民衆こそ王者ー池田大作とその時代 青年の譜(9)「大阪事件」(3) 16 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  「ただいま戻ってまいりました」 ①


 「ずいぶん早く着いたつもりでしたが、もう公会堂を二重三重に、ぐるりと人が取り巻いていました」(大野末一。大阪市、総県主事)

 公会堂に入りきらない参加者のため、土佐堀川沿いの難波橋まで広がるスペースに臨時会場が用意された。

 堺支部の藤島廣通がマイクロホンを準備し、公会堂から臨時会場までの配線に苦労を重ねた。

「父はかつて電気計測器の町工場を営んでいました。夏になるとよく大阪大会の歴史を話し手くれました」(次男の藤島正廣。東大阪市、支部長)。藤島たちは公会堂の南口から土佐堀川沿いまでマイクコードを引き、テニス場を越えたところでアンプと二台のスピーカーにつなげた。


 西日本の各地からも続々と人が集まった。前年の5月、大阪支部が「一万1111世帯」という未曽有の弘教を成し遂げたことはすでに述べた。岡山からバスをチャーターして参加した黒田精将(倉敷市、圏主事)や河本一郎(津山市、圏主事)は、この「一万1111世帯」の一人である。

 今では信じられないことだが、河本たち津山に住んでいた男子部員は当時、大阪まで自転車行き来したこともある。「湯山の自転車隊」と呼ばれた。

「朝5時に城下町の津山を出て、夜の8時に大阪の拠点に着きました。汽車に乗るお金がなかったからね」と河本は笑う。「大阪大会では役員として正面入り口の整理、誘導を担当しました」。