鎌倉後期の仏教書『歎異抄(たんにしょう)』は、親鸞(浄土真宗の開祖)が死んで約30年後に、親鸞の教えが本意とは異なって広がってしまったことを、弟子の唯円が歎(なげ)き悲しみ、最晩年に真実の教えを伝えようと思い起して書き記した語録です。
主に、初めの序・終りの結と、18条の文章で、構成され、このうち、第1~10条が親鸞の言葉で、第11~18条が唯円による異説への批判となっており、それらの要約とその背景はつぎのとおりです。
●親鸞の言葉
○第1条
阿弥陀仏を信じ、「南無(帰依しますという意味)阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで、阿弥陀仏の不思議な慈悲の力(光)に包み込まれ、誰でも平等に救済し、極楽浄土へ往生・成仏させてくれ(専修/せんじゅ念仏)、そこは生死・老若・善悪・賢愚・美醜等の区別がない世界です。
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親鸞は平安末期から鎌倉初期にかけての動乱の時代に、比叡山延暦寺で約20年間、苦行に打ち込みましたが、自力の修行では欲望を取り除けず、悟りも開けないとわかり、それらを捨て去って当時、専修念仏を主張していた法然(浄土宗の開祖)に帰依し、阿弥陀仏による他力を信仰するようになりました。
奈良期の仏教の修行は、経典や注釈の研究、平安期の仏教の修行は、肉体を痛め付け、精神を追い込んで、仏や死後の世界の幻覚を出現させることが主流でした。
法然も、比叡山延暦寺でそれらを修行しましたが、それらではすべての人を救済するのに無理だとわかり、専修念仏を主張するようになりました。
仏教では生きものが死んでも、別の形で生まれ変わり、それを何度も繰り返すといわれており(輪廻)、それでは苦悩・欲望・不安等も永遠になくならないですが、修行で苦悩・欲望・不安等を取り除けば、それ以降は生まれ変わらなくてよい、安住の境地(無・空の境地)に到達できるとされています(解脱)。
そして、それを達成した仏僧達は(修験者も)、皇族・貴族や武士・庶民等に加持祈祷し、超人的な力(利益/りやく)を分け与えることが仕事でした。
念仏はもともと、平安初期に唐へ留学した最澄が、法華経を根本経典とする天台教学・密教・禅等とともに持ち帰り、現世利益(病気治癒等)には東方の浄瑠璃浄土にいるとされる薬師如来、来世利益(死への恐怖解消等)には西方の極楽浄土にいるとされる阿弥陀如来への信仰と使い分けられました。
そのなかで念仏は、阿弥陀如来を頭で思い描くこと(観想念仏)と、「南無阿弥陀仏」の名号を口で唱えること(称名念仏)を指しています。
従来の仏教では、観想念仏が主流で、例えば平安中期には源信が『往生要集』で、阿弥陀仏が迎えに来るのをイメージさせ、平安後期には父・藤原道長が京都に法勝寺無量寿院(現存せず)、子・藤原頼通が宇治に平等院鳳凰堂を建立して阿弥陀仏像を安置し、極楽浄土の世界を表現しました。
これ以降は貴族が衰退、武士が台頭し、社会不安が拡大すると(末法の世)、主に貴族達は、現世への絶望から来世での幸福を希求するようになり、阿弥陀如来を信仰する一方(浄土教)、主に武士達は、現世での活躍と教養の摂取もあって、当時移入が本格化した禅を勉強しはじめました。
ただし、当時の浄土教は、極楽浄土へ往生・成仏する際、上品(じょうぼん)・中品・下品の3段階に、それぞれ上生・中生・下生(げしょう)の3段階があり、計9段階の方法に差別化されていて、9体の阿弥陀如来(九品仏)を安置することでも表現され、階級社会を反映していました。
法然や親鸞は、そのような浄土教や禅だと、特権階級にしか信仰できず、しかも難行・苦行なので、阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えるだけで(称名念仏)、誰でも(下品下生の人でも)簡単に(易行で)安住の境地である極楽浄土へ往生・成仏できるとし、仏教の修行・戒律・身分等を否定しました。
○第2条
親鸞は念仏を唱えるだけで、極楽浄土へ往生・成仏できるという法然の教えを正直に守る以外、特別なことをしておらず、たとえそれで地獄に落ちても後悔しないといっており、信者達には阿弥陀仏を信じるかどうかは自分で決めることだと突き放しています。
