「阿保親王塚古墳」に思う、墓とは何か。これが誰の墓かなんて、けっこうすぐ分かんなくなるもので。 | えいいちのはなしANNEX

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昨日の「阿保親王塚古墳」のはなしのつづきです。

誤解なきように申し上げますが、阿保親王が、昔の人の古墳を横取りした、とかいうことを言ってるのではありません。

阿保親王の墓を拝みたいな、という人たちが、本物の墓がどれだかよくわからなくなっているので、適当に立派な古墳を「これじゃあないかな」って言って勝手に決めちゃう、ってことです。そうして言い伝えができてしまえば、もう、そうだということになります。
そんな原始時代でもない、平安時代の人の墓が、わかんなくなることがあるのか、これが意外と、そんなもんなんですよ。天皇陵でもなければ、いちいち墓守なんかいませんし、石碑なんかすぐに朽ちてなくなりますし。

墓、というからには、「誰々の墓」と彫った石碑が建っているものだ、という現代人のイメージが、違うんですよ、たぶん。
たとえば古墳を作った古代人は、「これは誰それ大王の墓だ」なんてことはみんな当然知ってるし、文字もないかも知れんし。あっても庶民は読めないし。だから、石碑とか建てないでしょう。
すると、百年、二百年たつと、分からなくなっちゃうのが当然だと思うんですよね。大仙古墳くらい巨大なものだって、実は誰の墓か分かんなくなって、「たぶん仁徳天皇」って適当に決めるしかないんです。ましてや、子孫があんまり繁栄しなかった在原氏の先祖ですから。ホンモノの墓がどこにあるか知りませんが(ここ以外にも、いくつか阿保親王塚と言われるものがあるらしいです)、そんなに真面目に整備してなかったんでしょう。

この阿保親王の墓も、江戸時代に毛利氏が「いかにも墓っぽく整備した」だけです。その前はただの山だったんでしょう。
藤原鎌足の墓は、たしか多武峰だかに、確かなものがあります。それは、藤原氏がのとに隆盛したからです。当然、神社も建つし、墓守もつきます。
在原氏は、そこまで隆盛しなかった、ってことじゃないでしょうか。

大仙古墳が誰の墓か分からなくなったのは、たぶん「河内王朝」というものが武烈天皇で断絶して、継体天皇による新王朝に取って変わられたからでしょう。前王朝の墓なんて、外国なら破壊されてもおかしくない。まあ、デカすぎるし、壊すほどの手間も無駄なので、放置されたわけです。

阿保親王塚と言われる塚も、たぶん現地のそこそこの実力者の墓だったんだと思います。なので、毛利氏が「これが和が先祖の墓に違いない、参勤交代の途中にあって墓参りに便利でもあるし、よし、これを拝もう」と決めたってのも、まあ、そんなところなんではないでしょうか。毛利氏がそこそこ大大名になってなければ、阿保親王の墓なんて、いまだに無いかも知れません。

 

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