古墳期の抽象力1~対外・対内事情 | ejiratsu-blog

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古墳期の前提条件の整理1・2

日本の大型古墳一覧1~3

日本は世界の縮図

筑紫政権から大和政権へ15~17(古墳萌芽期1~3)

筑紫政権から大和政権へ18(出現期・前期の大型古墳)

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■先史の前方後円墳時代

 

 古墳は、約3~7世紀に造営されましたが、推古天皇(33代)が飛鳥豊浦(とゆら)宮で即位(592年)して以降、大和(奈良県)の飛鳥内で、遷宮の大半が繰り返されたので、平城京遷都(710年)までの、ほぼ7世紀が飛鳥時代といえ、平安京遷都(794年)までの、ほぼ8世紀が奈良時代です。

 したがって、ここでは、古墳時代を3世紀~6世紀とし、この期間に、日本由来の墳形である前方後円墳が、ほぼ全国に造営されましたが、用明天皇(32代)以降の天皇陵は、方墳・八角墳・円墳なので、3世紀~6世紀の約400年間は、前方後円墳時代ともいえます。

 この時代を大雑把に区分すると、次のように、まとめることができます。

 

※前方後円墳時代:3~6世紀

・3世紀:古墳の出現(弥生期の墳丘墓と別格)、竪穴式石室(日本由来)、中国(出先機関)と通交

・4世紀:全国(宮城から宮崎まで)で全長100m以上の大型古墳が造営、中国と断交(空白期)

・5世紀:超大型古墳の林立、高句麗等と戦争、中国・百済と通交、馬が導入

・6世紀:古墳の縮小化(天皇陵のみ大型を温存)、横穴式石室(中国由来)、鉄資源の輸入危機

※飛鳥時代:7世紀

※奈良時代:8世紀

 

 特に、前方後円墳時代の5世紀以前は、ほとんど文書記録のない、先史時代なので、考古学的遺跡・遺構・遺物をもとにした、抽象力が必要になります。

 ドイツの哲学・経済学者のカール・マルクス(1818~1883年)は、『資本論』の第1部第1版序文で、「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も科学的試薬も役に立ち得ない。抽象力がこの両者に取って代わらなければならない。」といっていますが、古墳期でも、この抽象力を持ち込むことにします。

 それは、考古学が、遺跡・遺構・遺物という、諸形態の分析だからです。

 

 

●対外事情:中国大陸・朝鮮半島・日本列島の関係

 

 古墳の方墳・円墳は、中国・朝鮮由来ですが、前方後円墳・前方後方墳は、日本由来で、これらの前方部は、円丘墓・方丘墓の周溝の掘り残した陸橋が発祥とされ、前方後円墳・前方後方墳の登場は、中国と通交していた3世紀で、これらの普及は、中国と断交していた4世紀からです。

 そうして、おおむね鎖国により、日本独自の古墳文化が浸透し、5世紀のおおむね開国と、6世紀の劣勢により、それが衰退したとみることもでき、3~6世紀での、中国・朝鮮からの影響は、次に示す通りです。

 

〇3世紀:古墳の出現(弥生期の墳丘墓と別格)、竪穴式石室(日本古来)、中国(出先機関)と通交

・238年:魏(三国)が2郡を接収

・238年:卑弥呼が魏に朝貢

・265年:西晋が2郡を接収

・266年:倭人(壱与?)が西晋に朝貢

 

 3世紀末成立の「魏志倭人伝」によると、倭女王の卑弥呼が、魏に使者を派遣すると(238/景初2年)、帰国時に魏も帯方郡長官が、倭に使者を派遣しましたが(240/正始元年)、これは、金印紫綬等が(銅鏡100枚も)、途中で横領されていないかを確認するためです。

 ちなみに、7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」・『日本書紀』によると、そののちの遣隋使でも、俀王・推古天皇が、隋に使者(小野妹子)を派遣すると(607/大業3/推古15年)、帰国時に隋の煬帝(2代)も、俀に使者(裴清・裴世清/はいせいせい)を派遣しました(608/大業4/推古16年)。

 つまり、双方の使者が相手の王を相互に目視するのが、最初の正式の外交で、これは、日本列島内の遠隔地の王どうしも、同様の相互往来をしたと推測でき、もし、近接地の王どうしならば、直接対面することがあったかもしれません。

