渋谷で、むかしの仲間と忘年会です。おもいっきりシェイクスピアの話ができるのはここくらいなんでね。
鹿ケ谷の陰謀に参加していて流罪になったなかに、「平康頼」という名前があります。
平、というんなら、平家の一員じゃないのか、それがどうして打倒平家の陰謀に加担してたのか? と思う向きがあるかも知れませんが。なんども書くように、、「平家」と「平氏」はぜんぜん違います。
「平家」というのは平清盛の家族だけを指す言葉です。「平氏」というのは桓武天皇の子孫で「平」姓を貰ったすべての子孫を指しますから、北条氏や三浦氏など関東の武士も半分以上が「平氏」です、でも、都の貴族「平家」の親戚なんて意識はまったくありませんし、味方する理由もありません。
京都で「平のなんとか」と名乗っているひとも、みんな清盛の親戚(平家)というわけではないわけで。十代以上遡ってやっと先祖が同じ、なんていう関係は、「赤の他人」と一緒です。「源平合戦」というのを「源氏と平氏の戦い」だと思うと大間違いです。それぞれの総大将が「源頼朝」と「平清盛の息子たち」だっただけで、べつに血筋でチーム分けしたわけではないんです(これは「関東武士団の独立戦争だ」という話
は、何度もしたので、今日は割愛)。
さて、そのうえで、平康頼というひとは、どのあたりの平氏なんでしょうか。
調べてみたら、このひと、平と名乗ってはいますが、もとは中原氏です。清盛の甥の家来になって働いたので、「平」の姓をもらった、というヒトです。ですから、清盛と関係がないわけではありませんが、清盛の家族「平家」の一員ではありません。
源義朝の墓が荒れているのを見て、修理してお堂も建ててやった、と。おお、この墓、行ったことありますよ私。名古屋の近所の知多半島です。墓のまわりに大量の木刀が供えられてるんですよね、武器のない風呂場で襲われて殺された義朝に同情して、武器をそなえて供養するんです。なるほど、あれを立てたヤツか。
本来は敵である義朝の墓をわざわざ立てるのだから、というから、ちょっとした「反骨の人」ですね。この件で後白河法皇に「なかなかのヤツだ」と見込まれた、という話です。
つまり、鹿ケ谷の陰謀の時には、すでに後白河の側近になっていたわけです。清盛たち平家にとっては「むかしの飼い犬に手を噛まれた」気分だったでしょう。あくまで「家族」ではなく「飼い犬」です。
でも、なんか天晴れな人物ではあるなあ。