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関東の念仏信者の間では、阿弥陀仏信仰への不安が拡大したので、親鸞は長男・善鸞を派遣しましたが、善鸞は親鸞に念仏以外の秘伝があると信者を混乱させたため、親鸞は善鸞を勘当、そののち親鸞の真意を確認しようと、関東の信者達が上京した際の言葉です。
阿弥陀仏がいるとされる極楽浄土は、生死・善悪・賢愚・美醜等の区別がない世界なので当然、僧俗・師弟等の区別もなく、阿弥陀仏と信者個人が直接結び付くため、師の過度な干渉を排除しようとし、あの世での価値観を、この世でも適用させているのが特徴です。
地獄に落ちて後悔するということは、本来は極楽浄土へ往生・成仏したいので、念仏を唱えており、そこには自分の思い計らいがあり、自力になってしまうため、それも取り去ろうとし、「こうすれば(信じれば)そうなる(救われる)」という因果関係を断ち切ろうとしました。
ここでは、念仏を広め、信者を多く獲得するのが善行だとする姿勢も非難されていますが、それが逆にすべての人を包み込む思想になっています。
○第3条
阿弥陀仏を信仰するということは、他力に救済してもらうことですが、善行することは、自力で極楽浄土へ往生・成仏しようとすることで、それだと阿弥陀仏への信仰心がないことになり、本来の救済の対象ではありませんが、それでさえも阿弥陀仏は善人を救済してくれます。
まして、悪行することは、自力で極楽浄土へ往生・成仏しようとしていないので、悪人が阿弥陀仏を信仰すれば、こちらは純粋な他力なので、救済されるのは当然です(悪人正機/しょうき)。
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この世では善悪・賢愚・美醜等が区別され、あの世でも「善人は極楽、悪人は地獄」といいがちで、念仏信者以外だと善行のため、出家者は経典や注釈を研究したり心身修行をし、在家者は仏寺・仏像や金品・労力等を寄進しますが、あの世で絶対的な力のある阿弥陀仏のもとでの善悪等は大差ありません。
普通だと「仏には善人だけでなく、悪人も救済する慈悲がある」と、善悪に優劣をつけてしまいますが、当時は天変地異で飢え死にする庶民が大勢いて、善行か悪行かの判断は大変困難な状況なうえ、非人・女性等がハライ・ミソギではキヨメられないケガレた人として、社会で疎外されはじめました。
なので親鸞は、かれらこそ救済しようと、自力か他力かに着目し、自力よりも他力を推奨しつつも、阿弥陀仏は結局、自力の人でも他力の人でも修行・功徳等をせず、信仰心を表明する念仏だけで、すべての人を救済できるとし、それを逆説的な言葉で強調しました。
○第4条
仏教は聖道門と浄土門に大別でき、仏教の根本である慈悲も、聖道門の慈悲と浄土門の慈悲があるとされ、聖道門の慈悲では、信者の自力により、この世であらゆる生きものを助けようとしますが、それは思い通りにならず中途半端で、しかも特別な人にしかできず、質・量ともに限界があります。
一方、浄土門の慈悲では、阿弥陀仏の他力により、念仏で早く往生・成仏し、あの世であらゆる生きものを救おうとしており、こちらはすべての人に通用する思想です。
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聖道門は、信者を出家と在家、仏僧も悟りを開いたかどうかが高低で区別され、上下関係・師弟関係で階層化されますが、浄土門は、阿弥陀仏のもとに平等なので、階級社会の貴族・武士や既成の仏僧には受け入れられず、異端・邪説とされました。
親鸞は当初、阿弥陀仏を信仰すれば、あの世(死後)で極楽浄土へ往生・成仏させてくれるとしていましたが、この世で救済が約束されたということは、この世とあの世の中間に、やがて極楽浄土へ確実に往生できる場所(正定聚/しょうじょうじゅ)が設定でき、そこからの視座が大事だといいました。
親鸞が自力よりも他力を評価するのは、自力(聖道門の慈悲)だと、せいぜい緊急の問題を解決するしかできないからで、永遠の問題を解決するには、他力(浄土門の慈悲)を持ち出し、死(正確には中間の正定聚)から生を見つめ直すことが必要だと辿り着きました。
