親鸞・唯円「歎異抄」読解1~1-10条 | ejiratsu-blog

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親鸞・唯円「歎異抄」要約

親鸞の思想

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 『歎異抄(たんにしょう)』は、主に親鸞(しんらん、浄土真宗の開祖)の言葉(1~10条)と、唯円(ゆいえん、親鸞の弟子)による異説への批判(11~18条)からなり、以下のように、日本語訳してみました。

 なお、ここでは、わかりやすくするために、敬語を省略しています。

 

 

●親鸞の言葉

 

○序

・窃廻愚案、粗勘古今、歎異先師口伝之真信、思有後学相続之疑惑、幸不依有縁知識者、争得入易行一門哉。全以自見之覚語、莫乱他力之宗旨。

 

[ひそかに愚案を廻(めぐ)らして、ほぼ古今を勘(かんが)うるに、先師の口伝(くでん)の真信に異なることを歎(なげ)き、後学相続の疑惑あることを思うに、 幸いに有縁の知識に依(よ)らずんば、いかでか易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。まったく自見(じけん)の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。]

 

《ひそかに、愚かな自分の意見をめぐらせて、だいたい昔と今を考えると、先師(親鸞)が口伝した真実の信心が、異なっていることをなげき、後世の学説の継承に疑惑があることを思うと、幸いにも、縁のある知識によらなければ、どうして、容易な修行の一門(浄土門)に入ることが得られるのか。けっして自分の見識の承知によって、他力の宗派(浄土宗)の主旨を乱すことのないように。》

 

・仍故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、聊註之。偏為散同心行者之不審也。云々。

 

[よって、故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留(どど)むる所、いささかこれを註(しる)す。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり、うんぬん。]

 

《よって、故・親鸞聖人のお教えの趣旨で、耳の奥底に残っていることを、わずかに、これを書き記す。いちずに、同心の修行者の不審を散失させるためなのだ。等々。》

 

 

○第1条

・一、「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂(と)ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思い立つ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益に与(あず)けしめ給(たま)うなり。

 

《1、「阿弥陀仏の誓願の不思議さに助けられて、往生を成し遂げるのだ」と信じて、「念仏を唱えよう」と思い立つ心が起こった時、つまり摂取して捨てない利益に、関与させられるのだ。》

 

・弥陀の本願には、老少・善悪の人を択(えら)ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛(しじょう)の衆生(しゅじょう)を助けんがための願(がん)に坐(ま)します。

 

《阿弥陀仏の本願は、老人か少年か・善人か悪人かを選択せず、ただ信心を必要とするのを知ることができる。その理由は、罪悪が深く重く・煩悩が激しく盛んな人々を、助けるための願いであるからだ。》

 

・しか(然)れば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏に勝(まさ)るべき善なきがゆえに。悪をも恐るべからず、弥陀の本願を妨(さまた)ぐるほどの悪なきゆえにと云々。

 

《それだから、本願を信じるには、他の善を必要とせず、念仏にまさることができる善がないからだ。悪も恐れてはいけない。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪は、ないからなのだ。等々。》

 

 

○第2条

・一、各々十余箇国の境を越えて、身命を顧みずして、 訪ね来(きた)らしめ給(たま)う御(おん)志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。しか(然)るに、念仏より外(ほか)に往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心憎(にく)く思(おぼ)し召(め)して御座(おわ)しまして侍(はんべ)らんは、大きなる誤りなり。もししか(然)らば、南都北嶺にも由々(ゆゆ)しき学匠達(たち)多く御座(おわ)せられて候(そうろ)うなれば、かの人にも会い奉(たてまつ)りて、往生の要よくよく聞かるべきなり。

 

《2、各々10余ヶ国を越境して、わが身の命を気にかけないで、訪ねて来られた、ご意志は、いちずに、往生・極楽の道を問い聞こうとするためなのだ。それなのに、念仏以外に、往生の道も承知し、また、教えの文章等も知っているだろうと、気がかりに思っていて、つきしたがうのは、大きな誤りなのだ。もし、そうであれば、南都(興福寺)・北嶺(延暦寺)にも、立派な学者達が多くいるので、あの人にも会って、往生の必要を充分に聞くことができるのだ。》

