柄谷行人「力と交換様式」考察 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

内容(内面)のない・みえない外形(外面)は、独り歩きする

内容(内面)を外形(外面)の一部とみて、内外一体とする

構造主義・記号学(論)と外面/内面

鈴木大拙「日本的霊性」考察

知・情・意

~・~・~

 

 柄谷行人の哲学的・現代思想的な仕事を、理論的体系の集大成といえる『力と交換様式』(2022年)からみると、『マルクスその可能性の中心』(1974年、改訂1978年)以降と、『世界史の構造』(2010年)以降に、大別できるので、ここでは、前者を前提で、後者を交換様式で、整理してみました。

 

 なお、筆者は、前者と後者の間に、「内省と遡行」(1980年)・「隠喩としての建築」(1981年)・「形式化の諸問題」(1981年)・「言語・数・貨幣」(1983年、未完)で、自己(《内部》)から思索を出発しても、我から我々へ拡張させたにすぎず、他者(《外部》)に辿り着かないことを証明しました。

 そこから筆者は、『探究Ⅰ』(1986年)・『探究Ⅱ』(1989年)で、他者(《外部》)との接触・交換に差し迫ることを本格化し、後述のA・B・C・Dの4つの交換様式を土台とした、世界史の構造の把握に到達しています。

 

 

●前提

 

 物・事・人は、よく外面(外形)と内面(内容)の両面に二分し、それらを外面とみれば、物には魂(たとえば、言葉には言霊/ことだま)、事には理、人には心の、内面があるとされ、ここでの理は、人間や自然の道理で、知(知性・理性)・情(感性・情性)・意(意志・欲望)で解釈します。

 また、言語活動での言葉・経済活動での商品・芸術活動での作品も、それらを外面とみれば、言葉には意味、商品には値段(機能も)、作品には評価の、内面があるとされています。

 この3つは、筆者が当初から、言語活動でスイスの言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913年)、経済活動でドイツの哲学・経済学者のカール・マルクス(1818~1883年)、芸術活動でフランスの詩人・小説家のポール・ヴァレリー(1871~1945年)を、取り上げています。

 余談ですが、3つのうち、言語活動・芸術活動は、後述のネーション(国民)において、各国の俗語で翻訳した聖書・文学が普及し、言葉での交換・作品での交換により、国民を実感することつながりました。

 さらに、筆者が何度も取り上げている、マルクスの『経済学批判』(1859年)の序言では、「人間の意識が、その存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在が、その意識を規定する」といっています(唯物論)。

 これは、人間の意識・思想(内面)をもとに、社会的な掟・法・慣習・契約等で、人間の存在・形式(外面)のすべてを取り決められず、運命等で、自然に決定されることが多々あるということです。

 したがって、実際には、外面の存在・形式が先行し、人間は、その都度、内面の意識・思想を後付しているとみるべきです。

 ちなみに、マルクスは、それ以前の、プロイセンの社会思想家のフリードリヒ・エンゲルス(1820~1895年)との共著『ドイツ・イデオロギー』(1845-46年)でも、「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」といっています。

 これらから、もし、外面は、内面の表現にすぎないとみれば、そこに《外部》はなく、《内部》の延長になってしまいます。

 ここまでをまとめると、次のようになります。

 

※内外面(本体)

・外面(外形、様相・「ある」)=物・事・人、言葉・商品・作品 ~ 存在・形式:先行

・内面(内容、作用・「する」)=魂・理・心、意味・値段・評価 ~ 意識・思想:後付

 

 たとえば、言語活動・経済活動・芸術活動でも、内外両面の一致は、ほんの一瞬でしかなく、しだいに内面が外面からズレ、言葉は、あちらこちらで会話される中で意味が、商品は、あちらこちらで売買される中で値段が、作品は、時代・場所の中で評価が、変化していきます。

 だから、言語活動・経済活動・芸術活動は、自己(《内部》)の延長ではなく、他者(《外部》)との接触・交換といえ、次のように、不成立を前提とし、交換が成立すれば、事後に価値が外在したとみるべきで、特に商品は、労働力・金銭を費やしても、売れなければ、無価値になります。

 

・言語活動:言葉が通じないのを前提とし、通じれば、価値があったとみる ~ 言葉での交換

・経済活動:商品が売れないのを前提とし、売れれば、価値があったとみる ~ 商品と貨幣の交換

・芸術活動:作品がつまらないのを前提とし、感動すれば、価値があったとみる ~ 作品での交換

 

