「真田丸」では本能寺も関ヶ原もナレーションで終わらせた三谷幸喜ですから、今回の「鎌倉殿の13人」でも、いわゆる源平合戦の戦闘シーンはほとんどないものと予想されます。だって、主人公の北条義時は参加してないし、「関東武士団による美しい国の実現」というテーマ(だと私は思っています)からすれば、脇筋でしかないからです。
一ノ谷とか屋島とか壇之浦とか、そういうのはほぼ、やらないと見ます。みんなガッカリしないように、と先に言っときます、余計なお世話ですけど。
そのうえで、源平合戦、特に壇之浦で、義経というのは実は大失敗だったのだ、という話を再録します。
安徳天皇が生き残れば源氏の勝ち、安徳天皇が死ねば源氏の負けです。
何言ってるんだ、逆だろう、と言われるかも知れませんが、そうなんですよ。
壇ノ浦での義経の「勝利条件」とは何か。平家を海に沈めることではありません。
第一に「安徳天皇の生きたまま確保すること」、第二に「三種の神器を無傷で奪還すること」。これに成功すれば「勝ち」、失敗すれば「負け」です。安徳天皇を生きたまま奪還する、三種の神器を無傷で奪還する、これがどんなに重要なことか、分からなければ日本人ではありません。
「平家を滅ぼす」なんてのは、義経の私怨、つまり、親の敵を討つという「わたくしごと」です。そんなことのために「天皇家の正常な継承」という国家にとって最も重要なテーマを二の次にする馬鹿はいません。いるはずないんです。そんなこと、誰が言わなくたった分かってなきゃダメです。
どうして、安徳天皇を生かして取り返させねばならないか。
それは「安徳天皇の手から、直々に、三種の神器を後鳥羽天皇に譲り渡す」という儀式をきちんとやって、はじめて「誰にも文句の言われない継承」となり、「天皇家の神聖」が保たれるからです。
京都の後鳥羽天皇は、三種の神器がないため、まるで「仮の天皇」みたいにみられています。これを本当の天皇にするには、どうすればいいか。前の天皇を殺して、力づくで三種の神器を奪って持ってくればいいのか。ダメです。それでは「覇道」になってしまいます。天皇位は、「王道」で継承されなければなりません。もちろんあくまで形式の問題ですが、平和裏に、きちんと正式な手続きで譲位がなされて、はじめて「正統」といえるのです。
みんな誤解しています。三種の神器は、それ自体に何か霊力があるわけではありません。あれはサッカーやラグビーのボールみたいなものなんです。何でもいいからゴールに叩き込めばいいわけではありません。途中でオフサイドの反則があったら、ゴールは無効なのです。
安徳天皇を、三種の神器と一緒に京都に連れ帰り、正式な譲位をさせなければいけません。そのうえで出家させるなり幽閉するなり島流しにするなりすればいいのです。「私はまだ天皇だ」と言っている状態で死なせてしまうのが、どんだけマズイことか、分からない人間が戦争してはいけません。
平家一門だって、それが分かっていたから、幼い子供を巻き添えに海に叩き込んだんです。つまり、あてつけです。「これでもう永久に天皇家はニセモノだ、さまあみろ」というわけです。そうでなければ「この子の命だけは助けてください」というのが筋でしょう。普通、そうすると思いませんか? 誰が好き好んで一族の幼子を無意味に殺します? でも、殺さなきゃならなかった。何故なら、 「安徳天皇を生きて奪還させなければ、義経の負け、源氏の負け」だからです。
頼朝としては、安徳天皇を死なせたという失態で、御白河法皇に対して巨大な「借り」を作ってしまいました。どうでもいいことではないんです。ここからは「政治」、かけひきの季節なんです。
義経は、そのことが全然分かっていなかった。壇ノ浦は、実は源氏にとって「大失敗」だったのです。
そのことが声高に語られないのは、「しょうがないから、みんなして、知らんぷりをすることに決めた」からに過ぎません。「譲位の儀式はやんなくてもいいことにしよう、神器は作り直せばいいことにしよう」と、みんなで談合して決めたのです。オトナの解決策です。だからって、義経の失態がチャラになるわけではありません。
神器は、まあ、作り直せば済みます。しかし安徳天皇は、死なれたら取り返しつきません。
世間では「義経が神器を失った」というのが主な失敗として語られますけど、真実は安徳天皇を死なせたことのほうが遥かに「国家にとって致命的」なんです。
では、なんでみんなそれを言わないか。それを大声で言ったら、現在の天皇家の正当性が危機に晒されるからです。
つまり、安徳の死は、日本史最大のタブーなんです。だからみんな何も言わない。言わないことにしているだけです。