 たとえば、記紀神話によると、歴代天皇は、各地の諸豪族の娘達と、婚姻関係を取り結んでいたので、それがきっかけで、交流・交易(当時の交易は、王が管理・独占)にもつながったでしょう。

 交流(外交)は、双方の使者の往来が必要ですが、交易は、物々交換する、人の品格よりも、物の品質のほうが、大事なので、交流後の常習化と推測できます。

 

 

〇4世紀(空白期):全国(宮城から宮崎まで)で全長100m以上の大型古墳が造営、中国と断交

・291~306年:西晋で皇族どうしが内乱(八王の乱)

・313年:南下した高句麗が2郡を征服

・316年:北方遊牧民族が西晋の北半分に侵入(五胡十六国・304~439年)、南半分で東晋(317~420年)を復興

・371年:百済王が高句麗の南下を撃退、平壌城まで侵入し、高句麗王を戦死

・372年:百済が東晋に朝貢し、百済王が鎮東将軍・領楽浪太守に任命

・372年:百済(4世紀前半?~)が倭と七支刀で通交

 

※2郡(半島北西部):後漢(25~220年)→三国・魏(220~265年)→ 西晋(265~316年)

・楽浪郡(北側):前108~313年

・帯方郡(南側):204~313年

‐濊:半島北東部(南は辰韓、北は高句麗・沃沮/よくそと接す)

‐韓:半島中部(帯方郡の南、南は倭と接す)

・馬韓(のちの百済):半島中西部(西)

・辰韓(のちの新羅):半島中東部(馬韓の東)

・弁韓(弁辰、のちの伽耶諸国):半島中南部(辰韓と雑居、倭と境界を接す)

‐倭:半島南部

 

 3世紀末成立の「魏志韓伝」・「魏志濊伝」によると、3世紀の朝鮮半島は、北西部の楽浪郡・帯方郡、北東部の濊(わい)、中部の3韓(中西部の馬韓、中東部の辰韓、中南部の弁韓)、南部の倭(出先機関)から、なっていたようです。

 ところが、中国・西晋が、3世紀終り~4世紀初めに、内乱で弱体化すると(そののち、西晋の北半分が五胡十六国になり、南半分が東晋)、朝鮮半島を南下してきた高句麗が、楽浪・帯方2郡を征服したので(313年)、4世紀の倭は、ほぼ中国の影響がなかった時代といえます。

 また、「魏志韓伝」によると、弁韓(弁辰)は、韓(馬韓・辰韓)・濊・倭や、楽浪・帯方2郡に、鉄を供給するとともに、鉄を貨幣としても使用していたとあるので、4世紀の倭は、弁韓から朝鮮半島南部の倭を経由し、鉄資源を輸入していたとみられます。

 

 

〇5世紀:超大型古墳の林立、高句麗等と戦争、中国と通交(百済経由)、馬が導入

・421年:倭の讃が南朝・宋(420~479年)に朝貢、讃に倭国王・安東将軍を授与

・438年:倭の珍が宋に朝貢、珍に倭国王・安東将軍を授与、倭の隋等13人に平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号を授与

・451年:倭の済が宋に朝貢、済に使持節+都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事+倭国王を授与、倭国王・安東将軍はそのまま、23人に将軍・郡長官を任命

・478年:倭の武が宋に朝貢、武に使持節+都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事+安東大将軍・倭王を授与

 

 倭は、4世紀終り~5世紀初め以降、朝鮮半島で高句麗等と断続的に戦争し(好太王碑文)、そのような中で、馬が導入され、5世紀後半成立の「宋書倭国伝」によると、倭の5王(讃・珍・済・興・武)が南朝・宋に朝貢しており、おそらく通交のあった百済を経由したとみるのが妥当です。

 5世紀前半の珍や、半ばの済は、倭国王だけでなく、諸侯にも将軍号等を要求・授与されているので、その時点での倭国王は、諸侯の盟主(代表)程度で、まだ分権的だったようなので、超大型古墳の林立は、首長の財産をすべて人民の雇用に還付しようと、競い合った結果にみえます。

 「魏志高句麗伝」によると、高句麗は、5部族の連合政体なので、平時は分権的で、男女は、結婚直後から葬送の衣装を徐々に作り始め、厚葬で金銀・財宝を葬式で使い果たし、墓は石を積んで塚を造るとあるので、この浪費・散財を、倭の各小国王も、古墳に取り入れたのではないでしょうか。