 つまり、言葉・商品・作品は、事前に意味が内在しているとみるべきでなく、もし、内在していれば、ある言葉の意味が後世で真逆になったり、ある商品の在庫がなくなるほど流行したり、ある作品の評価が急激に高騰する等、人間の当初の想定を遥かに越えることはないはずです。

 そうなると、言葉・商品・作品それ自体に、意味・値段・評価が単独にあるのではなく、その他との差異・相互関係性の中で規定され、それらの交換は、人間の意識・作為の範囲外で、無意識・自然に成立しているのが、本質といえます。

 

 

●交換様式

 

 筆者は、哲学的・現代思想的な仕事の当初から、マルクスを取り上げ、《外部》もみようとするマルクス自身と、《内部》でみようとするマルクス主義の、相違点に着目してきましたが、マルクス自身も、内外を揺れ動いていたようです。

 その中でも、内外の混乱が顕著なのは、『経済学批判』の序言で(史的唯物論)、前述の文章の前では、生産様式(生産力と生産関係)が経済的下部構造(土台)で、それが政治的・宗教的・観念的な上部構造を規定していると主張されています。

 しかし、これだと世界(社会構造体)の歴史がうまく説明できないので、筆者は、次の4つの交換様式を土台としましたが、ここで注意すべきは、人間の社会的な掟・法・慣習・契約等を除外していることで、この4つの交換は、人間の作為(《内部》)ではない、自然な成立(《外部》)が前提です。

 

※交換様式

・A:贈与と返礼の交換、互酬・交流・相互扶助のための財産集散

   → 不成立:断交、戦争、ポトラッチ(贈与競争の過激化)、ヴェンデッタ(氏族間の血の復讐)

・B:保護と納税の交換、支配と服従 → 不成立:税の収奪、君主批判、反乱、革命

・C:商品と貨幣の交換、売買・交易 → 不成立:断交、搾取(不等価交換)、恐慌(超不況)

・D:Aの高次元での回復

 

 この4つは、いずれも等価交換とみるべきですが、交換する人の双方の信用をもとにしているため、交換が人間の思い通りに成立するとはいえず、不信感からの不成立もあります。

 そのうえ、4つは類似しているので、支配的な交換様式が自然に変動することもあり、世界史上では、おおむねA→B→Cと移行しましたが、しばしば揺れ戻しもありました(たとえば、Bの国家からAの首長制社会への逆行)。

 このうち、AからBが派生するのは、贈与と返礼の等価交換ではなく、贈与側より返礼側に、圧倒的な返礼品(生命・財産等の保護も、そのひとつ)と、圧倒的な武力があれば、戦争で侵略しなくても、支配と服従が成り立ち、それは、自国独立か他国服属か、二者択一のいずれも国家だからです。

 AからCが派生するのは、1ヶ所での贈与と返礼の等価交換の交流ではなく、2ヶ所で交流し、安い価値体系で買い、高い価値体系で売れば、その差額が利潤になり、交易が成り立ちます。

 

 そして、交換様式が成立する際には、次のように、交換する物・事・人の装い(外面)に、得体の知れない何らかの観念的な強制力が宿っており、その力が働く(内面)ことで、人間は、自発的に交換しようとするとみています。

 その4つの交換様式の力は、Aの物霊の力・Bの聖王の力・Cの物神の力・Dの聖人の力で(私が仮に名づけました)、次のように想定されています。

 

※内外面(本体)

・外面(外形、様相・「ある」):交換する物・事・人の装い

・内面(内容、作用・「する」): → Aの物霊・Bの聖王・Cの物神・Dの聖人の力の働きとみる

 

※観念的な強制力

・A:物に付着した霊(物霊)の力(モースのハウ=精霊) ~ 拘束/物で水平的

・B:王に付着した聖(聖王)の力(ホッブスのリヴァイアサン=怪獣、

    ヴェーバーのカリスマ的支配、ホカートの聖なる王権) ~ 拘束/人で垂直的:神>王>民

・C:物に付着した神(物神)の力(マルクスのフェティッシュ=物神) ~ 自由/物で水平的

・D:超越した人に付着した神(聖人)の力 ~ 自由/人で垂直的:神>人

 ‐キリスト教:イエス(預言者)に付着した神

 ‐イスラム教:偶像崇拝を禁止、ムハンマド(預言者)に神が付着し、彼の慣行が神への奉仕

 ‐仏教:釈迦(創始者)→菩薩(修行者)→万人・万物に付着した仏(仏性・如来蔵)

