*伊藤仁斎「語孟字義」読解27・28~附1(大学は孔氏の遺書にあらざるの弁)
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『大学』は、『中庸』(ちゅうよう)と同様、『礼記』(らいき)49篇中の1篇で(『大学』は42篇、『中庸』は31篇)、朱子(中国・南宋の思想家)が、『中庸』とともに独立させ、四書として尊重しました(四書は、これらの他に『論語』・『孟子』)。
その際に朱子は、『大学』を曽子(孔子の弟子)の著作とこじつけ、孔子の『論語』→曽子(孔子の弟子)の『大学』→子思(孔子の孫)の『中庸』→孟子(子思の孫弟子)の『孟子』の系統を強調しましたが、『大学』の内容をみれば、『論語』・『孟子』以降で(『中庸』の一部も)、前漢代が有力です。
ここでは、朱子の『大学章句』の章立てではなく、『礼記』をもとにした、金谷治氏の章立てとしました。
■1章
(1-1)大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善。知止而后有定、定而后能静、静而后能安、安而后能慮、慮而后能得。物有本末、事有終始、知所先後、則近道矣。
[大学の道は、明徳を明らかにするに在(あ)り、民を親しましむに在り、至善に止(とど)まるに在り。
止まるを知りて后(のち)、定まるあり。定まりて后、よく静かなり。静かにして后、よく安し。安くして后、よく慮(おもんばか)る。慮りて后、よく得(う)。物に本・末あり、事に終・始あり、先・後する所を知れば、すなわち道に近し。]
《大学の道は、公明正大な徳(明徳)を明らかにすることにあり、民を親しませることにあり、至極の善にとどまることにある(3綱領)。
とどまることを知った後に、定まりがある。定まった後に、充分静かになる。静かな後に、充分安らかになる。安らかな後に、思慮する。思慮の後に、充分(至極の善にとどまることを)得る。物には根本・末端があり、事には始めと終りがあり、先・後にすることを知れば、つまり道に近い。》
(1-2)古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。
物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。身修而后家斉。家斉而后国治。国治而后天下平。
[古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先(ま)ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致(きわ)む。知を致むるは、物を格(いた)すに在(あ)り。
物格りて后(のち)、知至(きわ)まる。知至まりて后、意誠なり。意誠にして后、心正し。心正して后、身修まる。身修まりて后、家斉う。家斉いて后、国治まる。国治まりて后、天下平らかなり。]
《昔の公明正大な徳(明徳)を天下に明らかにしようとする者は、まずその国を治める(治国)。その国を治めようとする者は、まずその家を整える(斉家)。その家を整えようとする者は、まずその身を修める(修身)。その身を修めようとする者は、まずその心を正しくする(正心)。その心を正しくしようとする者は、まずその意思を誠にする(誠意)。その意思を誠にしようとする者は、まずその知を極める(致知)。知を極めることは、物を極めることにある(格物)。
物を極めた後に、知が極まる。知を極めた後に、意思が誠になる。意思が誠になった後に、心が正しくなる。心が正しくなった後に、身が修まる。身が修まった後に、家が整う。家が整った後に、国が治まる。国が治まった後に、天下が平安だ(平天下、8条目)。》
(1-3)自天子以至於庶人、壱是皆以修身為本。其本乱而末治者否矣。其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也。此謂知本、此謂知之至也。
[天子よりもって庶人に至るまで、壱(いつ)にこれ皆、身を修むるをもって本となす。その本乱れて、末治まる者は否(あら)ず。その厚かる所の者を薄くして、その薄かる所の者を厚くするは、いまだこれあらざるなり。これを、本と知る、といい、これを、知の至(きわ)まり、というなり。]
《天子から庶民に至るまで、ひとつになり、これで皆が、身を修めること(修身)を根本とする。その根本が乱れ、末端が治まるものはない。その手厚いものを手薄にして、その手薄のものを手厚くするのは、まだこれがないのだ。これを<知本(根本を知る)>といい、これを<知の至極>というのだ。》
■2章
(2-4)所謂誠其意者、毋自欺也。如悪悪臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其独也。
小人閒居為不善、無所不至。見君子而后厭然、揜其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝然、則何益矣。故君子必慎其独也。
曽子曰、十目所視、十手所指、其厳乎。富潤屋、徳潤身、心広体胖。此謂誠於中、形於外。故君子必誠其意。
[いわゆるその意を誠にすは、自ら欺(あざむ)くなきなり。悪臭を悪(にく)むがごとく、好色を好むがごとし。これをこれ、自ら謙(こころよく)す、という。ゆえに君子は、必ずその独(どく)を慎(つつし)むなり。
