親鸞・唯円「歎異抄」読解2~11-14条 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●唯円による異説への批判

 

 

○別序

・そもそもかの御在生(ございしょう)の昔、同じく志をして、歩みを遼遠(りょうえん)の洛陽に励まし、信を一つにして心を当来の報土にかけし輩(ともがら)は、同時に御意趣を承(うけたまわ)りしかども、その人々に伴いて念仏申さるる老若(ろうにゃく)、その数を知らず坐(おわ)します中に、聖人の仰(おお)せにあらざる異義どもを、近来は多く仰せられおうて候(そうろ)う由(よし)、伝え承(うけたまわ)る。謂(いわ)れなき条々の子細(しさい)のこと。

 

《そもそも、あの(親鸞聖人が)ご存命の昔には、同じ意志で、歩みを遥か遠くの京都にまで至り、信心をひとつにして、来世の浄土を望んだ人達は、同時に(親鸞聖人の)ご意味・趣旨を受けたが、その人々に連れ添って、念仏を申した老人・若者は、その数がわからないほどいた中に、(親鸞)聖人のお言葉でない異議が、最近、多くいわれていることが伝えられている。由来のない条項の詳細のこと。》

 

 

○第11条

・一、一文不通の輩(ともがら)の念仏申すに会(あ)うて、「汝(なんじ)は誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、言い驚かして、二つの不思議を子細(しさい)をも分明に言い開かずして、 人の心を惑わすこと。

 

《11、読み書きができない人達が、念仏を申すことに対して、「あなたは、誓願の不思議さを信じて、念仏を申すのか、また、名号(南無阿弥陀仏)の不思議さを信じているのか」といって驚かせて、2つの不思議さを、詳細・明確に分別・弁別することをせずに、人の心を困惑させること。》

 

・この条、かえ(返)すがえ(返)すも心を留(とど)めて、思い分(わ)くべきことなり。

 

《この条項は、くれぐれも心に留めて、識別すべきことなのだ。》

 

・誓願の不思議によりて、やすく保ち、称(とな)えやすき名号を案じ出(いだ)し給(たま)いて、「この名字を称えん者を迎え取(と)らん」と、御約束あることなれば、まず「弥陀の大悲大願の不思議に助けられ参らせて生死を出(い)ずべし」と信じて、「念仏の申さるるも如来の御計(はか)らいなり」と思えば、少しも自(みずか)らの計らい交(まじ)わらざるがゆえに、本願に相応して実報土に往生するなり。

 

《誓願の不思議さによって、(念仏)しやすく保ち、唱えやすい名号を考え出されて、「この名号を唱えた者を迎え入れよう」と、お約束があることになれば、まず、「阿弥陀仏の大悲願の不思議さに助けられて、生死を抜け出ること(解脱)ができる」と信じて、「念仏を申すのも、阿弥陀如来のお計らいなのだ」と思えば、少しも自分での計らいが交じっていないので、本願に相応して、実際の浄土に往生するのだ。》

 

・これは誓願の不思議を旨(むね)と信じ奉(たてまつ)れば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議一つにして、さらに異なることなきなり。

 

《これは、誓願の不思議さを主旨と信じれば、名号の不思議さも備え持って、誓願・名号の不思議さをひとつにして、さらに異なることがないのだ。》

 

・次に自らの計らいを差し挟(はさ)みて、善悪の二つにつきて、往生の助け・障(さわ)り、二様に思うは、誓願の不思議をば頼(たの)まずして、わが心に往生の業を励みて、申す所の念仏をも自行に為(な)すなり。この人は、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢(へんじけまん)・疑城胎宮にも往生して、果遂(かすい)の願のゆえに、遂(つい)に報土に生ずるは、名号不思議の力なり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただ一つなるべし。

 