 

・親鸞にお(於)きては、ただ念仏して弥陀に助けられ参らすべしと、よ(善)き人の仰せを被(こうむ)りて、信ずる外(ほか)に、別の子細(しさい)なきなり。

 

《親鸞においては、ただ念仏だけで、阿弥陀仏に助けられることができると、よい人の、お言葉を受けて信じる以外に、別の理由はないのだ。》

 

・念仏は、まこと(誠)に浄土に生るる種(たね)にてや侍(はんべ)るらん、また地獄に堕(お)つべき業にてや侍(はんべ)るらん。総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすか(賺)され参らせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候う。

 

《念仏は、本当に、浄土に生まれる種子に、つきしたがうのだろう。また、地獄に落ちるはずの行為に、つきしたがうのだろう。すべて、それで承知しないのだ。たとえ、法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちても、さらに後悔すべきでないのだ。》

 

・そのゆえは、自余(じよ)の行も励みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、すか(賺)され奉(たてまつ)りてという後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)住処(すみか)ぞかし。

 

《その理由は、それ以外の修行も励んで、成仏することのできる身が、念仏を唱えて、地獄に落ちることがあるならば、だまされたという後悔もあるだろう。どちらの修行も、及びにくい身ならば、結局、地獄は、必ず住み家なのだな。》

 

・弥陀の本願まこと(誠)に御座(おわ)しまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まこと(誠)に御座(おわ)しまさば、善導の御釈、虚言し給(たま)うべからず。善導の御釈まこと(誠)ならば、法然の仰せ、空言(そらごと)ならんや。法然の仰せまこと(誠)ならば、親鸞が申す旨(むね)、またもって虚(むな)しかるべからず候うか。

 

《阿弥陀仏の本願が、本当にあるならば、釈迦の説教は、ウソのはずがない。仏の教説が、本当にあるならば、善導のご解釈も、ウソであるはずがない。善導のご解釈が、本当ならば、法然のお言葉は、ウソになるのか。法然のお言葉が、本当ならば、親鸞が申す主旨も、また、それで空虚になるはずはないだろう。》

 

・詮(せん)ずるところ、愚身の信心にお(於)きてはかくのごとし。このうえは、念仏を取りて信じ奉(たてまつ)らんとも、また捨(すて)んとも、面々の御計(はか)らいなりと云々。

 

《つまるところ、愚かな身の信心においては、このようなものだ。これ以上は、念仏を摂取して信じても、また、捨てても、各々のお計らいなのだ。等々。》

 

 

○第3条

・一、善人なお(猶)もって往生を遂(と)ぐ、いわん(況)や悪人をや。

 

《3、「善人は、なおも、それで往生を成し遂げる。ましてや、悪人は、なおさらだ」。》

 

・しか(然)るを世の人常に曰(いわ)く、「悪人なお(猶)往生す、いか(如何)にいわん(況)や善人をや」。 この条、一旦その謂(いわ)れあるに似たれども、本願他力の意趣に背(そむ)けり。そのゆえは、自力作善(さぜん)の人は、ひとえに他力を恃(たの)む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しか(然)れども、自力の心を翻(ひるがえ)して、他力を恃(たの)み奉(たてまつ)れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

 

《ところが、世の中の人は、いつもいう、「悪人は、なおも、往生する。何と、ましてや、善人は、なおさらだ」と。この条項は、一時、その由来があるのが、類似していても、他力本願の意味・趣旨に背反している。その理由は、自力で善を作為する人には、いちずに他力を頼る心が欠けている間なので、阿弥陀仏の本願がない。しかし、自力の心を引っくり返して、他力を頼れば、真実の浄土の往生を成し遂げるのだ。》

 

・煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、哀(あわ)れみ給(たま)いて願(がん)を起こし給(たま)う本意、 悪人成仏のためなれば、他力を恃(たの)み奉(たてまつ)る悪人、もっとも(尤)往生の正因なり。

 

