古代日本の政治・経済での霊力 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

柄谷行人「力と交換様式」考察

鈴木大拙「日本的霊性」考察

知・情・意

信/解

~・~・~

 

 私は、鈴木大拙の『日本的霊性』や、柄谷行人の『力と交換様式』で、知(知性・理性)・情(感性・情性)・意(意志・欲望)の内面では説明できない物・事・人には、外面に観念的な霊・聖・神の力(魅力・魔力)が宿り、それが働いているとみることを、取り上げてきました。

 その力は、解くことによる人間の仕業を超越した、信じることによる自然の仕業といえ、それらを、次のように、まとめました。

 

※内外面(本体)

・外面(外形、様相・「ある」)=物・事・人、霊・聖・神 ~ 自然の仕業、信

・内面(内容、作用・「する」)=魂・理・心、知・情・意 ~ 人間の仕業、解

 

 また、古来より、一神教の定着以前に世界中で、万物・万人には、精霊・霊魂(ラテン語でアニマ)が宿り、死ぬとそれが離れ、人々は、それを呪(まじな)う(呪術)、多神教が浸透していました(アニミズム)。

 さらに、ドイツの哲学・経済学者のカール・マルクス(1818~1883年)は、『資本論』1巻1章4節で、商品の価値が、それに付着した物神の崇拝(フェティシズム)で生起するとし、この物神は、アニミズムになぞらえて霊力とみており、その物神・霊力は、商品とともに、貨幣や資本もあるとしました。

 そのうえ、マルクスは、『資本論』1巻2章で、「商品交換は、共同体の終わる所で、共同体が、他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」としているので、アニミズムを勘案すれば、物々交換される共同体どうしの間は、物の霊力が弱い所、共同体内は、物の霊力が強い所といえます。

 このようにみると、人が物を作る際には、その物に人の思いが込められるので、そこに霊力が生まれ、物を捨てる際には、その霊力も死ぬので、死後の世界の幸福(冥福)を祈って祭り、先史の貝塚では、人も動植物も道具も、一緒に埋めて、大地に帰そうとしたのでしょう。

 

 ここまで、物・人の霊力をみてきましたが、天・地にも、霊力があるとされ、まず、地では、山・川・木・石等、自然を神として崇拝します。

 つぎに、天では、特に、自然の恩恵が多大に影響する、太陽を神として崇拝しますが、1日の…→朝→昼→夕→夜→…、1年の…→春→夏→秋→冬→…の日照・日射から、霊力は、昼・夏が最も強く、夜・冬が最も弱いとされています。

 よって、日本では、霊力がこれよりも弱くならず、これからが強くなる、冬の夜に、新嘗祭(にいなめさい、1年に1度の穀物の収穫祭)や、大嘗祭(だいじょうさい、天皇1代に1度の即位祭)を、ずっと執り行ってきました。

 こうして、冬や夜を死滅とみずに、仮死・再生とみて、…→増進(朝・春)→最盛(昼・夏)→減退(夕・秋)→仮死・再生(夜・冬)→…を永遠に循環させることで、不死不滅を希求しています。

 そして、この太陽の霊力は、古代日本の政治・経済にも、活用していたのではないかという事例を、みることができ、それらは、次のようです。

 

※古代日本の政経

・政治=朝廷の政務(霊力が強まっていく午前型):日の出に入庁、正午に退庁

・経済=平城京の東西市(霊力が弱まっていく午後型):正午に開き、日の入前に閉じる

 

 ここでは、それらをみていくことにします。

 

 

●政治:午前型

 

 古代朝廷の政務時間は、下記のように、おおむね日の出(卯の刻)からの午前までで、共通しており、霊力が強まっていく時間帯に、設定していたようにみえます。

 

 なお、『隋書倭国伝』の記述は、大和政権の推古天皇と合致しないので、筑紫政権とする説もありますが、いずれにせよ、もし、兄弟二頭政治の説であれば、王(兄)の妻子の名前が、その直後に登場しているのに、それよりはるかに重要な弟が、まったく登場しないのが、不自然にみえます。

 なので、天の兄は、倭王で、日の弟は、官僚と、解釈するのが自然で、隋皇帝が批判したのは、倭王に日中の政務がないことです。

 倭王は、かつて漁労・交易等の海洋民を統率していたと推測でき、海洋民は、天候に左右され、生死に関わるため、雨か日(晴)かだけでなく、波・潮も読む必要があり、日の出前に、出航・出漁等を決断しなくてはいけないので、先行型といえます。

 一方、官僚は、水田稲作・加工作物等の農産民を統治し、農産民は、太陽に左右され、日の出後に、作業を決定でき、雨は休み、日(晴)は働き、雨が降り出せば、作業を中断すればよい、後行型といえます。

 これらを根拠に、兄の倭王は、夜明け前から、弟の官僚は、日の出後から、政務したと推測できそうで、王の夜明け前の政務は、その1日の霊力を占うことでもあり、その行為は、天皇の夜の祭祀(新嘗祭・大嘗祭等)の時間帯とも、一致します。

 ちなみに、天皇家の祖先神は、もともとタカミムスヒ(天の神、宮中で祭祀)で、アマテラス(日の神、伊勢で祭祀)は、記紀神話成立以降の中途採用です。

 

 

〇『隋書倭国伝』開皇20(600)年 ~ 推古天皇(33代)の時代:遣隋使1回目

・開皇二十年、俀王、姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩雞弥。遣使詣闕、上令所司訪其風俗。使者言、俀王以天為兄、以日為弟。天未明時、出聴政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此大無義理。於是訓令改之。