《次に、自分での計らいを割り込ませて、善・悪の2つについて、往生の助けか・妨げか、2種を思うのは、誓願の不思議さに頼らないで、わが心で往生の行為を努力して、申す念仏も、自力の行為とするのだ。この人は、名号の不思議さを、やはり信じていないのだ。信じていなくても、辺地で怠惰・疑心・胎生の浄土に往生して、果たし遂げる願い(阿弥陀仏48願の第20)なので、結局、浄土に生まれるのは、名号の不思議な力なのだ。これは、つまり誓願の不思議さによるので、ただひとつだけのはずだ。》

 

 

○第12条

・一、経釈を読み学せざる輩(ともがら)、往生不定の由(よし)のこと。

 

《経書・注釈書を読んで学ばない人達は、往生が定まらない理由とすること。》

 

・この条、頗(すこぶ)る不足言の義と言いつべし。

 

《この条項は、とても不足な言葉の意義ということができる。》

 

・他力真実の旨(むね)を明かせる諸(もろもろ)の正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、その外(ほか)何の学問かは往生の要なるべきや。

 

《他力が真実の本旨だと明白にした、様々な正しい教えは、本願を信じ、念仏を申せば、成仏でき、その他に、どんな学問が、往生の必要となることができるのか。》

 

・まこと(誠)に、この理(ことわり)に迷えらん人は、いか(如何)にもいかにも学問して、本願の旨を知るべきなり。経釈を読み学すといへども、聖教の本意を心得ざる条、もっとも(尤)不便の事なり。

 

《本当に、この道理に迷うだろう人は、何としても学問して、本願の本旨を知るべきとするのだ。経書・注釈書を読んで学ぶといっても、聖なる教えの本意を心得ていない条項は、最もかわいそうなことなのだ。》

 

・一文不通にして、経釈の往く路も知らざらん人の、称えやすからんための名号に御座(おわ)しますゆえに、易行と言う。学問を旨とするは聖道門なり、難行と名づく。「誤って学問して名聞(みょうもん)・利養の思いに住する人、順次の往生、いかが(如何)あらんずらん」と言う証文も候(そうろ)うべきや。

 

《読み書きができなくて、経書・注釈書の行く道を知らない人が、唱えやすいための名号があるので、易行(安易な修行)という。学問を主旨とするのは、聖道門なのだ。難行(困難な修行)と名づけられている。「誤って学問して、名声・利得を養う思いに安住する人が、順序よく往生するのは、どのようであるだろう」という文書もあるはずだ。》

 

・当時、専修念仏の人と聖道門の人、法論を企てて、「わが宗こそ勝(すぐ)れたれ、人の宗は劣りなり」と言うほどに、法敵も出(い)で来(きた)り、謗法(ほうぼう)もおこる。これしかしながら、自(みずか)らわが法を破謗(はほう)するにあらずや。

 

《当時は、専修念仏の人と聖道門の人が、教えの論議を企てて、「わが宗派が優れていて、人の宗派は劣っているのだ」というほどに、教えの敵も出てきて、教えに背くこともおこった。これは、しかし、自分でわが教えに背いて破壊しているのではないのか。》

 

・たとい諸門こぞ(挙)りて、「念仏は甲斐なき人のためなり、その宗浅し、賤(いや)し」と言うとも、さらに争わずして、「我らがごとく下根(げこん)の凡夫(ぼんぷ)、一文不通の者の、信ずれば助かる由(よし)、承(うけたまわ)りて信じ候(そうろ)えば、さらに上根の人のためには賤しくとも、我らがためには最上の法にて坐(ま)します。たとい自余(じよ)の教法勝(すぐ)れたりとも、自らがためには器量及ばざれば、努め難(がた)し。我も人も、生死を離れんことこそ、諸仏の御本意にて御座(おわ)しませば、御妨げあるべからず」とて、憎(にく)い気せずは、誰の人かありて、仇(あだ)を為(な)すべきや。且(か)つは「諍論(じょうろん)の所には諸(もろもろ)の煩悩おこる、智者遠離すべき」由(よし)の証文候うにこそ。

 