 

 ここで注意してもらいたいのは、本書中での2軸4象限において、4つの交換様式の位置を、私がAとBを入れ替えていることです。

 2軸4象限で筆者は、縦軸を拘束(上側)と自由(下側)、横軸を不平等(左側)と平等(右側)にしていますが、4つとも等価交換とみるべきです(特にCは、2ヶ所での交換で、はじめて利潤や格差を生み出すので、1ヶ所での交換で、不平等とするのには、違和感があります)。

 よって、4つの交換様式の力を勘案すれば、AとCは、力が交換する物に付着して水平的ですが、BとDは、力が交換する人(王・超越した人)に付着して垂直的になり、次のように図式化できます。

 

                      拘束

      A=贈与と返礼の交換:物霊の力 ↑ B=保護と納税の交換:聖王の力

物で水平的←――――――――――――――――+――――――――――――――――→人で垂直的

      C=商品と貨幣の交換:物神の力 ↓ D=Aの高次元での回復:聖人の力

                      自由

 

 さて、4つの交換様式をもとに、世界史上の変遷をまとめると、次のようになりますが、ここでは、マルクスの上部構造と下部構造の区分を採用せず、政治・軍事・経済・宗教等の各分野を同等にみました。

 

〇遊動=原遊動性U:数世帯で移動、食料調達の力量で人数が制限、個人の独立性(自由・平等)あり

[A1]政治性・数世帯内=対等:遊動狩猟採集で分配(移動して食料を調達し、平等に分配)

[C2]経済性・数世帯間=対等:移動で偶発な交易(過剰物と不足物の等価交換)

 

 

〇定住=交換様式Aが中心(水平的:神-人):個人の独立性を保持(分権)、氏族→部族→首長制社会

[A1]政治性・共同体内=対等:定住狩猟採集で共同寄託・再分配(食料を調達・貯蔵し、平等に分配)

[A3]軍事性・共同体内=対等:縄張を防護(首長は突出せず、共同体をまとめて先頭で対応)

[A4]宗教性・共同体内=対等:呪術(人が自然の霊魂に祈願で贈与し、霊魂が人に自然の恩恵で返礼、返礼がなければ霊魂や祈祷師を廃棄)、呪物(偶像)崇拝(アニミズム)

[A5]政治性・共同体間=対等:交流・同盟・連合(贈与と返礼の交換、婚姻の交換で共同体が拡大)

[C2]経済性・共同体間=対等:定住で必要な交易(過剰物と不足物の等価交換)、地域特産を取引

 

 

○国家の出現=交換様式Bが中心(垂直的:神>王>民):都市国家→領域国家→帝国

※王:農耕民を支配(集権)、共通の文字・貨幣+度量衡の統一、漁労民(水)・遊牧民(陸)は、個人の独立性を保持、王を輩出

[B6]政治性・国家内=格差:税収の再分配(聖王が税を貯蔵・財源とし、治水・灌漑、貿易港・道路網の整備、官僚に給与、民を救済等)、 [A1]の発展形(王の突出)+公共事業・社会福祉

[B7]軍事性・国家内=格差:統治(聖王が民に生命・財産等の保護で贈与し、民が聖王に穀物の納税で返礼)、支配と服従の交換(王>民)、[A3]の発展形(王の突出)

[B8]宗教性・国家内=格差:世界宗教(聖王=祭司が超越神・天に信仰で贈与し、超越神・天が聖王に統治委託で返礼)、支配と服従の交換(神>王)、 [A4]の発展形(神の突出)

[A5]政治性・国家間=対等か格差:外交・同盟・連合か朝貢(贈与と返礼の交換)

[C2]経済性・国家間=対等:交易(物々交換か商品と貨幣の交換)、国家が貿易・市場を管理・統制

 

※民:農耕民(Aを継承)、王に服従(個人の独立性なし)

[A1]政治性・農業共同体内=対等:農作の共同寄託・再分配(穀物を生産・貯蔵し、平等に分配)