[開皇二十年、俀王あり、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号す。使を遣して闕(けつ)に詣(まい)る。上、所司にその風俗を訪(と)わしむ。使者言う、「俀王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天、いまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して座し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停(と)め、いう、我、弟に委(ゆだ)ねん」と。高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓(おし)えて、これを改めしむ。]

《600(開皇20)年に、俀王がいて、姓はアメ、字はタリシヒコ、アホケミと名づけられている。(俀王は、)使者を派遣し、(隋の)朝廷に訪問した。皇帝は、役人にその(俀国の)風俗を質問させた。使者がいう、「俀王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ夜が明けない時に出て、政務を聴き、あぐらをかいて座り、日が出れば、政務を止め、わが弟(である日の働きに)に委ねよう、といいます」と。文帝(初代、楊堅/ようけん)がいう、「これはあまりにも道理にかなっていない」と。こういうわけで教えて、これを改めさせた。》

 

※兄:夜明け前~

※弟:日の出~

 

 

○『日本書紀』巻第23・舒明天皇(34代)、舒明7(635)年7月1日

・大派王謂豊浦大臣曰、群卿及百寮、朝参巳懈。自今以後、卯始朝之、巳後退之。因以鍾為節。然大臣不従。

[大派王(おおまたのおおきみ)、豊浦大臣(とゆらのおおきみ、蘇我蝦夷/えみし)にいいていわく、「群卿(まえつきみたち)および百寮(つかさつかさ)、朝参(ちょうさん)すること、已(すで)に懈(おこた)れり。今より以後、卯(う)のときの始めに、これを朝(まい)りて、巳(み)のときの後に、これを退け。因(よ)りて鍾(かね)をもって節せよ」と。しかるに大臣、従わず。]

《オオマタ(敏達天皇/30代の息子)が大臣の蘇我蝦夷に、語っていう、「群臣・官僚は、朝廷に参上することが、すでになまけている。今後は、午前6時頃の始めに、これ(朝廷)に参上し、午前10時頃の終りに、これ(朝廷)を退出せよ。そのために、鐘によって節目とせよ」と。しかし、大臣は、したがわなかった。》

 

※午前6時頃(卯の刻≒日の出)~午前10時頃(巳の刻)

 

 

○『日本書紀』巻第25・孝徳天皇(36代)、大化3(647)年

・是歳、壊小郡而営宮。天皇処小郡宮、而定礼法。其制曰、凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拝、乃侍于庁。若晩参者、不得入侍。臨到午時、聴鍾而罷。其撃鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾台者、起於中庭。

[是歳(ことし)、小郡(おごおり)を壊して宮を営(つく)る。天皇、小郡宮に処(お)りて、礼法を定む。その制にいわく、「凡(およ)そ位(くらい)ある者は、要(かなら)ず寅(とら)の時に、南門の外に、左右羅列し、日の初めて出(い)ずるときを候(うかが)いて、庭に就きて再拝して、乃(すなわ)ち庁に侍(はべ)れ。もし晩(おそ)く参る者は、入りて侍ること得ざれ。午(うま)の時に到るに臨みて、鍾(かね)を聴きて罷(まか)れ。その鍾、撃つ吏(つかさ)は、赤の巾(きれ)を前に垂れよ。その鍾の台は、中庭に起こせ」と。]

《この年に、(難波の)小郡を破壊し、宮を造営した。天皇は、小郡宮にいて、礼法を制定した。その制度によると、「だいたい地位のある者は、必ず午前4時頃に、南門の外で、左右に並列し、日の出始めを見て、庭に身をおいて2度礼拝し、つまり庁舎で仕えよ。もし、遅く参上する者は、入って仕えることをしてはならない。正午の時刻まで臨席して、鐘を聴いて退出せよ。その鐘を打つ官吏は、赤色の布切れを前に垂らせ。その鐘の台は、中庭に起こし立てよ」と。》

 

※午前4時頃(寅の刻)に待機、日の出~正午(午の刻)

 

 

●経済:午後型

 

 政治は、霊力のある王と、その臣下の官僚が、民の霊力を上げる行為なので、霊力が上がっていく時間帯に政務しましたが、経済は、霊力が付着した物どうしの交換なので、霊力を下げる場所である共同体と共同体の間で、霊力が下がっていく時間帯に、取引されました。

 この物々交換は当初、共同体どうしの贈与と返礼による交流に付随していましたが、しだいに独立し、仮設の不定期→定期→常設の市(いち)・店(みせ)と移行、そこは、いったん日常の縁が切り離された、聖・神の世界で(無縁)、やがて、交通の要所に、政権が市を設置・管理するようになりました。

 

 平城京の東西市は、左右の京識(きょうしき)に所属する、市司(いちのつかさ)が運営し、取引時間は、午後から日の入までで、霊力が弱まっていく時間帯に、設定していたようにみえます。

 

 

〇『養老令』(757年施行)・第27関市令・11市恒令

・凡市、恒以午時集、日入前、撃鼓三度散。

[凡(およ)そ市は、恒(つね)に午(うま)の時に集し、日の入前に、鼓(つづみ)を三度撃って散ずること。]

《だいたい(京内の東西)市は、常に正午の時刻に集合し、日の入前に、鼓を3度撃って解散すること。》

 

※正午(午の刻)~日の入前