小人、閒居(かんきょ)して不善をなし、至らざる所なし。君子を見て后(のち)、厭然(えんぜん)として、その不善を揜(おお)いて、その善を著(あらわ)す。人の己(おの)れを視ること、その肺肝(はいかん)を見るがごとくしかれば、すなわち何ぞ益せん。ゆえに君子は必ずその独を慎むなり。
曽子(そうし)いわく、「十目の視る所、十手の指さす所、それ厳なるかな」と。富は屋(おく)を潤(うるお)し、徳は身を潤す。心広ければ体も胖(おおい)なり。これを、中(うち)に誠なれば、外に形(あら)わる、という。ゆえに君子は、必ずその意を誠にす。]
《いわゆる<その意思を誠にする>(誠意)は、自らをだまさないことだ。悪臭を憎むようなもので、美しい容姿を好むようなものだ。これをこれで<自謙(自ら満足する)>という。よって、君子(徳のある人)は、必ずそれで独り慎むのだ(慎独、『中庸』1-1)。
小人(徳のない人)は、ひとりで不善をし、至らないことがない(不善に至る)。君子を見た後に、嫌になって、その不善を覆い隠して、その善を現わそうとする。人が自己を見ることは、その心の奥底を見るようなものなので、つまり何の利益があるのか(いや、ない)。よって、君子は必ずそれで独り慎むのだ。
曽子(孔子の弟子)がいう、「10の目が見るところ、10の手が指すところ、それは厳しくなるな」。富は家屋を潤し、徳は身を潤す。心が広ければ、体も豊かだ。これを<内面が誠になれば、外面に現われる>という。よって、君子は、必ずその意思を誠にする。》
(2-5)詩云、瞻彼淇澳、菉竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮僩兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。如切如磋者、道学也。如琢如磨者、自修也。瑟兮僩兮者、恂慄也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛徳至善、民之不能忘也。
詩云、於戯、前王不忘。君子賢其賢而親其親、小人楽其楽而利其利。此以没世不忘也。
[詩にいう、「彼の淇(き)の澳(くま)を瞻(み)るに、菉竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。有斐(ゆか)しき君子は、切るがごとく磋(みが)くがごとく、琢(う)つがことく磨(す)るがごとし。瑟(しつ)たり僩(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。有斐しき君子は、終(つい)に諠(わす)るべからず」と。切るがごとく磋くがごとしは、学ぶを道(い)うなり。琢つがことく磨るがごとしは、自ら修むるなり。瑟たり僩たりは、恂慄(じゅんりつ)なるなり。赫たり喧たりは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に諠るべからずは、盛徳・至善にして、民の忘るる能(あた)わざるを道うなり。
詩にいう、「ああ、前王、忘れられず」と。君子はその賢を賢として、その親を親しみ、小人はその楽しみを楽しみて、その利を利とす。ここをもって世を没(お)うるも忘れられざるなり。]
《『詩経』によると、「あの淇の川の曲がった隅を見ると、緑の竹が美しく茂っている。心ひかれる君子は、切磋琢磨するようだ。静かで大らかで、明るく盛んだ。心ひかれる君子は、最終的に忘れることができない」。切・磋のようなものは、学ぶことをいうのだ。琢・磨のようなものは、自らを修めることだ。静かで大らかは、恐れ慎むことだ。明るく盛んは、威厳のある儀礼だ。<心ひかれる君子は、最終的に忘れることができない>は、最盛の徳・至極の善で、民が忘れることができないのをいうのだ。
『詩経』によると、「ああ、前代の王が忘れられない」。君子は、その(前の王の)賢者を賢者とし、その(前の王の)親を親しみ、小人は、その(前代の王の)楽しみを楽しんで、その(前代の王の)利益を利益とする。こういうわけで、世代が終っても、忘れられない。》
(2-6)康誥曰、克明徳。太甲曰、顧諟天之明命。帝典曰、克明峻徳。皆自明也。
湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。康誥曰、作新民。詩曰、周雖旧邦、其命惟新。是故君子無所不用其極。
詩云、邦畿千里、維民所止。詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅。子曰、於止知其所止,可以人而不如鳥乎。詩云、穆穆文王、於緝熙敬止。為人君止於仁、為人臣止於敬、為人子止於孝、為人父止於慈、与国人交止於信。
[康誥(こうこう)にいわく、「克(よ)く徳を明らかにす」と。大甲(たいこう)にいわく、「天の明命を顧(おも)い諟(ただ)す」と。帝典にいわく、「克く峻徳(しゅんとく)を明らかにす」と。皆、自ら明らかにするなり。
湯(とう)の盤の銘にいわく、「苟(まこと)に日に新た、日日に新たに、また日に新たなれ」と。康誥にいわく、「新たなる民を作(おこ)せ」と。詩にいわく、「周は旧邦なりといえども、その命は維(こ)れ新たなり」と。このゆえに、君子はその極を用いざる所なし。
