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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「代われるものなら」 ④


 怒鳴られている最中、頭が朦朧(もうろう)となり、「ほんまは私、悪いことしたんやろか」と迷ったこともあったという。

「あんなつらい目に遭ったら、何の罪もない人でも犯人に仕立てあげられてしまいますよ。検事たちは、どないしても罪を認めさせようとして、脅かし続けた。ほんまに傲慢(ごうまん)やった」。

 

 「この女はほんまにしぶといなぁ」と睨まれ、目の前の机をバンバン叩かれ、林は「おっちゃんら、こんなことしてたらあかんで」とかみついた。

 「もうあんまり悔しくて、『生命というのは人間だけのものと違いますよ。ノミにもシラミにも生命があるんですよ。おっちゃんらも来世はどうなるか知りませんよ』と言ってやりました。『そしたら俺は、来世はノミかシラミか!』とよけい怒鳴られましたけど」


 池田の逮捕を知った時、林の頭を真っ先によぎったのは「取り調べだけでもあんなにえげつなかったんやから、逮捕ゆうたら一体どないな厳しい責めを受けるんやろ」という心配だった。

  「代われるものなら」 ③


 池田は高校生の世代に向けて語った「青春対話」という連載で、「大阪事件」の社会的意義について平明に述べている(『池田大作全集』第六四巻)。その中に「証拠もないのに、なぜ罪をかぶせることができたのか不思議です」という高校生の疑問が紹介されていた。池田の冤罪をつくりあげるために、警察と検察は学会員たちに対して、どのような取り調べをしたのか。


 林智栄子(関西婦人部主事)は高麗橋の三越百貨店に勤める二十歳の女子部員だった。

 病弱だった母が、信心を始めてからみるみる健康になり、1日三食、食べられるようになった。

「母は座談会から帰ってくると『会場には大きな提灯があってナ』『きょうは歌を歌ってナ』と嬉しそうに話すんです。そのうち踊り出すんちゃうか、と思うほど元気になりました」。


 林は戸別訪問を疑われ、守口警察署と大阪地方検察庁に合計10日ほど通わされ、取調べを受けた。連日、朝から晩まで続いた。脳卒中で伏せっていた父の容体が気がかりでならなかった。気丈な林は「こんなんしてたら会社に行かれません。もし、クビになったらどないしてくれはるんですか。家が大変やのに。警察が責任とって、雇うてくれはるんですか!」と刑事に詰め寄った。


 大阪地検では検事たちに取り囲まれた。百貨店の上司にまで電話をかけられた。

「私を取り調べた検事は、のちに池田先生を担当した検事でした。『やったやろ、やったやろ』と机を叩かれ、名刺サイズの池田先生の顔写真を見せられ、『知ってるやろ』『知ってるはずや』と。もう恐ろしい剣幕でした」。

  「代われるものなら」 ②


 峰山は高校卒業後、阪急電鉄や宝塚歌劇団などの創始者として知られる小林一三が大阪府池田氏につくった図書館(「池田文庫」)に勤めていた。近況を話すうちに、後書(日蓮の遺文集)をまだ持っていないことが池田に知られた。

 「『四万冊も本がある図書館に勤めているのに、後書は持ってないの?』と言われて、『女子部は教学で立ちなさい』と懇々と教えてくださいました」


 さらに池田は便箋に「月光の如く尊き乙女(すがた)して 永久の功徳を強く受けきれ」と書き、その場で峰山に贈った。

「あの日が、私が本当に信心を始めた日です」と振り返る峰山。教学にも本腰を入れ始めた。


 週刊誌に学会批判が載った日の朝、出勤すると、その雑誌が必ず机の上に置かれていた。

 「学会を嫌う壮年の方が職場にいたんです。ときには面と向かって罵声を浴びせられました」。峯山はひるまず雑誌記事の誤りを語った。

「御書に『三障四魔』とあるでしょ。信心していたら、そんなことが起こるのは当たり前と思えるようになっていました」と笑う。


 大阪地検の廊下で峯山は、いきなり写真を撮られた。

「私を含めて何人かが地検の廊下に立っていました。すると刑事か検察の人かわかりませんが突然、目の前でパシャパシャ!とフラッシュをたいたのです。そこにいた学会員全員の顔写真を次々と撮られました」。

  「代われるものなら」 ①


 「あの時、代われるものならワシが代わりたかった」と語り残した一人に、第二代大阪支部長の大井満利がいる。居ても立ってもいられず大阪地検を訪れた。その時の出会いを、池田は次のように記している。

 「取調べで移動するさい、地検廊下で『がんばってください!』。一人の巨漢が走り寄ってきた、腰にタオルをぶらさげた大井さんだった。『大丈夫です。それより支部の皆さんに、くれぐれもよろしく』『エエ、よろしおます・・・・・』顔中に汗をかいた大井さんの目が、キラッと光る私の両手の手錠にとまった。


 目頭を赤くした大井さんや、その付近におられた同志の一人ひとりのお名前も、お顔も終生忘れ得ない。国家権力の正体とはいったい何か、このときほど思い知らされたことはない・・・・・」(『忘れ得ぬ同志』)

 大井は前年の「大阪の戦い」で、「カラスの鳴かぬ日はあっても、大井のしかられない日はない」といわれるほど池田から厳しく育てられた一人だった。


 峰山益子(関西婦人部総主事)も、池田の様子が気がかりで大阪地検を訪れた一人である。

 1953年(昭和28年)、矢追久子の勧めで信心を始めた。翌年、その矢追宅を訪れた池田と懇談する機会があった。

「当時は会合にもほとんど行かず、池田先生がどういう方なのかも知らなかった」という。

   人間扱いされず ②


 大阪府警や大阪地検によって心ない対応をされた学会員は多い。矢追久子は7月4日、魔法瓶に入れたみそ汁を差し入れるため奔走した。

 「東署に行ったら『府警へ行け』と言われ、府警へ行ったら『東署へ』と行きつ戻りつして、やっと東署で受け付けてもらえる始末・・・・・そのようにして、せめて三度の食事だけでもと、運んだんです」(矢追の手記)


 吉田顕之助(千葉、松戸総県総主事)。義兄の小泉隆(当時、学会理事長)が逮捕され、大阪地検に赴いた。

「検事は威張りくさっていました。何を言っても、ろくにこちらを見ず、ふんぞり返って。虫けら扱いというか、人間扱いされないというのは、ああいう態度のことをいうのでしょう」。

 

 吉田はまた、この間の出来事について「池田先生が逮捕・勾留されたあの2週間、青年部の執行部は大変でした」と振り返る。

「戸田先生から指導されたことはできます。しかし池田先生はふだんから、戸田先生の心をわかったうえで、その一歩先の動きをされていた。そのことに、池田先生が囚われて初めて気づかされたのです」。