EIKOの気まぐれ闘病日記 -113ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 いつもペタやコメントありがとうござい


ますm(__)m


 前から考えていたのですが、誠に勝


手ながらほとんどお付き合いのないア


メンバーの方を削除させて頂きまし


た。


 アメンバー申請のところにも書いて


いますが、いきなりのアメンバー申請


はお断りしていますのでご理解の程


よろしくお願いします。m(__)m

 連載をいつも読んで下さる皆さん、いつ


ありがとうございます。m(__)m


 今日で、”民衆こそ王者 池田大作とそ


時代”青年の譜シリーズの「大阪事件」


(1)の連載が終わりました。


 次回の連載は未定です。決まりました


またお知らせしますので、宜しくお願い


ます。m(__)m

 「入った者でないとわからないんだ」 ⑤


 ──立錐の余地もない蔵前国技館で、福住は胸を震わせた。戸田は叫んでいる。

「この時の戸田先生の師子吼(ししく)は脳裏から離れることはありません。『今、私のかわいい弟子が横暴な権力によって苦しめられている。無実の者をいつまでこのようにしておくのだ。すぐに釈放せよ!そうでなければ断じて許しておけぬ。全国の学会員が集まって、大阪に乗り込もうではないか』と」


 東京大会の終了後、戸田は関西から出席していた幹部を目にするや、開口一番「何をしているんだ!」と叱責した。

「大作を早く出してこい!何をボヤボヤしているんだ!」


 この7月12日を挟んだ数日間、池田は無実の罪を認めざるを得ない状況にまで追い込まれていた。

 夏の密室で、どのような取調べが行われたのか。大阪地方検察庁によって、どのように「点」と「点」が結ばれ、歪んだ「線」が引かれたのか。それらは4年半に及ぶ裁判の場で、徐々に明らかになっていく。

 「入った者でないとわからないんだ」 ④


 「いいご主人だったなあ」。池田は福住の亡き夫をを偲んだ。池田の御書講義を受講していた。そして「どんなつらいことがあっても、泣いてはいけない」と語った。「泣いているだけではご主人を成仏させることができない。あなたには御本尊様があるじゃないか。幸せになるんだ」。

 

 「生活のこと、子どものことを温かく聞いてくださった。『5年、10年、20年先です。想像もできないことになるよ』と言われた。この言葉には安心させられる何かがあった」(福住の手記)。


 数ヵ月後、大阪港に近い港区の田内喜朗宅で、福住は池田と再会する。

 穴のあくほど福住の顔を見つめた池田は、自分の膝をぽんと叩き、「うん、腹が決まったんだね。変わった、変わった。あの時はかわいそうだった。本当にどうしていいかわからなかったんだ」と喜んだ。


 


 

 「入った者でないとわからないんだ」 ③


 7月12日の夜には、東京で大規模な抗議集会が行われた。会場の蔵前国技館には2万人が詰めかけ、場外にも約2万人があふれたという。

 福住ふさゑはこの「東京大会」と、5日後の「大阪大会」の両方に出席した数少ない一人である。福住は大阪の婦人部員だが、勤めていた会社から営業成績を表彰され、東京での会食会に招待されていた。その席で、たまたま同席した人から「今日は東京で大きな創価学会の行事があるそうですよ」と教えられた。矢も盾もたまらず、宴席を中座して、国技館に駆けつけた。


 福住には、忘れられない出会いがあった。1年半前の1955年(昭和30年)、大晦日の前日に、結核を病んでいた夫を亡くした。

「小学校6年生の長男を頭に、8月に生まれたばかりの乳飲み子を含めて、5人の子どもを残された時には、泣くことさえ許されませんでした」(福住の手記)。

 餅も用意できない正月を終えた1月5日、関西本部で池田と話す機会があったという。

 この日の池田の日記には、自身を省みて、こう綴られている。

「10時より、個人面接──。夕6時まで。多数の指導をうける人あり。全力投球の指導をす・・・・・頭の悪しき事を、悔む。”以信代慧(いしんだいえ)”の肉弾の如き信心以外に、われのたどりゆく方法も、道もなき事を、深く思う。ああ、凡夫」。

「以信代慧」とは、「智慧のない凡夫も、信心の修行によって成仏への智慧を得ることができる」という意味である。