ナワポン・タムロンラタナリット監督、チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、サニー・スワンメーターノン、サリカー・サートシンスパー、ティラワット・ゴーサワン、パッチャー・キットチャイジャルーン、アパシリ・チャンタラッサミーほか出演の『ハッピー・オールド・イヤー』。2019年作品。

 

 

タイ・バンコク。留学していたスウェーデンから帰ったジーン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)は、実家を北欧風のミニマルスタイルにリフォームして住居兼仕事用の事務所にしようとしている。しかし、リフォームに反対の母(アパシリ・チャンタラッサミー)の説得は思うようにいかず、家中にあふれるモノたちの処分もはかどらない。元カレのエム(サニー・スワンメーターノン)から預かりっぱなしだったカメラを本人に返そうと郵送したところ、受け取り拒否で戻ってきてしまう。そこで気まずさを感じながらも彼の家を訪ねるが…。

 

バッド・ジーニアス 危険な天才たち』のチュティモン・ジョンジャルーンスックジン主演作品。

 

『バッド・ジーニアス』は映画ファンの間で評判がよかったですが、あいにく僕は観ていなくて、ただ去年の年末にこの『ハッピー・オールド・イヤー』は鑑賞リストに入れていました。

 

でもタイミングが合わず観られていなかったので、年が明けてから鑑賞。

 

恥ずかしながら、僕はこれまでタイの映画ってトニー・ジャーやジージャーがムエタイで闘ってるようなアクション物しか観たことがなくて、だからこういうわりと身近で日常的な世界を描いたリアリスティックな作品を観るのは初めてなんですよね。そういうところも新鮮でした。

 

 

出演者の演技がとてもナチュラルで、これまで僕がタイのアクション映画で観てきたようなベタで大げさな表情の芝居がまったくない。コミカルな描写すらなくて、だから日本のインディーズ系の映画で描かれるような小さな世界とよく似ているので(タムロンラタナリット監督は岩井俊二監督や是枝裕和監督の作品が好きなのだそうで)とても自然にスッと物語が入ってきました。

 

いや、トニー・ジャーの映画を批判したいわけじゃなくて(『マッハ!!!!!!!!』大好きですし)、ああいうエンタメ系の作品以外のものもあるんだ、ってことを知ることができたのが嬉しいのです。

 

終盤のある展開には、あとで「まぁ、そうだろうなぁ」とは感じたけど、観た時には軽く「あっ」と思わせられたし、人と人との関係を見つめる姿勢がとてもこまやかで、観終わったあとも余韻が残ってとても味わい深い映画だったな、と。

 

それでは、以降は映画の内容に触れますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 


これは捨てる者と捨てられる者(モノ)についての、本当に胸が掻きむしられるような気持ちにさせられる話で、映画を観ながらこれまで生きてきた中で出会った人たちのことがあれこれと頭に浮かびました。

 

 

 

借りたまま返さなかったモノたち。逆に貸したまま返ってこなかったモノたち。傷つけてしまったまま詫びを入れることもしなかった相手。おそらくはもう二度と会うことはないだろう人々。思わぬところで誰かに恨まれているかもしれないし、こちらは覚えていても先方はこちらの存在自体をまるっきり忘れている場合だってある。

ジーンは最初は「こんまり」流の断捨離を敢行して“ときめき”が感じられないモノはがんがん捨てるつもりだったが、思い立って人から借りたままになっていたモノたちを持ち主に一つずつ返し始める。その過程で相手から「あなたが私にしたこと忘れてないからね!」とキレられたりもするが(ジーンが何をしたのかは語られないし、多分ジーン本人も忘れている)、思い出を整理して“前に進むため”に彼女は知人たちにモノを返し続ける。






エムとの再会は穏やかなものだったが、やがて明らかになるかつてジーンがエムにした残酷な仕打ちはなかなかドン引くものであった。しかし、本当の残酷さはそのあと起きること。