《煩悩を充分に備え持つ我らは、どんな修行をしても、生死を離れることができないのを、(阿弥陀仏が、)同情して、願いを起こす本意は、悪人の成仏のためならば、他力を頼る悪人なので、最も往生の直接要因なのだ。》

 

・よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと仰(おお)せ候(そうろ)いき。

 

《よって、善人ですら、往生するので、ましてや、悪人は、なおさらだ、という、お言葉がある。》

 

 

○第4条

・一、慈悲に聖道(しょうどう)・浄土の変わり目あり。

 

《慈悲には、聖道門と浄土門で、相違点がある。》

 

・聖道の慈悲というは、もの(物)を哀(あわ)れみ、悲しみ、育(はぐく)むなり。しか(然)れども、思うがごとく助け遂(と)ぐること、極めてありがたし。

 

《聖道門の慈悲というのは、ものに同情し、悲しみ、育てることなのだ。しかし、思うように助けて、成し遂げることは、とてもめずらしい。》

 

・浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、思うがごとく衆生(しゅじょう)を利益(りやく)するをいうべきなり。

 

《浄土門の慈悲というのは、念仏して、すぐに成仏し、大慈悲心によって、思うように人々を利益するということができるのだ。》

 

・今生(こんじょう)に、いか(如何)に愛(いと)おし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終(しじゅう)なし。しか(然)れば、念仏申すのみぞ、末(すえ)徹(とお)りたる大慈悲心にて候(そうろ)うべきと云々。

 

《生前に、どんなに大事で、かわいそうだと思っても、承知のように、助けにくいならば、この慈悲は、完全でない。そうであれば、ただ念仏を唱えるだけが、最後まで一貫した大慈悲心であるはずだ。等々。》

 

 

○第5条

・一、親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候(そうろ)わず。

 

《5、親鸞は、父母への孝行の供養のために、一度も念仏を唱えたことは、まだない。》

 

・そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母・兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候うべきなり。

 

《その理由は、すべての感情のあるものは皆、それで生まれ変わりを繰り返す万世での、父母・兄弟だからなのだ。いずれも、これが順次、生まれて、成仏して、助けのあることができるのだ。》

 

・わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を回向(えこう)して父母をも助け候わめ。

 

《私の力で励んだ善であれば、念仏を(自から他へ)差し向けて、父母にも助けがある。》

 

・ただ自力を捨てて、急ぎ浄土の悟りを開きなば、六道・四生(ししょう)の間、いずれの業苦に沈(しず)めりとも、神通方便をもって、まず有縁を度(ど)すべきなりと云々。

 

《ただ自力を捨てて、すぐに浄土の悟りを開けば、6道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)・4生(胎生・卵生・湿生・化生)の間には、どんな行為の苦しみに沈んでも、神通力・方便によって、まず縁のある人を救うことができるのだ。等々。》

 

 

○第6条

・一、専修念仏の輩(ともがら)の、「わが弟子、人の弟子」という相論の候(そうろ)うらんこと、もっての外(ほか)の子細(しさい)なり。

 

《6、専修念仏(ひたすら念仏を唱えるだけ)の人達が、「私の弟子だ、他人の弟子だ」といい、論じ合いがあるということは、とんでもない理由なのだ。》

 

・親鸞は弟子一人も持たず候う。そのゆえは、わが計らいにて、人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ。弥陀の御催(もよお)しに与(あずか)って念仏申し候う人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。

 

《親鸞は、弟子を一人も持ないでいる。その理由は、私の計らいで、他人に念仏を唱えさせることがあるならば、弟子にも(それが)ある。阿弥陀仏のご主催に関与して、念仏を唱えることがある人を、「私の弟子」と申すことは、とても軽率なことなのだ。》

 

・付(つ)くべき縁あれば伴(ともな)い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、「師を背(そむ)きて、人に連(つ)れて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどということ、不可説なり。如来より賜(たまわ)りたる信心を、わがもの顔に、取り返さんと申すにや。かえ(返)すがえ(返)すも、あるべからざることなり。

 

《付くことができる縁があれば、伴って、離れることができる縁があれば、離れることがあるのに、「師に背いて、他人に連れて念仏すれば、往生することができないものなのだ」等ということは、説明することができない。如来から頂戴した信心を、わが物顔で取り返そうと申すのか。くれぐれも、あることができないものなのだ。》