《たとえ、様々な宗派が一挙に、「念仏は、どうにもならない人のためなのだ。その宗旨は、浅くて賤しい」といっても、さらに争わないで、「我らのように、生まれつき劣った凡人は、読み書きできない者が、信じれば、助けられる理由を、受けて信じれば、さらに生まれつき優れた人のためには、賤しくても、我らのためには、最上の教えとしてあるのだ。たとえ、それ以外の教えが優れていても、自分のためには、器量が及ばなければ、努力しにくい。私も人も、生死を離れることが、様々な仏のご本意あるので、妨げがあるべきでない」として、憎い気がしないのは、誰か人がいて、外敵とすることができるのだ。そのうえ、「論争には、様々な煩悩がおこるので、智者は、遠く離れるべき」の理由が、文書にあるのだ。》

 

・故聖人の仰せには、「『この法をば信ずる衆生(しゅじょう)もあり、謗(そし)る衆生もあるべし』と、仏説きおかせ給(たま)いたることなれば、我はすでに信じ奉(たてまつ)る。また人ありて謗るにて、 仏説まこと(誠)なりけりと知られ候う。しかれば『往生はいよいよ一定』と思い給うべきなり。誤って謗る人の候わざらんにこそ、『いかに信ずる人はあれども、謗る人のなきやらん』とも覚え候いぬべけれ。かく申せばとて、必ず人に謗られんとにはあらず、仏のかね(予)て信謗ともにあるべき旨(むね)を知(し)ろしめして、『人の疑いをあらせじ』と、説きおかせ給うことを申すなり」とこそ候いしか。

 

《故・(親鸞)聖人のお言葉には、「『この教えを信じる人々もいて、背く人々もいるはずだ』と、仏が教説すれば、私はすでに信じている。また、人がいて、背いて、仏の教えが、本当になのだと知られることがある。そうであれば、『往生は、充分に必ず』と思っていることができるのだ。誤って背く人がいないで、『どんなに信じる人がいても、背く人がないのだろうか』とも自覚しているべきだ。そう申せば、必ず人に背こうとせず、仏があらかじめ、信じること・背くことが、一緒にあるべき本旨を知らせて、『人の疑いがあるのか』と、教説されていることを申すのだ」とあるのだ。》

 

・今の世には、学問して人の謗りを止め、ひとえに論議問答旨(むね)とせんと構(かま)えられ候うにや。学問せば、いよいよ如来の御本意を知り、悲願の広大の旨をも存知して、「賤(いや)しからん身にて往生はいか(如何)が」なんど危(あや)ぶまん人にも、本願には善悪・浄穢(じょうえ)なき趣をも説き聞かせられ候わばこそ、学生の甲斐にても候わめ。たまたま何心もなく、本願に相応して念仏する人をも、「学問してこそ」なんど言い脅(おど)さるること、法の魔障(ましょう)なり、仏の怨敵なり。自ら他力の信心欠くるのみならず、誤って他を迷わさんとす。

 

《今の世の中には、学問して、人の背きを止め、いちずに論議・問答の本旨としようと構えられているのだ。学問をすれば、充分に阿弥陀如来のご本意を知り、悲願が広大な本旨も承知して、「賤しくない身で、往生はどうか」等と、不安な人も、本願には、善か悪か・清浄か汚穢かのない趣旨も、説き聞かせられているので、学生の価値もあるのだ。たまたま何の心もなく、本願に相応して、念仏する人も、「学問してこそ」等と威嚇することは、教えの邪魔なのだ、仏の深い怨みのある敵なのだ。自分で他力の信心を欠けるだけでなく、誤って他人を迷わせようとする。》

 

・慎(つつし)んで恐るべし、先師の御心に背(そむ)くことを。かね(予)て哀(あわ)れむべし、弥陀の本願にあらざることを。

 

《慎重に恐れるべきだ、先師(親鸞)のお心に背くことを。あらかじめ同情すべきだ、阿弥陀仏の本願でないことを。》

 

 

○第13条

・一、弥陀の本願不思議に坐(おわ)しませばとて、悪を恐れざるは、また本願誇(ぼこ)りとて、往生叶(かな)うべからずといふこと。

 

