揚げた。

 「父の一男は大阪で商売を始めましたが、次々に失敗しました。昭和31年、借金を抱えた貧乏のどん底で折伏され、両親ともに信心を始めたのです」。

当時16歳だった娘の紀代子は、いろいろと文句をつけて2年ほど信心に反対し続けた。

 「あれは父が亡くなった後でした」。部屋の整理中、見慣れない箱が出てきた。1枚の開襟シャツが入っていた。少し染みがある。高級品でもない、平凡なシャツだった。母の千枝子に、これは何かと尋ねた。

「それは、お父さんが『大阪大会』に着ていったシャツやで」。

千枝子は、父にとってその夏の日が、どれほど鮮烈な1日だったかを語り始めた。

連載を読んでくださる皆さん、いつもありがとうございますm(__)m
次回から"民衆こそ王者池田大作とその時代"青年の譜(8)「大阪事件」(2)を連載しますので宜しくお願いしますm(__)m






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