 

・自然の理(ことわり)に相(あ)い適(かな)わば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなりと云々。

 

《自然の摂理に適合すれば、仏の恩も知り、また、師の恩も知ることができるのだ。等々。》

 

 

○第7条

・一、念仏者は無碍(むげ)の一道なり。その謂(いわ)れいかん(如何)とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍(しょうがい)することなし。 罪悪も業報(ごうほう)を感ずること能(あた)わず、諸善も及ぶことなきゆえなりと云々。

 

《7、念仏なるものは、障害のない、ひとつの道なのだ。その由来は、何かといえば、信心の修行者には、天の神も地の神も、崇敬・平伏し、魔界も邪道も、妨害することがない。罪悪も、行為による応報を感じることができず、様々な善も、及ぶことがないからなのだ。等々。》

 

 

○第8条

・一、念仏は行者のために、非行・非善なり。わが計らいにて行ずるにあらざれば、非行という。わが計らいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには、非行・非善なりと云々。

 

《8、念仏は、修行者のために、非行・非善なのだ。私の計らいで行うのではないので、非行という。私の計らいで作る善でもないので、非善という。いちずに他力で、自力を離れたからで、修行者のためには、非行・非善なのだ。等々。》

 

 

○第9条

・一、念仏申し候(そうろ)えども、踊躍(ゆやく)歓喜の心おろそ(疎)かに候うこと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いか(如何)にと候うべきことにて候うやらんと、申し入れて候いしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり。

 

《9、念仏を唱えることがあっても、踊り喜ぶ心が、おろそかであること、また、すぐに浄土へ参上したい心がないのは、どうしてかと、あるはずのことで、あるだろうかと、申し入れがあれば、親鸞も、この不審があったのに、唯円も、同心であるのだ。》

 

・よくよく案じみれば、 天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、 いよいよ往生は一定(いちじょう)と思い給(たま)うなり。喜ぶべき心を抑えて、喜ばざるは、煩悩の所為(しょい)なり。しか(然)るに仏かねて知(し)ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごとし、我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼(たの)もしく覚(おぼ)ゆるなり。

 

《充分に考えてみれば、天に踊り、地に踊るほどに、喜ぶことができるのを喜ばないで、充分に往生は、必ず思っているのだ。喜ぶことができる心を抑えて、喜ばないのは、煩悩の仕業なのだ。ところが、仏は、以前から知っていて、煩悩を充分に備え持つ凡人といっていたのならば、他力の悲願は、このようなもので、我らのためなのだと知らされて、充分に頼りになると思えるのだ。》

 

・また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)より今まで流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候うこと、まこと(誠)によくよく煩悩の興盛に候うにこそ。名残惜(お)しく思えども、娑婆(しゃば)の縁尽きて、力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。急ぎ参りたき心なきものを、こと(殊)に哀れみ給(たま)うなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候え。

 

《また、浄土へすぐに参上したい心がなくて、わずかに疲労することがあっても、死ぬのではないかと、心細く思うことも、煩悩の仕業なのだ。永遠の昔から今まで、流転する苦悩の故郷は、捨てがたく、まだ生まれていない安養の浄土は、恋しくないことであるのは、本当に充分に煩悩の興隆にあるのだ。名残惜しく思っても、現世の縁が尽き果てて、力がなくて終了する時に、あの浄土へ参上することができるのだ。すぐに参上したい心がないものを、とりわけ同情するのだ。これについて、充分に大悲願は、頼りになり、往生は、必ずあるのだ。》

 

・踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、怪(あや)しく候いなましと云々。

 

《踊り喜ぶ心もあり、すぐに浄土へ参上したいこともあるのには、煩悩がないのだろうかと、気がかりであるのだろうに。等々。》

 

 

○第10条

・一、念仏には無義をもって義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰(おお)せ候(そうろ)いき。

 

《10、念仏は、無意義を意義とする。称賛することもできず、説明することもできず、思い計ることもできないためだ、という、お言葉がある。》

 

 

(つづく)