知・情・意 | ejiratsu-blog

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 知(理知、智恵)・情(感情、情緒)・意(意志、意欲)は、人間が持つ3つの心の働きで、カントに由来するとされ、実業界では、渋沢栄一や松下幸之助が、文学界では、夏目漱石が、取り上げているので、ここでは、それらをみていくことにします。

 

 

●カント

 

 ドイツの哲学者のイマヌエル・カント(1724~1804年)は、『純粋理性批判』(1781年、改訂1787年)・『実践理性批判』(1788年)・『判断力批判』(1790年)等で、人間の精神は、知(理知)・情(感情)・意(意志)の3つの働きを持つとしています。

 その3つは、それぞれ、真か偽かの認識構造、快か苦かの美的判断、善か悪かの道徳法則にもとづき、それぞれ自然・科学、趣味・芸術、自由・責任の分野で多用され、次のように整理できます。

 

※人間が持つ精神の働き

・知(理知)=認識構造:真/偽 → 『純粋理性批判』 ~ 自然・科学

・情(感情)=美的判断:快/苦 → 『判断力批判』 ~ 趣味・芸術

・意(意志)=道徳法則:善/悪 → 『実践理性批判』 ~ 自由・責任

 

 

●渋沢栄一『論語と算盤』(1916年)

 

 実業家の渋沢栄一(1840~1931年)は、『論語と算盤』の3章《常識と習慣》・1項《常識とは如何なるものか》で、智(智恵)・情(情愛)・意(意志)の3者が、各々権衡(けんこう、均衡)・調和を保ち、平等に発達したものが、完全の常識だろうと考えるといっています。

 このうち、智恵は、通俗の事理を理解したうえで、物に接触し、物の善悪・是非・利害・得失・効能を識別すべきで、農業社会で農作物は、有限なので、分配のために、仁義忠孝・道徳を重視しましたが、工業社会で工作物は、ほぼ無限なので、商売のために、功利・智恵を重視します。

 情愛は、普通一般の人情に精通し、感情を緩和・円満・控制(こうせい、コントロール)すべきで、意志は、聡明な智恵と、調節する情愛のもとで、鞏固(きょうこ、強固)であるべきとし、智・情・意の3者を適度に調合して発達すれば、完全なる常識になると主張しました。

 

 ちなみに、実業家の松下幸之助(1894~1989年)は、知・情・意を調和・育成することで、人間性の向上に努力すべきと主張している一方、人生のうち、知・情・意の働きは、約20~10%にすぎず、約80~90%は、動かすことのできない運命だともいっていました。

 しかし、人事を尽くして天命を待つことで、その運命が光彩を放つものになるかが、決まるのではないかともいっており、知・情・意以外に、運命が想定されています。

 そこから振り返って、渋沢の『論語と算盤』をみると、10章の《成敗(成功・失敗)と運命》の3項で、《人事を尽くして天命を待て》と主張しているので、戦後の松下は、戦前の渋沢の言葉に影響され、それを継承・発展させたと推測できます。

 

 

●夏目漱石『草枕』(1906年):冒頭

 

 夏目漱石(1867~1916年)は、イギリス・ロンドン留学(1900~1902年)で、文学を研究、東京帝大英文科で、文学を講義し(1903~1905年)、それらを加筆・訂正したものが、『文学論』(1907年)です。

 この時期に、漱石は、小説『草枕』や、講演録《文芸の哲学的基礎》で、知・情・意を取り上げており、たとえば、『草枕』の冒頭は、次のようです。

 

 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼(霊魂)でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊(たっ)とい。

 住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をま(目)のあ(当)たりに写すのが詩である、画である。ある(或)は音楽と彫刻である。こま(細)かに云えば写さないでもよい。ただま(目)のあ(当)たりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧(わ)く。着想を紙に落さぬとも璆鏘(きゅうそう、金属が触れ合って美しく鳴ること)の音(おん)は胸裏(きょうり)に起(おこ)る。丹青(たんせい、絵具)は画架(がか、イーゼル)に向って塗抹(とまつ、塗り付けること)せんでも五彩の絢爛(けんらん)は自(おのず)から心眼に映る。ただおの(己)が住む世を、かく観じ得て、霊台方寸(心の中)のカメラに澆季溷濁(ぎょうきこんだく、混濁した乱世)の俗界を清くうら(麗)らかに収め得れば足る。この故に無声(むせい)の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑(せっけん、わずかな画作)なきも、かく人世(じんせい)を観じ得るの点において、かく煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)するの点において、かく清浄(しょうじょう)界に出入(しゅつにゅう)し得るの点において、またこの不同不二の乾坤(けんこん、天地)を建立し得るの点において、我利私慾(私利私欲)の覊絆(きはん、束縛)を掃蕩(そうとう、一掃)するの点において、――千金の子よりも、万乗(ばんじょう)の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ、人気者)よりも幸福である。

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあ(当)たる所にはきっと影がさ(差)すと悟った。三十の今日(こんにち)はこう思うている。――喜びの深きとき(時)憂(うれ)いよいよ深く、楽(たのし)みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寝る間も心配だろう。恋はうれ(嬉)しい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえ(返)って恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶ(負)さっている。うまい物も食わねば惜(お)しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあと(後)が不愉快だ。……

 

 知・情・意は、コントロールとバランスが大切で、知・情・意のやりすぎは、住みにくくなるため、それを悟り、住みよく、人の心を豊かにし、幸福にするのが芸術で、そのためには、内面の知・情・意が働きすぎないよう、外面の装いそのもので表現することが、大切になります。