詩にいう、「邦畿(ほうき)千里、維れ民の止(とど)まる所」と。詩にいう、「緡蛮(めんばん)たる黄鳥(こうちょう)は、丘隅に止まる」と。子いわく、「止まるにおいては、その止まる所を知る。人をもって鳥にしかざるべけんや」と。詩にいう、「穆穆(ぼくぼく)たる文王、ああ、緝煕(あきらか)にして止まるところを敬(つつ)しむ」と。人の君たりては仁に止まり、人の臣たりては敬に止まり、人の子たりては孝に止まり、人の父たりては慈に止まり、国人(くにたみ)と交わりては信に止まる。]
《(『書経』の)康誥篇によると、「充分に徳を明らかにした」。(『書経』の)太甲篇によると、「天の明らかな命令を思い正した」。(『書経』の)尭典篇によると、「充分に立派な徳を明らかにした」。すべては、自らで明らかにしたのだ。
湯王(殷王朝の創始者)の水盤の銘文によると、「本当に日ごとに新しく、日々に新しく、また日ごとに新しくなれ」。(『書経』の)康誥篇によると、「新しい民をおこせ」。『詩経』によると、「周は古い国だといっても、その命令は特に新しいのだ」。これによって、君子は、その(新しさの)至極を用いないことがない(用いる)。
『詩経』によると、「国の都城周辺の直轄地1000里四方は、特に民がとどまるところだ」。『詩経』によると、「美しく鳴くコウライウグイスは、丘の隅にとどまる」。孔子がいう、「(コウライウグイスが)とどまるにおいては、そのとどまるところを知っている。人が鳥に及ぶことができないのか(いや、できる)」。『詩経』によると、「なごやかな(周の国の)文王は、ああ、明らかにとどまるところを慎んでいる」。人が君主になれば、仁にとどまり、人が臣下になれば、敬にとどまり、人が子になれば、孝にとどまり、人が父になれば、慈悲にとどまり、国民と交流すれば、信にとどまる。》
(2-7)子曰、聴訟吾猶人也。必也使無訟乎。無情者不得尽其辞、大畏民志。此謂知本。
[子いわく、「訟(うったえ)を聴くは吾(わ)れもなお人のごときなり。必ずや訟なからしめんか」と。情(まこと)なき者は、その辞(ことば)を尽くすを得ざらしめ、大いに民の志(こころ)を畏れしむ。これを、本を知る、というなり。]
《孔子がいう、「訴えを聞いて裁くのは、私もちょうど(他の)人のようなものだ。必ず訴えをなくさせたいな」(『論語』12-291)。誠がない者は、その(偽りの)言葉をいい尽くすことができず、大いに民の心を恐れさせる。これを<知本(根本を知る)>というのだ。》
■3章
(3-8)所謂修身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好楽、則不得其正。有所憂患、則不得其正。
心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味。此謂修身在正其心。
[いわゆる身を修むるには、その心を正すに在(あ)りは、身に忿懥(ふんち)する所あるときは、すなわちその正を得ず。恐懼(きょうく)する所あるときは、すなわちその正を得ず。好楽する所あるときは、すなわちその正を得ず。憂患する所あるときは、すなわちその正を得ず。
心、焉(ここ)に在(あ)らざれば、視れども見えず、聴けども聞えず、食らえどもその味を知らず。これを、身を修むるは、その心を正すに在り、という。]
《いわゆる<身を修めるには、その心を正すことにある>(修身→正心)は、身に怒ることがあれば、つまりその(心の)正しさを得られない。恐れることがあれば、つまりその(心の)正しさを得られない。好み楽しむことがあれば、つまりその(心の)正しさを得られない。悩むことがあれば、つまりその(心の)正しさを得られない。
心がここに存在しなければ、見ても見えず、聞いても聞こえず、食べてもその味がわからない。これを<身を修めるには、その心を正すことにある>という。》
■4章
(4-9)所謂斉其家在修其身者、人之其所親愛而譬焉。之其所賤悪而譬焉。之其所畏敬而譬焉。之其所哀矜而譬焉。之其所敖惰而譬焉。故好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮矣。
故諺有之曰、人莫知其子之悪、莫知其苗之碩。此謂身不修不可以斉其家。
[いわゆるその家を斉(ととの)うるには、その身を修むるに在(あ)りは、人はその親愛する所において譬(かたよ)る。その賤悪(せんお)する所において譬る。その畏敬する所において譬る。その哀矜(あいきょう)する所において譬る。その敖惰(ごうだ)する所において譬る。ゆえに好みてその悪を知り、悪(にく)みてその美を知る者は、天下に鮮(すくな)し。
ゆえに諺(ことわざ)にこれあり、いわく、「人はその子の悪(みにく)きを知るなく、その苗の碩(おお)いなるを知るなし」と。これを、身修まらざれば、もってその家を斉うべからず、という。]
《いわゆる<その家を整えるには、その身を修めることにある>(斉家→修身)は、人がその親しみ愛することにおいて偏る。その賤しみ憎むことにおいて偏る。その恐れ敬うことにおいて偏る。その悲しみ憐れむことにおいて偏る。そのおごり・なまけることにおいて偏る。よって、好んでその悪徳を知り、憎んでその美徳を知る者は、天下に少ない。
よって、コトワザにこうあり、(それを)いう、「人は、その子の醜さを知ることもなく、その(その子の)苗が優れているのを知ることもない」。これを<身を修めなければ、それでその家を整えることができない>という。》
(つづく)