EIKOの気まぐれ闘病日記 -104ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「生涯、忘れまいぞ」 ⑤


 原爆の後遺症に苦しんできた横山は「あの7月17日から、私の信仰の目的は変わったとです。自分のための祈りが、人のために変わりました」と語る。

 後年、横山は学会活動に励みながら、「県原爆被害者の会」の理事などを務めた。今も1年に数回、延岡市内の中学や高校で、戦争と原爆の悲劇を語り続けている。


 池田は日記に「このこの日、17日──午後の12時10分──出所す。大阪の同志数百名が、迎えに来てくれる。嬉し」 「大阪の友ののこと、また東京より、心配して、馳せ参じてくれた友のことは、生涯、忘れまいぞ」と記した。


  「生涯、忘れまいぞ」 ④


 面谷は翌年秋、関西で行われた体育大会に参加した池田を撮影した。

「自分なりに上手く撮れた先生の写真を大きく引き伸ばして、大田区のご自宅に郵送したんです。すぐに奥様の代筆で返信がきました」。

 香峯子の文面には──今年の関西体育大会の唯一の記念写真です。あまり大きいので、細かいところまではっきりうつっていて、はずかしいと申しております・・・・・・これからの寒さににも負けず、毎日の生活を楽しく励んでくださいと伝言でございます・・・・・と記されていた。

 「幹部でもない自分宛てに、こんな丁寧な礼状が来たので驚きました。『ああ、池田先生という方は、こういう方なんだ』と実感しました」


 宮崎から参加した横山嘉寿美と山田千鶴。この時、池田を初めて目にした。宮崎まで来てくれる大阪の先輩から、折あるごとに「池田先生も『不可能を可能にする信心』と言われてはるんや。一緒にがんばろな」と励まされてきた。

「どれほど憔悴されているだろうかと心配していました。しかし一人一人に『ご心配をおかけしました』と声をかけながら、堂々と歩いておられた。先生はどんな状況でも同志を励ます人です。あの場に居合わせた感動は今でも忘れません」(山田)


 

 皆さん、新年明けましておめでとうござ


います。今年もよろしくお願いします。


 昨年中は沢山の方にお世話になり、と


ても励みになりました。


 本当にありがとうございました。


 今年もマイペースで更新していきますね。

 今年も後1日を残すだけとなりました


ね。毎年思いますが、1年が年々早く


感じます。


 今年もペタやコメント、ありがとうござ


いました。連載の読者の皆さんありが


とうございました。多分今日が最後の


更新になると思います。


 皆さんどうぞ良いお年をお迎えくださ


いね。来年もどうぞよろしくお願いします


<m(__)m>


 「生涯、忘れまいぞ」 ③


 「出獄された先生の姿を見た瞬間、『ああ、少し細くなられた』と思いました」(立花丸子)

 沸き起こる歓喜の中で、面谷裕之(大阪市港区、地区幹事)はカメラのピントを拘置所の扉に合わせていた。聖教新聞関西支局の通信員だった。

「あの頃はヤシカフレックスという縦長のカメラで撮っていました。飯島さんという先輩と一緒に取材しました」。


 釈放された池田の前に回り込み、ゆっくりとした池田と香峯子の歩調に合わせ、後ずさりしながら夢中でシャッターを切った。

 面谷は中学2年の時に和歌山から大阪に出て、紙屋に住み込みで働いた。1954年(昭和29年)に信心を始め、趣味の写真が座談会で評判になり、通信員になった。

 「フラッシュがうまく同調しない時、電池が残っているかわからんので、カメラとの接続部に舌先をつけるんです。するとビリッと天竜が走り、フラッシュが光る。そんな試行錯誤ばかりでした。取材も慣れないことの連続で、御書(日蓮の遺文集)講義中の戸田城聖の目の前でうっかりフラッシュをたいてしまい、一喝されたこともある。

 「私は当時、池田先生が拘留された深い意味まではわからんかった。ただ、集まった人々の熱気に包まれながら、この光景は絶対に残さなあかんと感じた。とにかく必死で撮りました」。


大阪大会の開始前、中央公会堂に大勢の人が集まっている写真は、近くの木に登って撮影した。