つまり、現実の生の世界から正定聚の世界へ行って眺望・思考し(往相/おうそう)、正定聚の世界から帰って生の世界で行動すべきだとし(還相/げんそう)、そこでは自然の摂理・道理に従っているかが決め手となります。
それと同時に、自分が他人に依存せず、自力で物事に取り組んでも思い通りにならず、自分が壊れてしまう寸前に、逃げ道を用意してあげているようにもみえます。
○第5条
親鸞は死去した父母の追善供養で念仏したことはなく、それは自分や父母・兄弟等のあらゆる生きものがいったん死んでも、何度も別の形で生まれ変わり、浄土門では最後にあらゆる生きものは往生・成仏できるからで、あの世で阿弥陀仏(他力)のもとにすべてつながるため、父母・兄弟も救済できます。
一方、聖道門では、この世で善行を積み重ねることで(自力)、父母を救済することになりますが、こちらは大変困難で無理があります。
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生者による死者への法要での念仏は、仏に祈願(要求・欲求)することになるので、自力による救済となってしまい、血縁・地縁等の特定者が対象ですが、他力による救済の阿弥陀仏への信仰は、あらゆる生きものが対象なので、こちらのほうが普遍的な思想です。
○第6条
阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えれば、阿弥陀仏の輝かしい慈悲の光明に照らされ、極楽浄土に往生・成仏でき、師の有無はたいした問題でなく、大事なのは阿弥陀仏と信者が直接結び付くことで、親鸞は自分に弟子が一人もいないといっており、師どうしで弟子を奪い合うのは、とんでもありません。
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阿弥陀仏は無限の寿命と無限の光明を兼ね備えており、それはすべての人の苦悩・欲望・不安等の暗闇を打ち破るほどの威力があるため(影ができないほどの光)、阿弥陀仏への信仰心があれば、誰でも極楽浄土へ往生・成仏させられ、その信仰への関心の合図が念仏です。
法然も、他宗派や他分派との勢力闘争を禁止していましたが、その制約は戒律のように、自力による善行になってしまうので、親鸞は、他力による絶対的な加護を光明と言い表しました。
親鸞の説いた教えを受け継いだ浄土真宗では、信者は皆平等といいながら、親鸞没後の教団指導者を世襲制にしましたが、これは信者の有力者・優秀者にすると、意見の分裂が内紛に発展してしまうので、象徴的な存在である親鸞の子孫にするのが自然な方策だったのでしょう。
○第7条
阿弥陀仏を信仰して念仏を唱える者は、天の神・地の神や邪悪なものにも妨げられない、自由な境地にいます。
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阿弥陀仏は浄土門の他力の人だけでなく、聖道門の自力の人をも包み込み、すべての人を救済しようとするので、他の仏や神・悪魔等よりも寛容で、海外の一神教の絶対神のように、それ以外の神や仏をすべて拒絶するのではなく、すべてを受け入れる態勢です。
○第8条
念仏は、自分の思い計らいでするのではなく、阿弥陀仏の導きによって自然に発せられるものなので、自力による善行ではありません(非行・非善)。
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親鸞は肉食したり妻子もいる等、戒律を破ったと公表しており(当時の仏僧達は、非公式で肉食・妻帯していました)、35歳の時に法然の弟子の不祥事の連帯責任で、越後(新潟)に流罪になり、俗名に改めさせられると、「愚禿(ぐとく、剃髪した愚か者の意味)親鸞」を自称しました。
これ以降かれは、仏僧でも俗人でもない立場になり(非僧非俗)、自力による善行をすべて放棄するようになりました。
流罪先の親鸞は、庶民の中で日常生活し、布教活動の大変さ・困難さを痛感、そこから仏僧が俗人に教義を啓蒙するのはおこがましいとわかり、阿弥陀仏は信者に僧俗の優劣をつけず、誰でも平等に極楽浄土へ往生・成仏できるという思想を創り出したのだと解釈するようになったようです。
