阿保親王塚古墳の謎? 4世紀にできた古墳が、なんで平安時代の親王の墓に? その理由は毛利氏が! | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

兵庫県の芦屋市に、「阿保親王塚古墳」があります。平安初期の親王の墓なのに、芦屋市の立てた看板の説明文では「4世紀に作られた古墳」だと堂々と書いてあります。
つまり、4世紀の古墳を、堂々と9世紀の阿保親王の墓であると言ってるわけです。これって何なんだ、って話なんですが。

こういうことはいくらでもあって、何々天皇の墓、というものの多くは「それらしいもの」を適当にそう決めた、というものです。古墳とか墓とかは「そう信じて拝めればいい」んであって、考古学の研究というのがなかった時代には、現在の目から見れば明らかに時代が合わないものでも、「古くて立派な古墳で、それらしければいい」ということで、これは誰の墓という伝承が出来ると、それがやがて通説になってしまうんです。

いちばん有名なのは世界一でかい墓とされる「仁徳天皇陵」で、これは考古学の研究では別の大王のものである可能性がきわめて高く、いまは教科書にも地名を取って「大仙古墳」と書かれています。こんな例はいくらでもあるのですが、宮内庁は昔から仁徳天皇の墓であるとして拝んできたのだからと、登記変更みたいなことは一切しません。これは信仰の問題であって、正しい歴史云々ではないからです。


阿保親王は、桓武の長男・平城天皇のそのまた長男です。

はい、斎藤憐「クスコ」に出てくるアテノ王子(安殿)ですね。怨霊に怯えて皇位を弟に譲っちゃって、あとで後悔して、愛人のクスコ(藤原薬子)に引っ張られて乱を起こすも敗北しちゃう、ちょっと情けない王様です。

阿保親王は、父親がしくじらなければ、もしかして天皇になっていておかしくない、というか、天皇になれなかったことを恨んで怨霊になってもいいくらいの人です。

もちろん本人は穏やかな人物で、父親のせいでいちど流罪になってますが、京都に戻ったあとは普通に出世して穏やかに死んでます。とはいえ、その息子の在原業平は反逆児っぽいところもあったりで、子孫の在原氏は朝廷の主流派から外れたりして、やはり阿保親王は「丁重にお祀りすべき人物」なんです。


なので、どうしても阿保親王を拝む「墓」という実態が欲しいわけです、人間は。そこで、芦屋市にあった立派な塚(古墳)が「丁度いい」と阿保親王の墓と言われるようになります。
江戸時代中期の元禄年間、ここに長州の毛利氏が登場して、この芦屋の阿保親王の墓を大々的に修繕して立派にしよう、ということになります。

というのも、毛利氏の先祖は(かの源頼朝の政治顧問の)大江広元ですが、その大江氏の祖である「大江音人」という人物はじつは阿保親王の御落胤である、という伝承があったんです。親王が父の連座で流罪になる直前に生まれたので、将来のことを考えて家来の大枝氏の養子にした、それが音人だ、というなかなかウマイ話になってます。歴史的に本当かどうかはどうでもいいです。源氏でも平氏でもない毛利氏としては、自分の先祖が実は有名な天皇であることをアピールしたかったのでしょうし、この塚のあったのが参勤交代の途中で必ず立ち寄れる位置にあったのも丁度よかった、ようです。

やがて明治維新で長州藩が天下を取ると、阿保親王の墓はますます立派に改修されます。かつて自分の家が「これだ」と決めて大々的にPRした手前、「考古学的には、時代に合わないっすよ」と言われても、もう引っ込みはつきません。宮内庁も、これを正式に阿保親王の墓と決定しました。これはもう歴史ではなく信仰の問題でもあり、高度に政治的な事案でもあります。考古学が何と言おうと、言い張り続けるしかないんです。

と、まあ、墓に限らず、歴史の遺物ってのは、えてしてそういうものです。
大手町にある平将門の首塚、あれも同じようなもので、明らかに時代が合わない、もっと古代の古墳を、立派だからと将門の墓に決めた、というのが始まり、らしいです。こういう例は探せばいくらでもあります。偽物とか嘘とか言ってはいけません。みんなが長年そうだと信じてきた、ってことのほうが重要なんです。

 

このはなし、明日に続きます。

そういえば、エッフェル塔が、新宿ミロードの二階に立っていた。

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