 しかし、5世紀後半の武は、称号を単独で授与されているので、倭王が諸侯(群臣)から突出するようになり、集権的に移行しはじめており、この時期は、雄略天皇(21代)の時代に相当します。

 

 

○6世紀:古墳の縮小化(天皇陵のみ大型を温存)、横穴式石室(中国由来)、鉄資源の輸入危機

・527-28年:磐井の乱(新羅に味方した筑紫の君が、朝鮮半島南部の劣勢を回復しようとする大和軍を妨害・反乱鎮圧)

・532年:新羅が伽耶諸国の一部(金官伽耶)を併合

・538か552年:百済王が欽明天皇(29代)に仏像・仏具・経典を授与

・553年:新羅が百済との433年以来の同盟を解消、漢城周辺まで侵入し、百済王を戦死

・554年:倭が百済に五経博士+易・暦・医博士等の当番勤務を要請・来日

・562年:新羅が伽耶諸国の全部(大伽耶)を併合、倭は援軍を派遣したが回復に失敗

 

 6世紀前半には、金官伽耶が、後半には、大伽耶が、敵対するようになった新羅に併合されたことで、倭は、鉄の供給地を消失してしまいました。

 こうして、6世紀に、新羅が強大化したため、倭は、百済とますます密接になるとともに、倭王のもとに中央集権化し、総力を結集しなければ、対抗できなくなり、海外対策の費用捻出のため、古墳が縮小化される中で、天皇陵だけは、大型が温存されました。

 

 

●対内事情:石高

 

 全長100m以上の大型古墳を造営するには、数年かかり、たとえば、日本最大で全長486mの大山古墳(仁徳天皇陵)は、週休1日・1日8時間労働・作業者延681万人・1日最大2000人で、約16年と試算されています。

 よって、被葬者の首長は、生前から人民を雇用・工事させ、その対価に食料・宿舎等を提供しなければならないので、古墳の規模は、首長の財力しだいなのが前提になり、それは、各地の稲の収穫量が影響します。

 

 下記は、平安中期・10世紀前半成立の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう、和名抄)』20巻本の巻5に記載された、諸国の水田面積数(町)です(大東急文庫本=元和古活字本)。

 古墳期は、墾田永年私財法(743年、私財面積は、位階により、10~500町に制限)以前なので、これよりも低かったとみられますが、地域差が極端に変化したとは思えないので、これをもとに、全国各地を比較してみました。

 余談ですが、併記したのは、安土桃山期の諸国の石高で、地域差が極端に変化したのは、江戸期のような大規模な新田開発だったと推測できます。

 

 なお、古墳期の平均海水面は、現在とほぼ同等で、古墳出現期の3世紀に、全長100m以上の大型古墳は、近畿以西の西日本にしか造営されておらず(後述)、『古事記』神代段2‐2のイザナギ・イザナミ「2神の国生み」でも、濃尾以東の東日本の国生みは、一切ありません(佐渡島以外)。

 それが古墳前期の4世紀に、全長100m以上の大型古墳は、全国(宮城県から宮崎県まで)で造営されるようになったので(後述)、古墳を活用した各王の小国経営が、西日本(特に近畿中部)から全国へ、普及・発達したことがわかります。

 

○令制国(半島国は省略)の田積数(下線は1万町以上):町

/石高(1598年):万石(下線は30万石以上)

 

※壱岐対馬

・対馬:620(町)/0(万石) ~ 津島(大八島のひとつ、6番目に誕生)

・壱岐:428/0 ~ 伊伎島(5番目)

 

※九州北半分:平均16,380

・筑前:18,50034(福岡平野・直方平野) ~ 筑紫島(4番目):筑紫勢力(九州北部)

・筑後:12,800/27(筑紫平野)

・肥前:13,90031(筑紫平野)

・豊前:13,200/14(中津平野)

・肥後:23,50034(菊池平野・熊本平野・八代平野)

 

※九州南半分:平均5,475

・豊後:7,500/42(大分平野)

・日向:4,800/12(宮崎平野)

・大隅:4,800/18

・薩摩:4,800/28(川内平野)

 

※瀬戸内:平均10,631

・長門:4,603/13(萩平野)

・周防:7,834/17(防府平野・岩国平野)

・安芸:7,358/19(広島平野)

・備後:9,301/19(福山平野)

・備中:10,228/18(倉敷平野)