 つまり、我(主体)という自己中に起るもの(知・情・意、結果)を抑制することで、物(客体)へ感覚的に附着したもの(美、原因)を強調することが、芸術といえ、次のように、まとめることができます。

 

※主客:分別

・物(客体):物へ感覚的に附着したもの(原因)、芸術(詩、画、音楽、彫刻) ~ 美的理想

・我(主体):我という自己中に起るもの(結果)

 ‐知:「智に働けば角が立つ」(智恵を働かせれば目立つ)

 ‐情:「情に棹させば流される」(感情の勢いに乗って進めば流される)

 ‐意:「意地を通せば窮屈だ」(意地を通せば堅苦しい)

 

 

●夏目漱石『文芸の哲学的基礎』:《文芸の哲学的基礎》(1907年)

 

 また、漱石は、『文芸の哲学的基礎』の《文芸の哲学的基礎》で、まず、世界は、空間と時間の連続した意識の中で、我(私、主体)と物(私以外、客体)の相対関係が成立するとしました。

 つぎに、人々がうまく生きて行くために、物を分化(分別)しつつも統一していき、意識の材料を多くすることで、選択の自由を利かして、自己の理想を実行しやすくしたと主張しています。

 このうち、我は、身体と精神に二分され、その精神作用は、知・情・意に区別される一方、物は、自然・人間・超感覚的な神に区別されるとしました。

 この精神の3作用は、各々独立しておらず、相互に関係していますが、我の3作用と物を結び付けると、物に向かって、知を働かす人・情を働かす人・意を働かす人に大別でき、それぞれ次のように、まとめられますが、これらは皆、いかにして存在するかの、生活問題から割り出したものです。

 

※我の精神作用:知・情・意

・知を働かす人=物の関係を明(あきら)める人:哲学者、科学者、学者

・情を働かす人=物の関係を味わう人:文学者、芸術家(画家、音楽家)、文芸家、創作家

・意を働かす人=物の関係を改造する人:軍人、政治家、豆腐屋、大工、百姓、車引

 

 さらに、漱石は、3者のうち、自分や、講演先の東京美術学校の聴衆は、文芸家なので、情を働かせて生活するのが理想で、それには、具体的・感覚的に、物の関係を味わい得るよう表現し、情を満足することが最優先だとしました。

 そして、文芸創作・鑑賞の際に、物には、前述での、自然・人間・超感覚的な神の3つがありますが、神は、自然・人間等として表現するしかないので、除外しておきます。

 そのうえで、自然・人間は、作者が、感覚的な自然物(山水・天地)・人物(美人・裸体)の関係を表現し、そのもので読者が、情を満足させるのを、美的理想(情操)としました。

 一方、我の精神作用には、前述での、知・情・意の3つがあり、このうち、知の場合には、作者が、具体的な感覚物を道具に使い、それで読者が、抽象的に知を働かせ、その感覚物の関係を明らかにし、情を満足させるのを、真に対する理想としました。

 情の場合には、作者が、作物中(作中)の情(原因)を材料として使用し、それで読者が、その感覚物の関係を味わい、情(結果)を満足させるのを、愛・道義に対する理想、善の理想としました。

 意の場合には、作者が、具体的な感覚物を道具に使い、それで読者が、意志を働かせ、その感覚物の関係を改造し、情を満足させるのを、荘厳・崇高に対する理想(情操)としました。

 以上より、文芸家の理想の4種は、次のようです(『文学論』と食い違いがあるようです)。

 

※文芸家の理想

・感覚物そのものに対する情(情緒):美的理想(情操)

・感覚物を通じて知が働く場合:真に対する理想

・感覚物を通じて情が働く場合:愛・道義に対する理想、善の理想

・感覚物を通じて意が働く場合:荘厳・崇高に対する理想(情操)

 

 実際には、この4種の理想が、相互に混合・錯雑することになりますが、これらのうちで、顕著なのが、作品や個人の特徴になったり、時代の流行にもなることもあり、この4種で、好悪だけではない、理屈・根拠のある批評も可能になります。

 それで、現代(近代)文芸の理想は、単純な美ではなく、真に対する理想が時勢だとし、知が働く場合には、人間の観察が深く・狭くなりますが、世界は広く、理想は異なるので、同等の権利がある4種のうち、知が他の3種を妨害しかねません。

 なので、相互に衝突しないよう、折り合いをつけるため、自の理想を発揮する際には、他の理想をことごとく忘却しますが(たとえば、裸体画の美に打たれれば、善悪を忘れる)、近代の時勢である、知を働かせようと、情を強烈にしても、真に対する理想は、うまく発揮できなかったようです。

 ですが、文芸家には、広く・高い4種の理想があるので、偉大な人格者とし、それらの理想を発揮する道具が技術(技巧)で、技術は、理想を実現しようと広く触れた、人生の修養で含蓄するため、理想をもつ人格(前提)と、それを表現できる技術(手段)の、双方が大切だとしています。

 こうして、発達した理想と、完全な技巧を、合致できたのが、文芸の極致で、作者がその極致へ達し、作物(作品)を媒介に、読者の熟した機縁が接すれば、至大至高の還元的感化を受け、享楽できるとし、これは、我と物の意識が一致・連続することで、我を忘れて物を読む状態です。

 

 ここまでみると、松下のいう、我に働く知・情・意以外の、大部分とされる運命のうちで、その一部が、漱石のいう、物に付着した美(魅力)や、鈴木大拙のいう、霊性(霊力)と、いえるのではないでしょうか。

 そうして、カント・渋沢は、知・情・意で、人間の思想(作為)のみを、松下・漱石・大拙は、それとともに、自然の形式(生滅)・何らかの力をも、想定していたようにみえます。