次第に部屋からモノがなくなっていってリフォームが現実味を帯びてくるにしたがって、ジーンは大切だったはずの人との関係や思い出も自ら断ち切っていくことになる。

エムと現在のカノジョのミー(サリカー・サートシンスパー)の表情や態度から、人は見たままがすべてではないことがよくわかる。ジーンに訪ねてこられたエムの内心は怒りでいっぱいだったし、実はジーンが送ったカメラを送り返していたのはいつも微笑をたたえているミーだった。




ジーンとの再会がきっかけでエムはミーと別れることになる。ジーンが自分を納得させるためにやったことが、結果的に一組のカップルの仲を破壊した。

また、家族を置いて出ていった父親のピアノを、母を騙して売り払う。母は反対していたが、ジーンにとっては父の思い出であるピアノは捨ててしまいたいモノだった。

兄が「俺はときめく」と言っていた少女時代のジーンの誕生日に家族がそろって楽しげな様子で写っている写真はホテルに破り捨てていく。

“前に進むため”に人は誰かを傷つける。この無情な事実。

捨てなければ前に進めないことがある。そのために失うものも。

人は捨てられ、そして捨てる。そこには痛みがある。

最後にジーンが見せる涙と、無理して作る微笑(どこか、この映画の前に観た『燃ゆる女の肖像』のラストと通じるものも感じた)。

無駄なものが何もなくなったあの真っ白な家に、彼女は“ときめき”を感じているだろうか。

 

これは、何が「正しくて」何が「正しくない」のかということを白黒はっきりさせるような話ではなくて、人はそのどちらも内包しているのだ、ということを描いている。

 

それはなんとも“苦(にが)い”真理のように思える。

 

ところで、僕はタイの住宅事情とか家族間でのルールを知らないので最初から疑問を感じてしまったんですが、あちらでは実家を親の許可なく勝手に改装したりできるんですかね?

 

さまざまな思い出が残るピアノを処分しようとしているジーンを母親は「ここは私の家よ」と強い口調でたしなめるし、結局そのピアノを自分を騙して勝手に売り払ってしまった娘を母が許してそのまま家のリフォームを許可するとも思えないんですよね。だから、映画の冒頭で映し出されたリフォーム後のまるで病院のような真っ白で無駄なものが何もなくなったあの家は、ジーンが独断であのようにしたのでしょう。

 

 

 

母親だってピアノを売られてあれほど激しく罵っていたほどだから、ジーンがやったことはけっして当たり前のことではないのだろうし、僕の中の常識で考えるとありえないほど暴力的な行為なんですよね。

 

母はジーンに「(出ていった彼女の父親について)忘れたいなら勝手に忘れたらいい」と言う。それに対してジーンは「そっちこそ覚えていたいのなら勝手に覚えていればいい」と答えるんだけど、それはおかしな理屈でしょ。だからって母の大事にしてるピアノをうっぱらう権利なんかないはずで。

 

自分の仕事のための事務所が必要ならどこかにスペースを借りるなりして作ればいいんで、彼女が実家を自分の好きなようにできると思ってる根拠がわからない。

 

確かに「ゴミ屋敷」とまではいかないまでも、家中にダニだらけのガラクタのようなモノが溢れた状態ではいずれにしろ大量にモノを処分しなければならなかっただろうけれど、親の持ち家に子どもが無断で手をつけることは許されるんだろうか。

 

ジーンは友人で内装屋のピンク(パッチャー・キットチャイジャルーン)にリフォームを頼んでたけど、そういうのって親の許可なくてもできちゃうもんなの?

 

ジーンと言い合いをしたあとでも母は出かける時には娘に「一緒に行かないの?」と声をかけるし、「晩ご飯は何がいい?」と尋ねる。ちゃんと娘のことを考えてる母親なんだよね。

 

その母をジーンは兄に頼んで家から連れ出させて、その隙にピアノを売ってしまう。とても残酷な仕打ちだと思う。

 

ただし、この映画ではそのようなジーンの行為が正しかったかそうでなかったか、という結論はつけてないんですよね。だからこそ「胸が掻きむしられるような」思いがしたのですが。

 

ジーンはその後、母と和解できたんだろうか。それとも、親子の間には二度と埋まらない溝ができてしまったのか。エムやミーたちとの間のように。

 

