EIKOの気まぐれ闘病日記 -103ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「助けて勝ち 助けられて 進むなり」 ④


 敬一に真っ先に信心を勧めたのは兄の厚至だった。鶴橋駅前で「みどり屋」という食堂を営んでいた。次女の井上清子(生野区、支部副婦人部長)が振り返る。

「父は社交的な反面、人のよすぎるところがありました。食品組合ある人から頼まれ、店を抵当に入れてお金を貸したんです。しかし、その人がお金を使いこんでしまい、家族そろってテントくらしになったことがありました」。

 11人家族だった。立ち退き先もなく、役所に頼み込み、差し押さえられた店の前に一時的にテントを張った。転居先が決まるまでの半年ほど、ご飯と塩昆布だけの日が続き、雨が降るとテントの中で傘を差した。近所からは「創価学会に入ればどうなるか知りたかったら鶴橋駅のガード下へ行け」と揶揄された。


 後年、富井厚至は池田と懇談した際、テント暮らしの苦境の日々を語った。池田の「知ってるよ。ぼくも行ったよ」という一言に、厚至は絶句した。厚至が不在の時に、池田は一家の住むテントを訪れたことがあったのである。

「先生は、関西の学会のことを本当にすみずみまでご存じだったのだと思います」四男の富井修(天王寺区、副支部長)は語る。厚至の8人の息子たちは独り立ちした後、学会活動と仕事に励み、全員が自分の家を建てている。


 池田は釈放後、勾留中に読んだ何冊かの本を関西の同志に贈った。そのうちの一冊、フランスの詩人ビクトル・ユゴーの選集には、池田の跳ねるような筆跡で次の言葉が記されている。

 「正義乃戦ハ一生續(つづく)く 助けて勝ち 助けられて進むなり」


 「助けて勝ち 助けられて 進むなり」 ③


 「あの日のかき氷は、父が用意させていただいたと言っていました」と富井保亘(大阪市城東区、副ブロック長)が語る。関西本部の向かいに「とみや」という大衆食堂があった。店主の富井敬一が保亘の父である。

「メニューは丼ものとか焼きそば、お好み焼きなど。うどんが一杯30円くらいだったと思います」。


 敬一は太平洋戦争でシベリアに抑留された。ラーゲリ(強制収容所)でロシア語を覚え、簡単な通訳もやった。

「父は理屈屋で、戦後、学会の座談会に誘われるたびに『今日も勝ったぞ』と言って帰ってきた。何度も幹部をやり込めたようでした」(次男の俊亘。生野区、地区幹事)。白木義一郎たちと何度も対話を重ね、敬一はまず妻に信心を勧めた。しばらくして自分も始めたが、熱心ではなかった。しかしある日、興奮した口ぶりで『あの人はすごいで』と家族に言った。

「関西本部に来られていた池田先生が、父の食道でご飯を食べ、いろいろ懇談してくださったんです。父が変わったのはそれからでした」(俊亘)。

 皆さん、いつもありがとうございます


 <m(__)m>


 昨日夢の中に昔食べていたある食


べ物が出てきてどうしても食べたくな


ってしまいました。


 私は車の運転ができないので、路線


バスを乗り継ぎその食べ物が売ってい


る木更津のスーパーへ出かけ、無事買


うことができました。


 木更津は昨年、三井アウトレットパー


クが出来て話題になっているのですが、


アウトレットパークから離れている駅前


の商店街は閑散としていて、昔の大型


スーパーの跡地は、コインパーキング


になっていて


かなりショックでした。


一昔前は「木更津キャッツアイ」でファ


ンの方が観光に来ていたのに・・・・・。


今日はかなり歩いたので良い運動に


なりました。



 「助けて勝ち 助けられて 進むなり」 ②


 戸田の体調は、決して良いとは言えない状況だった。

「お身体は痩せられ、声はかすれ、階段を上がられるのも大儀そうでした」当時、学会本部に勤めていた山浦千鶴子(東京都小平市、総区婦人部主事)が回想する。

「食事も流動的なものを取られることが多く、栄養剤も取られていました。インスリンの注射もされていました。それは太い注射で、皮膚には針の跡が痛々しく残っていました。それでも戸田先生は毅然として指揮をとられました」。


 関西本部に戻った池田は、ドアを開けるなり「ただいま!」と言い、戸田も「帰ったよ」と声をかけた。

「関西本部の管理者だった父(=福生伊八)は、池田先生が広間で題目を三唱した後、畳をなでて『家はいいなあ。本部はいいなあ』としみじみ言われたことを、よく話してくれました」(福生謙一。大阪市鶴見区、副本部長)


 この時、戸田は出獄したばかりの池田にかき氷をふるまった。福生伊八は「戸田先生の真心には、胸が痛くなるような思いが迫ってきた」と書き残している。学会では関西に限らず、今も7月17日にかき氷を食べる人が少なくない。

 「助けて勝ち 助けられて 進むなり」 ①


 池田の日記は「午後1時30分、伊丹空港へ、(戸田)先生を、お迎えに行く」と続いている。空港に到着した戸田城聖は開口一番、音楽隊は来ているか、と確かめた。

 音楽隊の有島重武たち40人は17日の早朝、すでに夜行列車で来半していた。

「ウイークデーなので、人選に苦慮した記憶がある。自営業のメンバーを中心に編成した」(有島の手記)。関西本部に着いた有島たちは勤行の後、関西の同志が用意してくれた心尽くしの卵かけごはんをかき込んだ。

「(中之島へ向かうには)早すぎるのではという声もあったが、一刻も早く会場を見たい思いで、中央公会堂に赴いた「(同)。


 すでに大勢の参加者が詰めかけていた。案内役の沖本泰行が、堂島川の向こう岸を指差した。

「あの建物が、池田室長が拘束されている(大阪)地検ですよ」。

 午前中、有島たちは大阪地検にいる池田に聞こえるように、堂島川に向かって渾身の演奏を続けた。

「朝から弁当、水筒をさげて親子4人で中之島へ行きました。午前9時半ごろ中之島に着きますと音楽隊がドンドンと大阪地検の方に向かって演奏していました」(池波文子の手記)。