こうして、師・法然の思想から逸脱するとともに、流罪赦免後の39歳の時には法然と距離をとり、常陸(茨城)で約20年間布教活動し、60歳頃に帰京しましたが、京都では布教活動せず、弟子とも密接にせず、隠遁生活の中で執筆活動しており、自力による善行につながらないようにしていたみたいです。
ちなみに、親鸞は比叡山延暦寺との決別後の29歳の時に、聖徳太子の化身とされる救世観音が夢の中に現れ、お告げがあったとされており、それがきっかけで法然に入門しましたが、聖徳太子は俗人なのに仏教を研究し、それを実践(政治)に応用した最初の人物で、僧俗を越境・超越していたといえます。
かれは経典の解釈で(『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』)、小乗仏教を大乗仏教に組み込むとともに(一乗思想)、煩悩の中に如来の種子=仏性(ぶっしょう)があるとしており(如来蔵思想)、僧俗の区別なく普遍的な思想を構築しようとしたのが親鸞と共通しています。
○第9条
唯円が念仏を唱えても喜びがなく、極楽浄土への往生・成仏も楽しそうでないと告白すると、親鸞もそれに同調し、それらは煩悩・執着のせいで、阿弥陀仏は煩悩・執着のある人にこそ、他力による救済を用意したので、これで極楽浄土への往生・成仏は確実だと説明しました。
この世はこれまでいたため、執着があるので、故郷のように捨てがたく、あの世はまだいったことがないため、執着がないので、死に急ぎたくないのは当然であり、やがて病気や老衰で自然に執着がなくなるので心配いりません。
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自然から誕生した人間は、他の生きものとは違い、本能より知性や感性が抜きん出て、それが煩悩・欲望を生み出し、知恵や技術で自然と対峙・克服しようと、目的を持って成果を出すために努力しますが、目的と成果の落差で迷い苦しみ、作為で人間は自然の摂理・道理と分裂するようになりました。
よって、かつてのように本能を取り戻し、自然の摂理・道理と同化し、あらゆる生きものの仲間に入ろうとしますが(自然との共生ではなく、寄生です)、修行で意図的・意識的に執着や欲望を排除しようとしたり、往生・成仏できるか心配すれば、それは自力になってしまいます。
むしろ、執着や欲望はあの世へ逝く直前までに、自然になくなっていくので、この世では自力を使わず、他力に依存すべきで、それが阿弥陀仏への信仰です。
源信の『往生要集』等、従来の浄土教では、この世は不浄で苦しく(厭離穢土/おんりえど)、あの世は清浄で楽しい(欣求浄土/ごんぐじょうど)とされ、踊念仏を布教した一遍(時宗の開祖)も、苦しい現世ですべてを捨て去り、楽しい来世のように振る舞いましたが、いずれも現世を否定しました。
それとは対照的に親鸞は、来世へ行って物事を眺望・思考し(往相)、自力を除去・他力に依存しているかを確認後、現世へ帰って行動すべきだとしており(還相)、結果的に現世を肯定していることになりますが、現実逃避にならずに問題解決の方向を暗示させようとしたのではないでしょうか。
○第10条
念仏は、自分の思い計らいによってするのではなく、阿弥陀仏の導きによって自然に発せられるので不思議です。
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念仏は、祈願のように自力で唱えているのではなく(それは要求・欲求)、阿弥陀仏を信じれば、その他力で自然に発せられてしまうもので、そこには人間の作為(知恵や技術、自力)を超越した自然の摂理・道理(他力)が働いています。
阿弥陀仏の慈悲の光明は、いつもすべての人を照らし続けており、阿弥陀仏への信仰に関心を持ち始めるということは、その光に気づいて包み込まれることで、口先から思わず出てしまったような念仏が他力の念仏で、そうなると念仏の言葉は、あまり意味がないことになります。
●唯円の異説批判
○第11条:誓名別信(せいみょうべっしん)の異説を批判
阿弥陀仏は悪人救済という不思議な誓いを立てられ、そのために誰でも覚えやすく唱えやすい「南無阿弥陀仏」という不思議な名号を考え出しましたが、それらの不思議さを信じる者(他力の人)も、信じない人(善行で極楽浄土への往生を期待する自力の人)も、最後には極楽浄土に往生・成仏できます。
○第12条:学解往生(がくげおうじょう)の異説を批判
