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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  一杯の水 ④


 小山照子(大阪府交野市、総県婦人部主事)は昼に池田の釈放を出迎えた後、マスコミ関係者の応対を手伝った。

「開会前、控え室の新聞記者さんに冷たいお茶とおしぼりを配ってまわりました。でも皆さんプイッと横を向いちゃって、誰一人として『ありがとう』とか、言葉の一つもない。靴をはいたまま机の上に足を投げ出す記者までいました」。

 記者たちは二階席に陣取った。博多敏雄(八尾市、副県長)はマスコミ対応で彼らの隣に座っていた。

「ある新聞社の記者は、戸田先生のあまりの剣幕に顔色を変え、途中で席を立ちかけました」。博多は「あなたも記者なら、最後まで聞いてから帰ったらどうですか」と引き止めた。


 大会が終わり、取材陣を見送った博多は、さっきの記者から声をかけられた。

「それまでの学会を見下した態度ではなく、『説明してほしい』と頼まれました。彼は帰り際、場外の人たちの姿を目の当たりにしたんです」。──公会堂の場内まで震えるような雷鳴と豪雨の中で、どうしてこれほど多くの人が帰らずに参加し続けたのか。そう記者に問われた。

「私はうれしくて『見てください。雨が降ろうが嵐が吹こうが、庶民を守るために戦うのが創価学会なんですよ。しっかり書いてくださいよ』と一生懸命話しました」。

   一杯の水 ③


 最後に登壇した戸田は「会長質問会」を開いた。「思うままに私に聞いてください」と語りかける戸田に対して、たくさんの手が上がった。検察の態度に納得できないという質問には「(検察は)けしからん!」と応じ、大新聞をはじめとするマスコミを強烈に批判した。

 

 戸田の悠然とした質疑応答に安心した参加者からは、「勤行の順番について」「供養の精神について」など、ふだんの信仰をめぐる質問が飛び出した。少々場違いな質問にも、戸田は笑いながら一つずつ丁寧に答えた。


 質問会を終えて演壇から離れた後、戸田はもう一度マイクに近づき、「こっち(=事件)のことなんか心配しないで、自分たちが幸せになりなさいよ」と参加者に呼びかけた。怒りや不安に左右されることなく、信仰の王道を進むよう、戸田は念を押したのである。何度も場内を揺らした拍手がもう一度、公会堂に響いた。

   一杯の水 ②


 山下だちの頭上に「大悪をこ(起)れば大善きたる・・・・・」と、日蓮の言葉を引用する池田の声が響いた。「さらに、より以上の・・・・・信心で、皆さまとともに・・・・邁進しゆく決心で・・・・」。場内外の2万人が、耳をそばだてている。ぶつっ、ぶつっという雑音の向こうから、スピーカーは池田の声を伝え続けた。


 最後に池田は渾身の力を込めて「・・・・最後は信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が必ず勝つという信念で、やろうではありませんか!」と叫んだ。場内にいた北側義一(平野区、総区主事)は「あの先生の声が雷鳴のようだった」と語る。


 池田の声を大阪大会で初めて聞いた人も多かった。福井から参加した中河ひろ子(大飯郡、県婦人部主事)。5か月前に信心を始めたばかりだった。

 太平洋戦争の敗戦時、中河は女子挺身隊として満州(現在の中国東北部)にいた。18歳だった。虐殺と略奪に遭い、70人の仲間のうち33人が命を落とした。その凄惨な体験は学会婦人部の反戦出版(『引き揚げ編 あの星の下に』第三文明社)に詳しい。文字通り死線をくぐり抜けた中河は、結婚後の労苦が続いた。

「次女の脳水腫、母の頭痛、夫の酒の多さ・・・・さまざまな悩みがありましたが、夫婦で信心を始めて、徐々に、すべてが快方に向かいました」。


 所属する舞鶴地区の人々から「学会には池田というすごい人がいる」とは聞いていた。一度も会ったことはなかった。大阪大会は「学会の一大事だからしっかり見ておこう」と誘われた。

「場内で初めて先生の声を聞きました。あのすごい気迫に感動して、帰りの汽車でも夫婦で『よし、うちらも帰って折伏しよう』と話し合いました」。

 中河夫妻は、その後の3年間で嶺南地域の学会員を103世帯にまで広げた。小浜支部の初代支部長、支部婦人部長などを歴任し、若狭一帯を支える柱となっていく。

   一杯の水 ①


 壇上に立った池田の前を、上手(かみて)から入場した戸田が、微笑みながら横切っていく。万雷の拍手が止んだ後、司会が一呼吸置いて池田の登壇を告げた。再び拍手場内を圧した。20秒以上、鳴り止まない。池田が「皆様・・・・」と話し始めても、まだ終わらなかった。

 まず池田は「場外の皆さま。場外の同志の皆さま。しばらくぶりでございました」と呼びかけている。そして遠慮がちに「お水を一杯・・・・・しばらくですから・・・・」と言った。


 おもむろに戸田城聖が椅子から立ち上がり、演壇のコップに水差しで水を注いだ。戸田が自ら水を入れるとは、誰も思っていなかった。公会堂はこの日最も大きな拍手に包まれ、これも20秒ほど鳴り止まなかった。壇上で微笑む戸田の印象を、冨岡と志は「(池田先生を)いとおしくてたまらない、頼もしい、とばかりに、度の強い眼鏡の奥から細めた眼差し」と書き残している。喉をうるおした池田は、再びマイクに向かった。出獄直後であり、戸田から事前に「今日は短めでいい」とアドバイスされていた。


 場外の臨時会場にいた山下道夫(守口市、副圏長)。

「夕方5時に大阪高裁の郵便局の仕事が終わると、一目散に公会堂へ走りました。池田先生の声がスピーカーに流れたころは、全身ズブ濡れです。でも一人として立ち去る人はいなかった」と語る。

 「私の前のご婦人は、子どもをタオルで巻き、胸の下にかき抱き、背を丸めて大雨を受けておられた。胸の底から熱いものが吹き上げてきて仕方なかった」

「『敗けて泣くより、泣いて勝とう』という関西の伝統は、この大阪事件の苦闘の中で本物になっていったのだと思います」