「鎌倉殿の13人」で、伊東祐親のことを「いとうのすけちか」って言ってた。「の」は間違いじゃ? | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

「源頼朝」は「みなもとのよりとも」って「の」が入るのに、「北条政子」は「ほうじょう、まさこ」で「の」が入らない、何故なら、姓には「の」がつく、苗字にはつかない、と決まってるからだよ。
というのが、いつも私も偉そうに語っている大原則なんですが。
実は、「じゃあ、これはなんで「の」が入るの? こっちは入らないの?」という、大原則にあてはまらない例は、実は、数え上げれば山ほどあるんです。

昔の子供の流行りコトバに「ただのまんじゅう、ぶしのはじめ」ってのがあります。

漢字で書けば「多田の満仲、武士の初め」です。
清和源氏の祖先、経基王(源経基)の子・源満仲(みなもとのみつなか)が、攝津の多田庄を領地にして「ただのまんじゅう」と通称されたわけで、彼が「武士」という存在の元祖的な存在だ、てことです。
そんな歴史の教養が、なんでメンコのウラに書いてあるのか、たぶん「ただのまんじゅう」が「タダ(無料)の饅頭」みたいでおもしれえや、ってことだと思いますが。

ところで、この「多田」というのは「源」のような姓ではないわけで、「姓にはのがつく、苗字にはつかない」ってのが原則のはずなのに、なんで「ただの」なのか?

同族が増えると「源」だらけになって紛らわしいので、領地の名前をニックネーム的に名乗るようになります。浅草のユキオおじさん、というのと同じ感覚です。
この時点では、まだ「ただ、地名をアタマにつけただけ」ですから、「どこどこの何さん」というタダのあだ名です。これが代々同じ領地を受け継ぎ、同じ名前を名乗るようになってはじめて「苗字」として定着するわけです。
これが、地域差はあるでしょうが、だいたい、平安時代後期くらいからと思われます。「多田満仲」は平安時代中期のひとですが、まだ過渡期であり、「多田」は厳密には苗字として定着したものではなく、単なる「~に住んでる」という通称なので、「の」入りで呼ばれるのだ、と考えていいんじゃないかな、ということで。
つまり多田満仲の多田は、一代限りのもので、苗字ではない、ということです。

では、木曽義仲はどうか? 同様に一代限の呼称なのに、「きそのよしなか」ではなく「きそ、よしなか」です、と言われちゃいますよね。この違いは何なんだ、と。

うーん(笑)。
ここで正直に言うと、私は現在のとこと、「姓には『の』がつく、苗字にはつかない」というのは、歴史学の先生たちが集まって考えて「とりあえず、こう決めた」という」「お約束」に過ぎないんではないか、と考えています。
姓より苗字のほうを主に名乗るようになったのが平安時代の末か鎌倉時代あたりからで、そのころから名前の真ん中に「の」を入れないケースが多くなった、というのを総合して、「どうやら、姓にはのがつく、という原則になってるらしい、じゃあ、そういうふうに教科書に書くように決めよう」ということなんじゃないか。
木曽義仲の「木曽」が、単なる通称なのかそれとも苗字なのか、っていうのは、本人に聞いても分かんないでしょう。もし彼の子孫が生き残って代々「木曽」と名乗れば、それは苗字ということになりますが、結果的にそうならなかった(滅んじゃったから)というだけで。
しかし、歴史の先生たちは、「義仲の子孫を自称する木曽氏というのがいる(真田丸の最初のほうに出てきましたね、草笛光子や長澤まさみが、人質のたらい回しにされた先)。この木曽は確かに苗字で、のはつけてない。なら、『木曽義仲』は木曽氏の初代ってことになるから、これは苗字である、ってことで、いいんじゃないか?」と判断したんでしょう。たぶん。

当時の人たちが本当に「の」をつけてなかったか、ってのは、実は分かりません。ホントは「きそのよしなか」と呼ばれていたかも知れない。
でも、子孫(自称?)の木曽氏は「の」をつけていないんだから、コイツだけ「の」をつけたら、生徒が混乱するだろう。
そういうことでできた「お約束」に過ぎないのではないか、と私は思ってます。
鎌倉幕府の当時は「幕府」なんて言葉はまだなかった、とか、「鎖国」っていう言い方は幕末に言われだした言葉だ、とか、歴史には「言い出したらキリがない」話はいっぱいあって、それでも、いちいち言ってると教科書が作れない、学校で教えるのに不便でしょうがない、ってことがあるので、「とりあえず、便宜的にこう決めます」というのって山ほどあります。
「の」問題も、この類なのではないかな、と、以前に散々いろんなこと書いた末に言うのも申し訳ないですけど、「これが正解」てのはない話なのかな、と考えています。

そこで、問題の「伊東祐親」ですが、彼の祖父は「工藤祐隆」であり、もとは工藤氏です。なので↑この「工藤祐経」(小日向文世さん、かと思ったら、坪倉由幸って[我が家}か!)は、同族です。

祐親の父が伊東荘を領して以降、伊東と称していますけど、彼は河津荘の領主でもあるので「河津祐親」とも呼ばれ、河津氏の始祖とも言われます。さらに同族には「曽我」もいます。要するに、そんときそんときの領地の名前を名乗るから、親子でも兄弟でも呼び方が変わるわけです。
だとすると、この「伊東」とか「河津」とかいうのは、「苗字」と言っていいのか? いや、単にそんときの領地の名前を頭に乗っけただけの「通称」であり、まだ苗字として熟していないものなんじゃないのか? そうだとすれば「の」が入ってもいいんじゃないのか? そのほうが当時の雰囲気が出て、いいんじゃあないのか?
そう三谷幸喜が判断したとしても、あながち無理ではないような気がします。

「苗字には、の、が入らない」というのは、たぶんもうちょっと後の時代に出来たルールであって。

この時代の関東武士は「どこそこの、誰それ」と、そんときの領地の名前に「の」を付けて呼び合っていたに違いない、というのも、一つの解釈だと思います。
本当のところどうだったかは、分からないんですよ。

あなたもスタンプをGETしよう