経典や注釈を研究する難行の聖道門と、名号を念仏する易行の浄土門で、宗派の優劣が論争され、一方が他方を非難していますが、まず文字が読めなかったり言葉が難しくて勉強できない人もいるので、すべての人を救済するには、念仏を信じれば助かるという浄土門が必要になります。
つぎに、仏教では本来、正しい教えを広めるため、それを信じず疑って悪口をいう人にも説き、すべての人を救済しようとし、仏教を研究した人も仏のように、すべての人を救済しようとするはずなのに、念仏する人を非難するのは、まだ経典や注釈の理解不足で、仏教の教義とは真逆の行為です。
○第13条:専修賢善(せんじゅけんぜん)の異説を批判
阿弥陀仏は悪人を救済するので、故意に悪行して救済されようとする人がいて、それでは極楽浄土へ往生・成仏できないといわれていますが、善行するか悪行するかは前世までの因縁や現世での契機しだいで変化し、自分にない悪行はしないのが普通で、煩悩がある人にこそ阿弥陀仏による救済があります。
薬があるからといって、毒を好んで飲んではいけないように、意図的・意識的な悪行も(本願ぼこり)、自力になるため、もちろんダメで、困った人を助けるかどうかは、念仏が口先から思わず出てしまうがごとく、無意図・無意識で自然に行動するのは善行ではないとされています。
○第14条:念仏滅罪(ねんぶつめつざい)の異説を批判
多くの重罪を犯した悪人でも、それに比例した回数の念仏をすれば、罪がなくなって極楽浄土へ往生・成仏できるとの話があり、それを信じて念仏に励むことは自力で、他力ではないですが、それでも阿弥陀仏を信じれば、たとえ念仏しなくても、その輝かしい慈悲の光明に照らされて救済されます。
念仏の回数は往生・成仏とは無関係で、念仏で罪を消し去ることはできず、逆に阿弥陀仏は煩悩・悪行・罪がある人を発見できるので、救済してくれます。
いったん阿弥陀仏への信仰心が湧き起これば、ずっと継続できる立派な人はほとんどおらず、信じたり疑ったりの行ったり来たりを繰り返す人を想定しており、大切なのは信仰心で、念仏を言葉にするかしないかが問題なのではありません。
○第15条:即身成仏(そくしんじょうぶつ)の異説を批判
空海や最澄は難行で煩悩を取り去り、この世で悟りを開いたとされていますが、それは大変困難で、高僧でもあの世で悟りが開けるように修行する一方、浄土門では、阿弥陀仏の慈悲の光明が隅々まで行き渡っているので、どんな人でも極楽浄土へ往生・成仏でき、あの世で悟りを開くことができます。
○第16条:回心滅罪(かいしんめつざい)の異説を批判
阿弥陀仏を信仰して念仏する者が、立腹して悪行したり、仲間と口論すれば、そのたびごとに反省・改心すべきだと主張する人がいますが、それは自力での善行なうえ、純粋に反省・改心して念仏できるのは一生に一度だけです。
その一度は、阿弥陀仏を信仰していなかった人が、自力では極楽浄土へ往生・成仏できないと思い知らされ、他力に頼って改心するのと同じです。
朝方や夕方にいつも改心する人や、善行する人だけを救済したり、そのような人は辺鄙(へんぴ)な浄土にしか往生できないことはなく、阿弥陀仏を信仰すれば、すでに往生・成仏が約束され、念仏は自分の思い計らいによってするのではなく、阿弥陀仏の導きによって発せられ、自然にしてしまうものです。
○第17条:辺地堕獄(へんじだごく)の異説を批判
経典・注釈の研究者の中には、阿弥陀仏を信じ切れず、不充分なまま念仏すれば、辺鄙(へんぴ)な仮の浄土へ往生し、信じ切った段階で、本当の極楽浄土へ往生・成仏できる一方、疑いが抜け切らなければ、地獄へ落ちるという人がいますが、それはウソです。
阿弥陀仏は信仰の程度とは無関係に、どんな人でも救済してくれます。
○第18条:施量別報(せりょうべっぽう)の異説を批判
この世で多く寄付すれば、あの世の極楽浄土への往生で大きな仏になれ、少し寄付すれば、小さな仏にしかなれないとか、大声で念仏を唱えれば、大きな仏が見え、小声で念仏を唱えれば、小さな仏が見えるともいわれていますが、両方ともにそんなことはありません。
阿弥陀仏の身体の大きさも述べられていますが、それは誰でもわかりやすくするために擬人化された仮の姿で(方便)、仏身には本来、形も色もなく、大切なのは信仰心で、阿弥陀仏による救済は、寄付や声の大小等とは無関係です。