《13、阿弥陀仏の本願が、不思議さにあるといっても、悪を恐れていないのは、やはり、本願誇りといって、往生がかなうことができないということ。》

 

・この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり。

 

《この条項は、本願を疑って、善・悪のこれまでの行為を心得ていないのだ。》

 

・善き心のおこるも、宿善の催(もよお)すゆえなり。悪事の思われせらるるも、悪業の計らうゆえなり。故聖人の仰せには、「兎毛・羊毛の先にいる塵(ちり)ばかりも、作る罪の宿業にあらずと言うことなしと知るべし」と候(そうろ)いき。

 

《善の心がおこるのも、これまでの善行が主催するからなのだ。悪事が思わされるのも、悪の行為が計らうからなのだ。故・(親鸞)聖人のお言葉には、「ウサギの毛・ヒツジの毛の先にあるチリでさえも、作る罪がこれまでの行為でないということはないのを知るべきだ」とあるのだ。》

 

・またある時、「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と、仰せの候(そうろ)いし間、「さん候う」と、申し候いしかば、「さらば、言わんこと違(たが)うまじきか」と、重ねて仰せの候いし間、慎(つつし)んで領状申して候いしかば、「譬(たと)えば、人を千人殺してんや、しか(然)らば往生は一定すべし」と、仰せ候いし時、「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては、殺しつべしとも覚えず候う」と、申して候いしかば、「さては、いか(如何)に親鸞が言うことを違(たが)うまじきとは言うぞ」と。

 

《また、ある時、(親鸞聖人が、)「唯円は、私のいうことを信じるか」と、お言葉があった間に、「さようです」と申せば、「それならば、いうことを食い違わないのか」と重ねて、お言葉があった間に、慎重に承知して申せば、「例えば、人を1000人殺せるのか、それならば、往生は必ずすることができる」と、お言葉があった時に、「お言葉があっても、1人もこの身の器量では、殺すべきと自覚しないのです」と、申せば、「そうであれば、どうして親鸞のいうことと食い違わないといったのか」と。》

 

・「これにて知るべし。何事も心に任せたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しか(然)れども、一人にても叶(かな)いぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」と、仰せの候いしは、我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助け給(たま)うと言うことを知らざることを、仰せの候いしなり。

 

《「これによって、知ることができる。何ごとでも、心にまかせることになれば、往生のために1000人殺せといわれれば、つまり殺すことができる。しかし、1人でもかなわなうことができない行為の縁が、ないことによって、妨害しないからなのだ。わが心が善で、殺さないのではない。また、妨害するだろうと思っていても、100人・1000人を殺すこともあるはずだ」と、お言葉があるのは、我らの心が善いことを善いと思い、悪いことを悪いと思って、本願の不思議さで、助けられるということを知らないで、お言葉があったのだ。》

 

・その上(かみ)、邪見に落ちたる人あって、「悪を作りたる者を助けんと言う願にて坐(ま)しませば」とて、わざ(態)と好みて悪を作りて、「往生の業とすべき」由(よし)を言いて、ようように悪(あ)し様なることの聞こえ候いし時、御消息に、「薬あればとて、毒を好むべからず」と、遊ばされて候うは、かの邪執を止めんがためなり。まったく、「悪は往生の障(さわ)りたるべし」とにはあらず。

 

《当時、不正な見方に落ちた人がいて、「悪を作った者を助けようという本願があれば」といって、わざわざ好んで悪を作って、「往生の行為とすることができる」理由をいって、しだいに悪い様子になることが聞こえていた時、ご消息文に、「薬があるからといって、毒を好むべきでない」と、楽しみなさることがあるのは、あの不正な執着を止めるためなのだ。まったく、「悪は、往生の障害であるはずだ」とはならない。》

 

・「持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいか(如何)でか生死を離すべきや」と。かかる浅ましき身も、本願に会い奉(たてまつ)りてこそ、げ(実)に誇られ候え。さ(然)ればとて、身に備えざらん悪業は、よも作られ候わじものを。

