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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  庶民の精一杯の抗議 ③


 白木義一郎が冤罪の不当を訴え続ける間、雷鳴は太く、低く、唸り続けた。次の登壇者の番になっても、さらに雷鳴は続いた。地鳴りのような鈍い音が会場を震わせ、それが場内の拍手なのか、雷鳴なのか、わからなくなる時もあった。

 池田は後年、「あの嵐は、私の人生を象徴していたようにも思う」と語った。(1995年7月17日付「聖教新聞」)。天王寺区の関西本部で留守番をしていた福生伊八は「私も妻も、嵐の記憶はほとんどない。中之島界隈が特に激しかったのでは」と書き残している。


 京都からチャーターバスで参加した藤井藤義。前日からの雨で水かさの増した川べりで、足をすべらせる人の様子を書き残している。

「だれも口を開かない。ただじっと、かすかに聞こえてくる拡声器のからの声に必死に耳を傾けていた」。

 

 紙谷忠司は公会堂正面の整理役員だった。東住吉区に住んでいた。2週間前、池田逮捕の報を聞いた時には「悔しいがどうしようもない。自分の無力をいやというほど思い知らされた」(手記)という。大阪大会の最中、「天の一角が破れたか」と思うほどの雨に打たれながら、続々と集まる人々を川沿いの野外会場に誘導した。

「誰一人として帰る者もなく、ズブ濡れになりながら、庶民の精一杯の抗議がそこにあったと思う」と書き残している。

 公会堂の場内では何本かの祝電が紹介され、いよいよ池田が出獄の挨拶に立った。その時、司会が戸田城聖の入場を告げた。

  庶民の精一杯の抗議 ②


 久野勇(阿倍野区、総区主事)は妻と生後4か月の長女とともに参加した。

「土佐堀川沿いにあったテニス場のあたりです。スピーカーの音が雨や雷でかき消されてしまって、中の様子はあまりわからなかった。それでも帰ろうとする人はいなかった」。小木曽トシ子(大阪市北区、婦人部副本部長)は「まるで路上から吹き上げるような大雨でした」と書き残している。

「両手に子どもの手をしっかり握って参加しました。土佐堀川の河川敷で、どの人も身じろぎ一つせず、スピーカーに耳を傾けていた光景が印象に残っています」。

 16歳だった松本貞子(守口市、圏副総合婦人部長)。

「アルバイトして貯めたお金で買ったばかりの御書を抱えて参加しました。大阪大会の後しばらくは、ゴワゴワになったままの御書を使いました」と笑う。

 

 島田アサコ(奈良県橿原市、婦人部副本部長)は、当時4歳の三恵子をおぶって参加した。

「今で言うと心身症だと思うのですが、乗り物が怖くて乗れませんでした」。その症状が原因で夫から離婚を迫られた。

「阪大病院にも行きましたが治らなかった。そんな時に学会の座談会に行ったんです」。夫と別れ、右腕が不自由な母と病弱な一人娘を抱え、アサコは学会の信心を選んだ。88歳の今も元気に活動する。


 大阪大会は親しい先輩から「この会合に行かへんかったら、一生後悔するで」「池田先生が今日、出て来はるんや」と誘われた。背中におぶった三恵子のサンダルが、雨で水かさの増していた土佐堀川に落ちた。

「男子部の整理役員の方が、急いで手を伸ばしてすくい上げてくれました」。

 大阪大会から帰宅する時、島田は「あれだけ乗るのが怖かった市電も不思議と気にならなかった」と語る。その後、少しずつ学会活動に参加する中、心身症は薄紙をはぐように改善し、3年ほど経って完治した。

  庶民の精一杯の抗議 ①


 大阪大会は開会の辞の後、まず夕張炭労問題、大阪事件の概要について報告があった。続いて関西総支部長の白木義一郎が、警察、検察による冤罪事件を糾弾した。

 ──関西が一番お世話になってきた池田室長が逮捕されたことは、晴天の霹靂であった。獄中闘争の間、真相がわからず、いい加減な話をするわけにもいかず、関西の同志は沈黙を続けざるをえなかった──白木がそう語った直後のことだった。