[B9]宗教性・農業共同体内=格差:祭祀(民が自然神に信仰で贈与し、神が民に穀物の絶大な自然の恩恵で返礼、返礼がなくても神を廃棄せず)、支配と服従の交換(神>民)、[A4]の発展形(神の突出)

[A5]政治性・農業共同体間=対等:交流(贈与と返礼の交換、婚姻の交換)

[C2]経済性・農業共同体間=対等:交易(物々交換か商品と貨幣の交換)

 

※帝国の亜周辺(A以上・B未満):王侯・貴族・騎士・教会が群雄割拠、個人の独立性あり(分権)

[B10]政治性・個人間=格差:封建制(王侯の主君が家臣に保護・土地分与で贈与し、家臣が主君に忠誠・軍事奉仕で返礼)、支配と服従の交換(主君>家臣)、[B6]の変形

[B11]軍事性・個人間=格差:荘園制(家臣の領主が農奴に保護・土地貸与で贈与し、農奴が領主に貢納・賦役等で返礼)、支配と服従の交換(領主>農奴)、独立自営農民の地代金納に転化、[B7]の変形

 

 

〇資本主義の発達=交換様式Cが中心:商人資本→産業資本、絶対王政(王のもとの平等)→国民国家(法のもとの平等)

[A12]文化性・国家内=対等:ネーション/国民(各国の俗語で翻訳した聖書・文学が普及し、国民を実感)、[A1]の発展形(低次元での回復)

[B6]政治性・国家内=格差:税収の再分配(王か政府が税を貯蔵・財源とし、大航海で遠隔地交易、常備軍を保持、官僚に給与、民を救済等)、 [A1]の発展形(王か政府の突出)+資本主義・社会福祉

[B7]軍事性・国家内=格差:統治(王か政府が民に生命・財産等の保護で贈与し、民が王か政府に貨幣の納税で返礼)、支配と服従の交換(王か政府>民)、[A3]の発展形(王か政府の突出)

[C2]経済性・共同体間・個人間=対等:交易・賃労働(商品と貨幣の交換、労働力と給与の交換)、列強の軍が植民地に進出し、自国の資本を保護

 

 

〇不意に到来=交換様式D:B・Cに対抗し、Aを高次元で回復(依代のもとの平等)

[D13]政治性・共同体内=対等:ユートピア/理想郷・共産主義の再分配(土地の所有権は共同で使用権の譲渡で贈与し、必要物を生産すれば、平等に分配で返礼)、[A1]への回復形

[D14]軍事性・国家間=対等:国際連盟・国際連合(各国が超人間的な力の自然を信仰・国際同盟で贈与し、自然が各国の永遠平和・救済で返礼、支配と服従の交換(自然>国家)、[A5]への回復形

[D15]経済性・個人間=対等:協同組合の再分配(組合員が共同で出資・所有・経営し、利潤を平等に分配)、[A1]への回復形

[D16]宗教性・個人内=格差:普遍宗教(個人が超越神を信仰・兼愛や慈悲の無償の奉仕で贈与し、超越神が個人を庇護・救済で返礼、救済がなくても神を廃棄せず)、支配と服従の交換(神>人)、[A4]→ [B9]への回復形

 

 以上より、まず、充分認識しておくべきは、現在が、資本(C)=ネーション(国民、A)=国家(B)の強力・巧妙な三位一体で(相互補完的)、ここからの根本的な変革はありえず、Dによる資本主義・国家の揚棄・死滅も、不可能なことです。

 その根拠は、資本主義的市場経済(C)を存続するために、労働者を育成(生産性・利潤追求のため)・保護(格差・対立是正のため)しなければならず、それには国家(B)による再分配で、共同性・平等性を志向する国民(A)への、教育・福祉政策が必要だからです。

 つぎに、各交換様式の詳細をみていくことにします。

 

 Aについて、共同寄託・再配分(A1)は、相互扶助のための財産集散なので、ここでは、贈与と返礼の交換と同様に取り扱っており、ユートピア(D13)・協同組合(D15)等、Dでの共同での財産集散につなげることで、DがAの高次元での回復になるようにしています。

 Aのネーション(A12)は、絶対王政で資本(C)と国家(B)が結合し、農業共同体(A)が解体され、市民社会に移行する中で、C・Bに対抗するため、想像的に回復された、自分は国民だという実感で、友愛(家族・中間団体ではない連帯感)も、この時期から、主張されるようになりました。