・備前:13,186/22(岡山平野) ~ 吉備児島(大八島でない):吉備勢力(岡山)

・美作:11,021/19(津山盆地)

・伊予:13,50137(松山平野・今治平野・新居浜平野) ~ 伊予之二名島(2番目)

・讃岐:18,648/13(讃岐平野)

 

※南海:平均5,688(島国は除外)

・土佐:6,451/10(中村平野・高知平野)

・阿波:3,415/18(徳島平野・阿南平野)

・淡路:2,651/6(洲本平野) ~ 淡路之穂之狭別島(1番目)

・紀伊:7,199/24(和歌山平野)

 

※山陰:平均7,625(島国は除外)

・隠岐:585/0.5 ~ 隠伎之三子島(3番目)

・石見:4,885/11

・出雲:9,436/19(出雲平野・松江平野) ~ 出雲勢力(島根)

・伯耆:8,162/10(米子平野・倉吉平野)

・因幡:7,915/9(鳥取平野)

・但馬:7,556/11(豊岡盆地)

・丹後:4,756/11

・丹波:10,666/26(亀岡盆地・篠山盆地・福知山盆地)

 

※近畿中部:平均14,271

・播磨:21,41436(播磨平野)

・摂津:12,52536(大阪平野)

・山城:8,962/23(京都盆地)

・近江:33,40378(近江盆地)

・河内:11,338/24(大阪平野)

・和泉:4,570/14(大阪平野)

・大和:17,90645(奈良盆地) ~ 大倭豊秋津島(8番目):大和勢力(近畿中部)

・伊賀:4,051/10(上野盆地)

 

※濃尾:平均13,258

・美濃:14,82354(濃尾平野)

・尾張:6,820/57(濃尾平野) ~ 濃尾勢力(愛知・岐阜)

・伊勢:18,13157(伊勢平野)

 

※東海:平均9,832

・三河:6,821/29(岡崎・豊橋平野)

・遠江:13,611/26

・駿河:9,063/15(静岡平野)

 

※甲信:平均16,592

・飛騨:6,616/4(高山盆地)

・信濃:30,90941(長野盆地・上田盆地・佐久盆地・松本盆地・諏訪盆地・伊那盆地)

・甲斐:12,250/23(甲府盆地)

 

※関東:平均28,182

・相模:11,236/19(足柄平野・相模平野)

・武蔵:35,57567(関東平野)

・上総:22,84738(関東平野)

・下総:26,43339(関東平野)

・常陸:40,09353(関東平野)

・上野:30,93750(関東平野) ~ 毛野勢力(群馬・栃木)

・下野:30,15637(関東平野)

 

※北陸:平均12,364(島国は除外)

・若狭:3,077/9

・越前:12,06650(福井平野)

・越中:17,91038(砺波平野・富山平野)

・越後:14,99839(高田平野・越後平野)

・加賀:13,767/26(金沢平野)

・佐渡:3,960/2 ~ 佐度島(7番目)

 

※東北:平均38,775

・陸奥:51,440167

・出羽:26,10932

 

 上記より、交通の結節点である、九州北半分・近畿中部・濃尾・関東の4ヶ所が比較的、穀倉地帯だった一方、九州北半分・近畿中部の周縁部や、両者の中間部の吉備、濃尾・関東の周辺部や、両者の中間部の東海は、4ヶ所よりも少し劣る反面、海運がさかんだったとみられます。

 ここで注意したいのは、近畿中部が、他の3ヶ所の穀倉地帯より、突出した石高とはいえないことで、それなのに、近畿中部で、財力が必要な大型古墳が林立できたのは、交流・交易でも蓄財したと推定するしかなく、近畿中部には、濃尾・関東の大きな市場が広がっていたとみることができます。

 「魏志倭人伝」によると、対馬(対海国)・壱岐(一大国)は、田地不足なので、船に乗って南北に行き、米を買い入れたとあり、この交流・交易は、古墳期も同様で、当時の物品貨幣は、米・布・塩・人(奴隷)が想定できます。

 このうち、陸では、米が、海では、塩が、過剰生産物なので、それらを主要な物品貨幣とし、不足物と物々交換されたとみられ、中国大陸・朝鮮半島・日本列島の関係は、次のように図式化できます。

 

【中国大陸】-【朝鮮半島】-対馬-壱岐-【九州北半分】-吉備-【近畿中部】-【濃尾】-東海-【関東】

 

(つづく)