 

《「戒律を保持していただけが、本願を信じることができるならば、我らは、どうして生死を離れることができるのか」と。こんなにみっともない身でも、本願に会わされて、本当に誇られている。だからといって、身に備わっていないであろう悪の行為は、まさか作られていないのに。》

 

・また、「海・河に網を引き、釣をして、世を渡る者も、野山に獣(しし)を狩り、鳥を捕(と)りて、命をつぐ輩(ともがら)も、商いをし、田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。「さるべき業縁の催(もよお)さば、いか(如何)なる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰(おお)せ候(そうろ)いしに、当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、善(よ)からん者ばかり念仏申すべきように、 あるいは道場に貼り文(ぶみ)をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどと言うこと、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮(こけ)を懐(いだ)けるものか。

 

《また、「海・川で網を引き、釣りをして、世の中を渡っている者も、野・山で獣を狩り、鳥を捕って、命をつなぐ人達も、商売をし、田畑を作って過ごす人も、ただ同じことなのだ」と。「そうすべき行為の縁が主催すれば、どんな振る舞いもすることができる」と、(親鸞)聖人に、お言葉があって、当時は、極楽往生を願う人の風をして、善いであろう者ばかりが、念仏を申すことができるかのようにし、道場に貼り紙をしたりして、「何々のことをしたであろう者は、道場に入ることはできない」等ということは、いちずに賢・善を精進する様相を外に示して、内に偽りを抱いていいのか。》

 

・願に誇りて作らん罪も、宿業の催(もよお)すゆえなり。されば善きことも、悪しきことも、業報に差し任せて、ひとえに本願を頼(たの)み参らすればこそ他力にては候え。『唯信抄(ゆいしんしょう)』にも、「弥陀、いか(如何)ばかりの力坐(ま)しますと知りてか、罪業の身なれば、救われ難(がた)しと思うべき」と候うぞかし。

 

《本願に誇って作るであろう罪も、これまでの行為が主催するからなのだ。そうであれば、善きことも、悪いことも、これまでの行為の報いに任せて、いちずに本願を頼りにすれば、他力によってあるのだ。『唯信鈔』(法然の言葉を聖覚がまとめたもの)にも、「阿弥陀仏が、どれほどの力があるのかを知って、罪を行為した身なので、救われにくいと思うのであろうか」とあるのだよ。》

 

・本願に誇る心のあらんにつけてこそ、他力を頼む信心も決定(けつじょう)しぬべきことにて候え。

 

《本願を誇る心があることについて、他力を頼む信心も、必ずできるはずのことであるのだ。》

 

・おおよそ、悪業・煩悩を断じ尽して後、本願を信ぜんのみぞ、願に誇る思いもなくて善(よ)かるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくや坐(ま)しまさん。

 

《だいたい悪の行為・煩悩を断絶し尽した後に、本願を信じるだけならば、本願を誇る思いもなくて、よいはずで、煩悩を断絶すれば、つまり成仏し、仏のために、測り知れないほど永年、思惟した本願は、それが無益になるだろう。》

 

・本願誇りと誡(いまし)めらるる人々も、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願に誇らるるにあらずや。いか(如何)なる悪を本願誇りと言う、いかなる悪か誇らぬにて候うべきぞや。却(かえ)りて、心幼(おさな)きことか。

 

《本願誇りを注意する人々も、煩悩・不浄を備え持たされているようだ。それは、本願に誇られているのではないのか。どんな悪を本願誇りといい、どんな悪が誇りでないとできるのか。反対に、幼稚なことなのか。》

 

 

○第14条

・一、「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」と言うこと。

 

《14、「1回の念仏で、測り知れないほど永年の重罪を消滅させると、信じることができる」ということ。》

 

・この条は、十悪・五逆の罪人、日頃念仏を申さずして、命終(みょうじゅう)の時、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すと言えり。これは十悪・ 五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念と言えるか、滅罪の利益なり。未だ我らが信ずる所に及ばず。

 