 ヨーロッパでは、宗教改革(16世紀前半)で聖書が各国の俗語で翻訳され、産業革命(18世紀後半~)・市民革命で国民国家を形成し、庶民にも各国語の文学作品が普及したので(言葉での交換+作品での交換)、国民感情が醸成されました。

 やがて、その中から、西洋列強が、強大な武力で、国民国家を拡大しましたが、帝国主義・植民地化は、他民族侵略・支配なので、現地のネーション・ナショナリズムを喚起させ、それが各地で国民国家を続出させる結果となりました。

 

 Bについて、君主制では、超越神か天のもとに、聖王が官僚制で民を支配し(B6・B7)、王朝交代の大半は、武力での反乱・革命なので、国家権力も、建国期には、近接的・物理的な武力でしたが、安定期には、遠隔的・心理的な聖なる王権の力で、民をしたがわせました。

 それが近現代の民主制では、人間の作為により、法治国家・権力分立の原則が確立され、政府の長は、武力によらず、選挙で平和に交代するようになりました。

 Bの世界宗教(B8)は、国教化で、超越神と民の間に、国家権力をもつ王や聖職者が介在するので、間接的ですが、Dの普遍宗教(D16)は、しがらみのない都市民か、王や聖職者の介在がなくなるか、農業共同体の解体で、超越神と信者が直結し(信者に超越神が内在)、直接的です。

 

 Cについて、物神の力は、商品力→貨幣力→資本力(カネ=株式・債券、モノ=施設・設備、ヒト=労働力)と発展しました。

 商品を、使用価値からみると、必要な用途(内面)のために生産しますが、膨大な商品が流通した中で、交換価値からみると、商品自体に付着した魅力(外面)があれば、利用欲とともに、所有欲につながります(商品力)。

 Cは当初、余剰物と不足物の物々交換で、そこから、大勢の人々が必要で流通しやすい商品が、実物貨幣(穀物・家畜・布類)となり、それ自体の価値で取引されましたが、劣化しやすいので、長年の貯蓄は無理でした。

 それが、運搬容易・品質一定で劣化しにくい、貴金属貨幣(金・銀・銅貨)になると、長年の貯蓄が容易なので、守銭奴が出現(貨幣力)、やがて、それ自体に価値がない反面、政府発行で信用を保証し、流通が激増可能な、名目貨幣(紙幣)になると、資本の自己増殖が加速しました(資本力)。

 商品と貨幣の等価交換の中で、利潤を追求するには、商品を安い価値体系で買うか作り、高い価値体系で売って貨幣を得るしかなく、それには、自分だけでは使い切れない数量の商品を、一時所有しなければならないリスクがあるので、商品よりも、何でも買える貨幣のほうが、魅力優位です。

 ところが、自分の貨幣を増やすには、商人資本か産業資本か金融資本に投資し、他人に依存するしかないので、他者増殖しかできない貨幣より、自己増殖できる資本のほうが、魅力優位で、これが商品力→貨幣力→資本力と発展した理由です。

 Cが西ヨーロッパ中心に発達したのは、帝国に干渉・侵略されず、文明を摂取できた、亜周辺に位置していたため、市場や貿易を国家に管理・統制されず、自由だったので、自治都市が成立し、その諸都市が王と結託、諸侯・教会等から突出でき、絶対王政となり、封建制を解体させたからです。

 西ヨーロッパで最初に資本主義が発達したのは、富裕層の贅沢品が中心の、自由貿易・世界市場による商人資本で、商人資本の先進国(オランダ)は、投資が容易な金融資本も発達した一方、マニュファクチュア(工業制手工業)が進んでいても、投資が面倒な産業資本は、発達しませんでした。

 他方、商人資本の後進国(イギリス)は、マニュファクチュアも遅れをとっていましたが、挽回のため、最初は、保護貿易・国内市場による産業資本を育成し、強化したうえで、自由貿易・世界市場に転換しました。

 産業資本が世界に拡大したのは、後発国でも、当初の保護貿易・国内市場が見込めれば、取組めるからで、産業資本は、総体的にみて、自由と合意のもとで庶民に、生産過程では、労働者として、商品を製造させ、流通過程では、消費者として、その商品を購入させ、その差額が利潤になります。

 