 耳を圧するような轟音が、公会堂の場内を震わせた。雷鳴である。朗々とした白木の声が聞きとれなくなるほどの大音量だった。場内にいた立花丸子は「とてつもない雨と稲妻でした。公会堂の窓ガラスは、戦争中に焼夷弾が落ちた時のようにビリビリと鳴りました」と語る。

 火柱のような閃光が走り、何度も中央公会堂の銅版の屋根と赤レンガを照らし、場外の参加者の笠や濡れた顔を照らした。開会前、場外のスピーカーの電線を張った岡崎暢茂。大会中は北浜の難波橋で人の流れを誘導したが「一緒に整理にあたっていた警官は、いちはやく雨をしのいでいた」(岡崎の手記)。それぼど激しい雷雨だった。


 

  「ただいま戻ってまいりました」 ②


 高知から参加した久保貞美(地区副婦人部長)は「一万1111世帯」のうち、二人分は私の折伏です」と笑顔で語る。

「母と前日から6時間かけて香川の高松まで行き、連絡船で岡山側へ渡り、山陽本線に乗って大阪にはいりました。高知からは20人ほど参加したのではないでしょうか」。

 混雑する公会堂の前で、男子部員たちが整理にあたっていた。

「交通量の多い道路沿いに、手をつないで道をつくっていました。私たちを守ってくれているようで心強かったのを覚えています」。

 「公会堂には入れず、外の並木の舗道に立っていた・・・・検察庁の窓には鈴なりの人の顔がならんでこちらを見ている」(大田和子の手記)

 開会の時間が迫っていた。


 「(公会堂に入れず)堂島川べりの横三列の最前列に並んだ」という婦人部員の手記には、地下鉄の淀屋橋駅から中央公会堂まで、参加者の長蛇の列ができたと綴られている。

「向こうの道路が、にわかに騒がしくなった」──池田が早足で公会堂に向かっていた。

「スルスルと列の中に分け入り、ちょうど私たちの目の前で止まられた。わざわざ端の方にいたわずかな学会員に向かって『ただいま池田が戻ってまいりました』とあいさつされた」。

 そして池田は両手を振り上げ、学会歌の指揮を執り始めた。

「大半の人が地検の方向に向かう姿勢で大合唱した」。池田が急ぎ足で公会堂の中へ消えていく。あっという間の出来事だった。

 しばらくして、臨時に設置されたスピーカーから音楽隊の勇壮な演奏が聞こえ始めた。

  「ただいま戻ってまいりました」 ①


 「ずいぶん早く着いたつもりでしたが、もう公会堂を二重三重に、ぐるりと人が取り巻いていました」(大野末一。大阪市、総県主事)

 公会堂に入りきらない参加者のため、土佐堀川沿いの難波橋まで広がるスペースに臨時会場が用意された。

 堺支部の藤島廣通がマイクロホンを準備し、公会堂から臨時会場までの配線に苦労を重ねた。

「父はかつて電気計測器の町工場を営んでいました。夏になるとよく大阪大会の歴史を話し手くれました」(次男の藤島正廣。東大阪市、支部長)。藤島たちは公会堂の南口から土佐堀川沿いまでマイクコードを引き、テニス場を越えたところでアンプと二台のスピーカーにつなげた。


 西日本の各地からも続々と人が集まった。前年の5月、大阪支部が「一万1111世帯」という未曽有の弘教を成し遂げたことはすでに述べた。岡山からバスをチャーターして参加した黒田精将(倉敷市、圏主事)や河本一郎(津山市、圏主事)は、この「一万1111世帯」の一人である。

 今では信じられないことだが、河本たち津山に住んでいた男子部員は当時、大阪まで自転車行き来したこともある。「湯山の自転車隊」と呼ばれた。

「朝5時に城下町の津山を出て、夜の8時に大阪の拠点に着きました。汽車に乗るお金がなかったからね」と河本は笑う。「大阪大会では役員として正面入り口の整理、誘導を担当しました」。