思い入れを捨てて“ときめき”を感じられないモノはどんどん断捨離することを推奨するような“こんまり”こと近藤麻理恵さんの「片付け」に対してこの映画では疑問を投げかけるようなニュアンスで語られてはいるんですが、でも、ジーンにとって父親の思い出もエムとの恋愛も“前に進むため”にはあれほどの暴力的な方法を使って「捨てなければならなかった」ということ。

 

彼女の選択が本当に最善のものだったのかどうかはわからない。

 

なぜジーンがエムを“捨て”なければならなかったのか、彼女が本人の前でその経緯を話してはいたけれど、そこに納得のいくような理由はない。

 

 

 

のちにエムが語ったように、急に訪ねてきてカメラを返されて謝られても、彼としては黙って許すしかない。表情の変化が緩慢で見方によっては微笑んでいるようにも見えたエムだったが、内心は怒りに満ちていた。当然だろう。

 

そして、彼はかつてジーンが残していった持ち物を彼女に返して、現在の恋人のミーとも別れる。

 

そこにどういう心理が働いていたか。エムはジーンに「この罪悪感を共有してくれ」と言う。

 

またミーの方も、終始穏やかで落ち着いた雰囲気の彼女はエムととてもお似合いの女性に見えたし、だからエムは彼女との出会いでジーンから一方的に捨てられた過去の傷はもう癒えたのだろうと思わせられただけに、そうではなかったことがわかると本当にショックだった。

 

ジーンの前でミーが流した涙に、ジーンがやったことの残酷さがよりくっきりと刻印されたような印象を受ける。

 

ジーンはモノだけではなくて人も「捨てた」し、さらにそれを自分自身を納得させるために再び蒸し返すことで人の心の傷をいっそう深くえぐったとも言える。

 

そしてまた彼女自身も、自分がエムにしたのと同様のことを父からされたことを知る。

 

劇中で何度もその存在が言及されてきたジーンの父。

 

僕は途中まで死別したのかと思っていたんだけど、彼女の父はまだ生きていて、かつて家族を捨てて去ったまますでに別の家庭を持っていた。

 

あの時、ジーンは何かが吹っ切れたのだろうか。

 

ピアノを勝手に売ったジーンに激高した母は、「なんて子なの。父親にそっくりだ!」と言う。

 

捨てられた者がまた誰かを、何かを、捨てる。ジーンは「人の気持ちを考えること」を捨てたのだ。

 

僕がこの映画を観ていて一方的にジーンのことを非難する気になれなかったのは、彼女の行動が自分の中にある罪悪感を蘇らせたから。身につまされまくりだった。

 

「人の気持ちを考えると疲れる」というジーンの言葉に共感してしまった自分がいた。

 

つらい気持ちにさせられながら、それでも目を背けることができない。

 

ジーン役のチュティモン・ジョンジャルーンスックジンのたたずまいや表情がいいんですよね。

 

 

 

 

日本人とも通じるような東アジア的なとても「ミニマル」な顔立ちと、わかりやすい大げさな表現を一切しない、でも実は常に細かい変化が見られる、つまり日常でよく見る女性たちの表情。

 

兄を演じるティラワット・ゴーサワンはジーン以上に顔の表情の変化が読み取れないんだけど、でもこの兄は父に本当に「捨てられた」ことを知って泣く妹に胸を貸してその肩を抱くし、少々便利に使われ過ぎではあるが妹思いの好青年として描かれている。こういう感じの人もたまにいる。

 

この映画では、エムにしてもミーにしてもそうだったように、表面的に顔の表情から読み取った情報だけがその人のすべてではなくて、人は時に微笑みながら相反する別の感情を宿していることを描いているし、「表情」をあえて見せ過ぎないことで、でもそこに確かに存在している「思い」を強く意識させる。

 

一見テンポが緩やかで小さなことを描いているようで、とても豊かな映画だと思いました。

 

ナワポン・タムロンラタナリット監督の映画はこれまで日本では劇場で一般公開されていなかったそうなので現時点では過去の作品を観ることは難しいかもしれないですが、次回作もぜひ公開してもらいたいです。

 

 

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