《この条項は、10悪(殺生・偸盗/ちゅうとう・邪淫・妄語・綺語/きご・悪口・両舌・貪欲・瞋恚/しんい・邪見)・5逆(母殺し・父殺し・阿羅漢殺し・僧団の和合破り・仏身の傷つけ)の罪人が日頃、念仏を申さないで、臨終の時に、はじめて高僧の教えで、1回の念仏を申せば、測り知れないほど永年の罪を消滅させ、10回の念仏を申せば、10倍の測り知れないほど永年の罪を消滅させて、往生するといっている。これは、10悪・5逆の軽さ・重さを知らせようとするためで、1回の念仏・10回の念仏といっているのは、罪の消滅させる利益なのだ。まだ我らが信じていることに、及んでいない。》

 

・そのゆえは、弥陀の光明に照らされ参らするゆえに、一念発起する時、金剛の信心を賜(たまわ)りぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)の位に修(おさ)めしめ給(たま)いて、命終すれば、諸(もろもろ)の煩悩・悪障を転じて、無生忍(むしょうにん)を悟らしめ給うなり。「この悲願坐(ま)しまさずは、かかる浅ましき罪人、いか(如何)でか生死を解脱すべき」と思いて、一生の間申す所の念仏は、 皆悉(ことごと)く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」と思うべきなり。

 

《その理由は、阿弥陀仏の光明に照らされているから、1回の念仏が発起する時に、強固な信心を授かったので、すでに成仏が約束された地位に落ち着かされて、臨終すれば、様々な煩悩・悪の障害を転化して、無生の真実を悟らされるのだ。「この悲願がなければ、こんなにみっともない罪人が、どうして生死を解脱することができるのか」と思って、一生の間に申す念仏は、皆すべて、「阿弥陀如来の偉大な慈悲の恩に応報し、徳を感謝する」と思うことができるのだ。》

 

・念仏申さんごとに、罪を滅ぼさんと信ぜんは、すでに我と罪を消して、往生せんと励むにてこそ候うなれ。もししか(然)らば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆(きずな)にあらざることなければ、命尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報限りあることなれば、いか(如何)なる不思議の事にも会い、また病悩苦痛責(せ)めて、正念に住せずして終わらん、念仏申すこと難(かた)し。その間の罪をば、いか(如何)がして滅すべきや。罪消えざれば、往生は叶(かな)うべからざるか。

 

《念仏を申すたびに、罪を消滅させると信じるのは、すでに私が罪を消滅して、往生しようと努力することになるのだ。もし、そうであれば、一生の間に思うことは、すべて生死の絆でないものはないならば、命が尽き果てるまで、念仏を怠らないで、往生することができる。ただし、これまでの行為の報いに限りがあるので、どんな不思議さのことにも会うが、また、病気に悩み・苦痛に責められ、正しい思念に安住せずに、臨終するだろうし、念仏を申すことは、むずかしい。その間の罪を、どのように消滅することができるのか。罪が消滅しなければ、往生は、かなうことができないのか。》

 

・摂取不捨の願を頼み奉(たてまつ)らば、いか(如何)なる不思議ありて、罪業を犯(おか)し、念仏申さずして終わるとも、速(すみ)やかに往生を遂(と)ぐべし。また念仏の申されんも、ただ今悟りを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀を頼み、御恩を報じ奉(たてまつ)るにてこそ候わめ。

 

《摂取して捨てない本願を頼りにすれば、どのような不思議さがあって、罪の行為を犯し、念仏を申さないで、臨終しても、すぐに往生を成し遂げることができる。また、念仏が申せても、ただ今にも悟りを開こうとする時期が近づくにしたがっても、充分に阿弥陀仏を頼りにし、ご恩を報いられることがあるのだ。》

 

・罪を滅せんと思わんは、自力の心にして、臨終正念と祈る人の本意なれば、他力の信心なきにて候うなり。

 

《罪を消滅しようと思うのは、自力の心で、臨終に、正しい思念だと祈る人の本意なので、他力の信心がないのだ。》

 

 

(つづく)