 Dについて、普遍宗教では、超越した人(イエス・ムハンマド・釈迦等)に神仏の力が付着したとみれば、その聖人は依代(よりしろ)といえ、かれらの慣行(事)を戒律化・儀式化(外面の形式)することで、広く・長く布教できたのではないでしょうか。

 一方、ユートピア(D13)・協同組合(D15)や国際連盟・国際連合(D14)では、具体的な物か人の依代がないので、効果が限定的のようにみえます(カントのいう、国際同盟のための自然は、抽象的な依代なので、力が脆弱です)。

 逆に、共産主義(D3)では、主義という理(内面の思想)を最重要視すれば、事(外面の形式)でもないので、効果が限定的になりそうですが、ソ連でスターリン、中国で毛沢東、北朝鮮で金日成と、超越した人が依代になっていたので、体制が延命できたのではないでしょうか。

 そうはいっても、この3国は、とてもDが実現したとはいえず、現在でも、ロシア・中国・北朝鮮は、法治国家・権力分立の原則を確立させずに、国家最高機関の権力を万能にしているので、それぞれプーチン・習近平・金正恩は、Bの聖王のような地位だといえるのではないでしょうか。

 日本の神道も、当初は自然神だけでしたが、祭具神や人格神も、祈事・祭事(事、外面の形式)するようになり、神が物から人へと強化され、古代(飛鳥後~奈良期)と近代(大正~昭和前期)には、天皇を依代にすることで(現人神/あらひとがみ)、中央集権化・国家神道化しました。

 

 本書の最後でDは、人間の作為で実現できるようなものではなく、「向こうから来る」ものだと主張していますが、それは、他の3つの交換様式にも、多かれ少なかれ、いえることです。

 その理由は、そもそも前述で、この4つの交換は、人間の意識・作為(《内部》)ではなく、無意識・自然な成立(《外部》)を前提にしているからです。

 このように、4つの交換様式は、いずれもその成立が、人間の仕業でなく、自然の仕業ですが、前述で、交換する物・事・人の装い(外面)を、霊・聖・神の力の働き(内面)と想定されたことについて、実際の力を、人間の作為と、自然な成立で、振り分けてみると、次のようになります。

 

※内外面(本体)

・外面(外形、様相・「ある」):霊・聖・神の強制力 ~ 受動的・自然な成立:「向こうから来る」、信

・内面(内容、作用・「する」):知・情・意の自発力 ~ 能動的・人間の作為:法治、解

 

 内外の両者をみれば、人間の作為は、知・情・意で「する」ことができますが、自然な成立は、霊・聖・神が「ある」ことだけで、こちら(自己)から行うだけでは成立しないので、「向こう(他者)から来る」のを待つことになり、世界史上でA・B・Cが、運命で変遷したとみるべきなのです。

 すなわち、4つの交換様式の力(魅力・魔力)である、Aの互酬力、Bの国家権力、Cの商品力・貨幣力・資本力、Dの無償の奉仕・連帯力は、人間がコントロールしきれず、自然に独り歩きすることになります。

 ここまでみると、物・事・人において、その内面の意味を解くことは、自己(《内部》)の延長でしかなく、我から我々へ拡張させたにすぎず、人間の仕業のみですが、その外面の価値を信じることは、他者(《外部》)との接触・交換に必要で、自然の仕業も想定されているのがわかります。

 

 最後に一言、筆者は、自己(我)・人間(我々)の意識・思想(知・情・意)が及ばない、他者(《外部》)・無意識を探究してきましたが、そこで、もし、近代思想家達の「中心」の主張を取り上げても、そのほとんどは、人間の意識・思想が及んだ、自己(《内部》)になってしまいます。

 なので、近代思想家達があまり気づいていない、「亜周辺」のわずかな主張の数々の断片を取り上げ、論理で組み立てていくのに、相当苦労したのが推測できます。

 4つの交換様式での物・事・人の装い(外面)を、霊・聖・神の力の働き(内面)としてみたのも、もし、外面からみれば、その様相である、有無・生滅の程度にしか辿り着けず、きっとつまらなくなったでしょう(後期ハイデガーのように?!)。

 ですが、内面からみれば、その作用である、知(知性・理性)・情(感性・情性)・意(意志・欲望)にまで持ち込めるので、はるかにおもしろくできたのではないでしょうか。